明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」それから篇 9

72.『それから』愛は3回語られる(4)――『心』からの再出発


『行人』については先に例を挙げたが、『行人』には「塵労」という(病気による中断の後の)オマケの物語がある。結局二郎の友人三沢は婚約することになったが、三沢にとっては小説の中では3人目の女であった。

 三沢のいう「あの女」。芸者。下女のような遣り手婆のような母親のような看護婦のような、性悪の年長の女が付き添っていた。

 三沢が同情した出帰りの娘さん。「Pity’s akin to love」の実際例とも取れる。「あの女」の顔はこの薄幸の娘さんによく似ていた。

 婚約者。母親が喜んでいるところをみると、三沢はやっと落ち着くことになるのだろう。

 二郎にも見合いというささやかなエピソード(あるいは懲罰)がプレゼントされる。三沢の婚約者の友という。その話を知るお節介者が3人いる。

 三沢。紹介者であるから当然だが、しかし実は話をしていない可能性もある。先方には何も言っていないで、頭の中だけで「仲介」した可能性がある。ふつうでは考えられないが、『行人』の読者なら納得する。二郎は幻の見合いをしたようにも読める。

 Hさん。後に一郎と旅行してその様子を手紙で知らせた。二郎の見合いについても成否を心配する不思議の人物。

 妹のお重。どこからその情報を得たか。「塵労」26回では坂田さんの家に行って秘密を聞いてきたというが、27回では「決して出所を告げなかった」とも書かれる。坂田さんの家で、名前を言えないある人物から聞いたのだろうか。それともまた別の秘密が二郎にはあったのだろうか。

 一郎二郎と三沢の関係はともかく、一郎の仕事仲間(大学教師)と三沢の関係が今ひとつはっきりしないのが『行人』の分かりにくさの元凶であろう。
 三沢を例えば大学人(職員でも)とするか、あるいは一郎二郎の義理の従兄弟くらいにしておけばよかったのではないか。そしてお兼さんの結婚とお貞さんの結婚を書いたのであれば、三沢の結婚まで書き切った方がよかったのではないか。どうせ鳴らすならウェディングベルは3回鳴らしてもよかった。
 三沢の立場が曖昧なのは、やはり出帰りの娘さんの存在であろう。前述したように三沢とその娘さんの間の出来事は、書かれた範囲だけでも小説として無茶苦茶である。といってあまりはっきり書くと夏目家における漱石の立場が無くなる。とまれこの一対を長野家に持ち込むわけにはいかなかったのだろう。

 そして次の『心』で、この「愛の3点セット」は突然変貌するようである。『心』はほぼ先生の遺書を活かすための小説といえるが、その遺書の中で、Kも先生も珍しく自分の意志(のみ)に基づいて行動した。その結果は二人とも死んでしまうわけだが、まずKのやったことは、

 医科から文科への突然の方向転換。(その結果養家と実家からの義絶)

 御嬢さんへの想いを突然先生に打ち明けた。(その結果先生はパニックに)

 そして突然の自裁。飛び込みでも首吊りでもなく自室での刃物による出血死。まるで切腹である。(その結果は、12年後ではあるが先生の死によって幕引きとなった)

 先生はどうか。

 Kを同じ下宿に招じ入れた。奥さんの反対を押し切ってかなり強引に。

 奥さんに御嬢さんとの結婚を申し込んだ。誰にも言わず突然。

 そして自裁。・・・実際に実行のシーンは書かれないが、少なくとも長い遺書を年下の友人に宛てて書き送った。

 これではもう、それが「魔の3点セット」であっても、3点云々など出る幕はないではないか。そのためかどうかは知らないが、以後『道草』『明暗』まで、このお馴染みの要素・モジュールは漱石の小説には見られなくなる。
 理由があるとすればただ一つ、漱石の扱うテーマが大きくなったことによる。店を拡げ過ぎて、作者に(部品を組み立ててそれを積み上げて作品を構成する)ゆとりがなくなったという見方も出来る。反対に何も計算しないで書いても芸術的には見劣りしない出来栄えになる。則天去私とはこういうことだったのか。

 繰り返すが『心』でのKの「意思決定」は、漱石の世界にあっては異例づくめである。誰から慫慂されたわけでなく自己の人生の一大事を決める。先生のそれは、まあKのコピーであろう。それでも漱石の決して成し得なかったことではある。
 坊っちゃんは校長から勧められなければ松山には行かなかっただろう。現地で一暴れして辞職したのは山嵐に誘われたからである。数学を専攻したのも偶然物理学校の前を通りかかったからであるし、そもそもそんなせっかちな人間に生まれついたのは親の遺伝のせいであるという。
 代助は自分の意志でプロポーズしたではないかと言われそうだが、代助の決断は父兄嫂、佐川の娘、そして三千代(と平岡)によってだんだん選択肢を狭められて行った結果である。代助は自分の自由意志で決めたのではなく、実際はそこに(ピンポイントに)追い込まれたのである。

 自分で決めて、その結果Kも先生も死んでしまった。
 自分で決めると碌なことがない。
 代助も、結果だけから見ると、自分自身で決断したと言い張ることも可能かも知れない。外見だけで判断するとそう見えるかも知れない。
 しかし代助は少なくとも死んではいない。それどころかどこか太平の逸民を思わせるような幸福・平凡な男として再生している(『門』の宗助を見るとそう言わざるを得ない)。

『心』だけが特殊なのか。それは主人公の死のせいか。