明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」それから篇 10

73.『それから』愛は3回語られる(5)――女と金と死が必ず語られる

 漱石作品には女と金の話が必ず出て来るが、死もまた必ず語られる。ここで漱石作品に現れる死者の数を順に数えてみよう。もちろん金の話と同じで、厳密にカウントするのは不可能にちかいが、なるべく多く拾ってみることにする。挙げてあるもので読者が思い出さないものがあるとすれば、それはそれで構わないであろう(漱石だって忘れているであろう)。主人物の死は太字で示した。尚生死に疑義のあるものは(*)で示した。

『猫』 ①白君の4疋の仔猫 ②黒(*) ③三毛子 ④(笑い死にした)希臘の哲学者クリシッパス ⑤理野陶然 ⑥吾輩

 黒は一度死んでいたが『猫』が好評で続篇を書いたときに(おそらく漱石の不注意で)甦った。
 三毛子は吾輩の最初で最後の婦人の親友であるからには、主人物の死と言えなくもない。しかし第2篇で登場してすぐ第3篇で死ぬるところを見ると、妙に身につまされる話ではあるが、漱石にとってはやはり添え物のエピソードに過ぎまい。

坊っちゃん ①母 ②父 ③清

 坊っちゃんの清が主人物か否かは意見の分かれるところであろう。清は下女である。小間使いが世継ぎを産むことはあっても下女が主家に入り込むことはあり得ない。坊っちゃんは清がくれたお金(3円と10円)を忘れなかっただけである。だから清の望み通り寺の空いた区画を買って(借りて)埋葬したのだろう。坊っちゃんの家の墓に入ることは、少なくとも坊っちゃん個人の差配で云々出来る話ではない。

草枕 ①「ミレーのオフェリア」 ②「長良の乙女」 ③志保田の御袋様 ④納所坊主の泰安(*) ⑤志保田の嬢様(何代か前の) ⑥藤村操 ⑦久一(*) 

 同じ寺の了念によると泰安は生きており別の寺で偉くなっているというが、髪結床の親爺(江戸っ子で癇性)と小坊主のどちらの言うことを漱石は信用するか。
 従弟の久一は那美さんから兄の形見の短刀を渡され「死んで御出で」と出征する。おそらく生きて帰ることはあるまい。久一が死ぬのであれば同じく満洲に逃げるらしい「野武士」も、ということにはなるが・・・。(男運の悪い)那美さんが「野武士」と密会するシーンには、もののあわれが漂う。モデルにされた前田某が怒らなかったわけである。

虞美人草 ①小野の父(母は不詳。私生児ともいわれる) ②小夜子の母(井上孤堂の妻) ③藤尾

 ここで書くことではないかも知れないが、藤尾は自殺ではない。隠し持った毒などでは尚更ない。即死できる毒といえば青酸カリだろうが、藤尾がどこでそれを手に入れたというのか。小野との楽しい大森デートに毒薬を持って行ったというのか。藤尾は日常的に毒薬を携行している女か。であれば(藤尾が)その毒を自分にのみ使用する人物であるということを、作者はあらかじめ示しておかねばならない。小刀細工は漱石のもっとも嫌うところである。死因はおそらく漱石の未知の世界、脳出血か何かであろう。それでもお直が言ったように「猛烈で一息な死方」をしたことに違いはない。でもお直も小刀細工は嫌いだと言っている。

三四郎 ①轢死の女 ②森有礼の葬列 ③広田先生の母 ④子供の美しい葬列 ⑤(三四郎が広田先生に)「父は死にました」

三四郎』は漱石の中で(『猫』とともに)一番平和な作品である。破局があるわけでもなく誰かが死にそうになることもない。それでいてこのていたらくである。死の影の差さない小説は書けない(書く値打ちがない)とでもいうのだろうか。

『それから』 ①代助の上にいた二人の兄(早世) ②代助の母 ③菅沼の母 ④菅沼 ⑤三千代の児

 三千代もまた死を覚悟しているかのようである。いつ死んでもいいと宣うもう一人の女は『行人』のお直である。『道草』御住、『明暗』お延もその仲間ではあるが、死ぬ死ぬという人に死んだためしがないのは、漱石も書いている通りである。漱石の主人公も藤尾、K、先生と皆突然死んでいる。
 長井の父の兄を始め、佐川の因縁話に登場する維新時の人間や、アンドレイエフ「七刑人」、広瀬中佐等、挙げるべきものは他にもあるかも知れない。しかし下のような『それから』のテーマの前には、すべて霞んでしまう。

 天意には叶うが、人の掟に背く恋は、其恋の主の死によって、始めて社会から認められるのが常であった。彼(代助)は万一の悲劇を二人の間に描いて、覚えず慄然とした。(『それから』13ノ9回)

(この項つづく)