明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」それから篇 11

74.『それから』愛は3回語られる(6)――女と金と死が必ず語られる(つづき)


(前項よりつづき)

『門』 ①宗助の弟2人(早世) ②妹(夭折)(宗助10歳頃) ③母(宗助20歳頃) ④父(宗助26歳頃) ⑤御米の児3人(*) ⑥佐伯の叔父 ⑦伊藤博文 ⑧弁慶橋の無量の蛙の夫婦(いたずらに石で打ち殺された)

『門』は物語の進行と(語り手による)回想シーンが入り組んでいるので、ここでは暦年に従って表記した。小説に書かれたのは、⑦①④③⑥⑤②⑧の順になる。
 御米の最初の子は流産であるから厳密にいうと該当しないが(あとの二人は位牌がある)、御米にとってはやはり3人であろう。

彼岸過迄 ①宵子 ②市蔵の生母 ③市蔵の(腹違いの)妹(妙ちゃん) ④市蔵の父

 宵子(雛子)の死は鎮魂歌ともいうべき一篇の物語に結実した。ある意味では漱石作品の中で最も大きな死のエピソードであろう。

 このときのいきさつを回想した鏡子の『思い出』に、重大な誤植の箇所があって、それが百年ちかくも見過ごされたままになっていることについて、論者は前著及び本ブログでも告発したが、改造社のオリジナルも、前後して漱石全集と同じ装丁で出た岩波本も、現代の各種の文庫本も、つい最近復刻でなく再刊された単行本でさえも、すべてその誤植が踏襲されている。
 岩波の漱石全集には漱石言行録なる別巻もあり、鏡子(と松岡譲の)『思い出』はその別巻と等しい価値を持つものであるから、今や実質上も漱石全集の範疇であるといってよい。
 その中の、漱石ファンならずとも近代文学愛好者なら一読すれば誰でも気が付き、それでいて一般の読者には無用の誤解を与えてしまう、つまりすぐ訂正すべき大きな誤植である。
 故意に放置して鏡子と松岡を貶めたい、というような話でもない。あえて直さないからといって、誰かに益するわけではないのである。
 世の中にこんな不思議なことがあるだろうかと、ついでながらこの場で繰り返しておく。
漱石最大の誤植 鏡子の『思い出』1 - 明石吟平の漱石ブログ


『行人』
 ①出帰りの娘さん ②百丈禅師に死なれた香厳という坊さんの逸話

『行人』では先の『それから』のテーマが反芻される。実際に描かれた死は、出帰りの娘さんだけであるが、三沢の「あの女」も含め、死のイメジが作品全体を覆っている。よほど漱石の体調が思わしくなかったのか。

『心』 ①私の父(*) ②先生の父母(腸チフスで同時に) ③ ④乃木希典 ⑤先生

 言うまでもなく漱石の中で最も有名な物語であるが、その原因は女であり、また作品全体を金(財産)の話が覆っている。
 私の父はまだ死んでいないが、死の床にあることに違いはない。それが2年後の漱石自身の姿に生き写しであることが堪らなく不気味である。
 明治天皇崩御は畏れ多くてこんな列に加えることは出来ない。

『道草』 ①御住の最初の子(*) ②御縫さん

 御住(鏡子)の最初の子は流産であるが、ここでは『門』に倣った。『道草』では健三の親類縁者知人を含めて死屍累々、といっても実世間と変わらないので、御縫さんを除いてここでは省略した。

『明暗』 (該当者なし)

『明暗』は死者のいない漱石唯一の小説である。生(明)と死(暗)の二つの世界を描いているがゆえの「死者ゼロ」であろうか。いやいや最大の死者がいる。それは作者の漱石自身である、と言ったところで洒落にもなるまい。
 お延が最後に死ぬという考えを持つ一部の人にとっては、大変な追い風となる。論者は先ほどの主張を繰り返すのみである。「死ぬ死ぬと言って死んだ者はいない」と。
 そして漱石幻の最終作品は、前著でも少し触れたが、ライヴァルの男の許へ走った初恋の女に、改めて(始めて)自分の気持ちを告白する、女は煩悶のあまり自死する、という当然『心』に匹敵する悲劇(かどうかは別にして)となる筈であるから、つまり『明暗』は人の死なない作品であることを維持したまま、記念碑とも金字塔とも称され続けるであろう。

[付記]
清子の流産をここに加えるべきかも知れないが、本欄では原則として流産はカウントしない。御米御住の「最初の児」は小説の中での重きの置かれ方から特例としたのであるが、清子の場合はそのように切実には語られていない。吉川夫人を疑う理由はないが、清子が別の理由で保養に訪れていたとしても、津田の心境と行動が変わるわけではない。(2024.4.15付記)

漱石「最後の挨拶」それから篇 10

73.『それから』愛は3回語られる(5)――女と金と死が必ず語られる

 漱石作品には女と金の話が必ず出て来るが、死もまた必ず語られる。ここで漱石作品に現れる死者の数を順に数えてみよう。もちろん金の話と同じで、厳密にカウントするのは不可能にちかいが、なるべく多く拾ってみることにする。挙げてあるもので読者が思い出さないものがあるとすれば、それはそれで構わないであろう(漱石だって忘れているであろう)。主人物の死は太字で示した。尚生死に疑義のあるものは(*)で示した。

『猫』 ①白君の4疋の仔猫 ②黒(*) ③三毛子 ④(笑い死にした)希臘の哲学者クリシッパス ⑤理野陶然 ⑥吾輩

 黒は一度死んでいたが『猫』が好評で続篇を書いたときに(おそらく漱石の不注意で)甦った。
 三毛子は吾輩の最初で最後の婦人の親友であるからには、主人物の死と言えなくもない。しかし第2篇で登場してすぐ第3篇で死ぬるところを見ると、妙に身につまされる話ではあるが、漱石にとってはやはり添え物のエピソードに過ぎまい。

坊っちゃん ①母 ②父 ③清

 坊っちゃんの清が主人物か否かは意見の分かれるところであろう。清は下女である。小間使いが世継ぎを産むことはあっても下女が主家に入り込むことはあり得ない。坊っちゃんは清がくれたお金(3円と10円)を忘れなかっただけである。だから清の望み通り寺の空いた区画を買って(借りて)埋葬したのだろう。坊っちゃんの家の墓に入ることは、少なくとも坊っちゃん個人の差配で云々出来る話ではない。

草枕 ①「ミレーのオフェリア」 ②「長良の乙女」 ③志保田の御袋様 ④納所坊主の泰安(*) ⑤志保田の嬢様(何代か前の) ⑥藤村操 ⑦久一(*) 

 同じ寺の了念によると泰安は生きており別の寺で偉くなっているというが、髪結床の親爺(江戸っ子で癇性)と小坊主のどちらの言うことを漱石は信用するか。
 従弟の久一は那美さんから兄の形見の短刀を渡され「死んで御出で」と出征する。おそらく生きて帰ることはあるまい。久一が死ぬのであれば同じく満洲に逃げるらしい「野武士」も、ということにはなるが・・・。(男運の悪い)那美さんが「野武士」と密会するシーンには、もののあわれが漂う。モデルにされた前田某が怒らなかったわけである。

虞美人草 ①小野の父(母は不詳。私生児ともいわれる) ②小夜子の母(井上孤堂の妻) ③藤尾

 ここで書くことではないかも知れないが、藤尾は自殺ではない。隠し持った毒などでは尚更ない。即死できる毒といえば青酸カリだろうが、藤尾がどこでそれを手に入れたというのか。小野との楽しい大森デートに毒薬を持って行ったというのか。藤尾は日常的に毒薬を携行している女か。であれば(藤尾が)その毒を自分にのみ使用する人物であるということを、作者はあらかじめ示しておかねばならない。小刀細工は漱石のもっとも嫌うところである。死因はおそらく漱石の未知の世界、脳出血か何かであろう。それでもお直が言ったように「猛烈で一息な死方」をしたことに違いはない。でもお直も小刀細工は嫌いだと言っている。

三四郎 ①轢死の女 ②森有礼の葬列 ③広田先生の母 ④子供の美しい葬列 ⑤(三四郎が広田先生に)「父は死にました」

三四郎』は漱石の中で(『猫』とともに)一番平和な作品である。破局があるわけでもなく誰かが死にそうになることもない。それでいてこのていたらくである。死の影の差さない小説は書けない(書く値打ちがない)とでもいうのだろうか。

『それから』 ①代助の上にいた二人の兄(早世) ②代助の母 ③菅沼の母 ④菅沼 ⑤三千代の児

 三千代もまた死を覚悟しているかのようである。いつ死んでもいいと宣うもう一人の女は『行人』のお直である。『道草』御住、『明暗』お延もその仲間ではあるが、死ぬ死ぬという人に死んだためしがないのは、漱石も書いている通りである。漱石の主人公も藤尾、K、先生と皆突然死んでいる。
 長井の父の兄を始め、佐川の因縁話に登場する維新時の人間や、アンドレイエフ「七刑人」、広瀬中佐等、挙げるべきものは他にもあるかも知れない。しかし下のような『それから』のテーマの前には、すべて霞んでしまう。

 天意には叶うが、人の掟に背く恋は、其恋の主の死によって、始めて社会から認められるのが常であった。彼(代助)は万一の悲劇を二人の間に描いて、覚えず慄然とした。(『それから』13ノ9回)

(この項つづく)

漱石「最後の挨拶」それから篇 9

72.『それから』愛は3回語られる(4)――『心』からの再出発


『行人』については先に例を挙げたが、『行人』には「塵労」という(病気による中断の後の)オマケの物語がある。結局二郎の友人三沢は婚約することになったが、三沢にとっては小説の中では3人目の女であった。

 三沢のいう「あの女」。芸者。下女のような遣り手婆のような母親のような看護婦のような、性悪の年長の女が付き添っていた。

 三沢が同情した出帰りの娘さん。「Pity’s akin to love」の実際例とも取れる。「あの女」の顔はこの薄幸の娘さんによく似ていた。

 婚約者。母親が喜んでいるところをみると、三沢はやっと落ち着くことになるのだろう。

 二郎にも見合いというささやかなエピソード(あるいは懲罰)がプレゼントされる。三沢の婚約者の友という。その話を知るお節介者が3人いる。

 三沢。紹介者であるから当然だが、しかし実は話をしていない可能性もある。先方には何も言っていないで、頭の中だけで「仲介」した可能性がある。ふつうでは考えられないが、『行人』の読者なら納得する。二郎は幻の見合いをしたようにも読める。

 Hさん。後に一郎と旅行してその様子を手紙で知らせた。二郎の見合いについても成否を心配する不思議の人物。

 妹のお重。どこからその情報を得たか。「塵労」26回では坂田さんの家に行って秘密を聞いてきたというが、27回では「決して出所を告げなかった」とも書かれる。坂田さんの家で、名前を言えないある人物から聞いたのだろうか。それともまた別の秘密が二郎にはあったのだろうか。

 一郎二郎と三沢の関係はともかく、一郎の仕事仲間(大学教師)と三沢の関係が今ひとつはっきりしないのが『行人』の分かりにくさの元凶であろう。
 三沢を例えば大学人(職員でも)とするか、あるいは一郎二郎の義理の従兄弟くらいにしておけばよかったのではないか。そしてお兼さんの結婚とお貞さんの結婚を書いたのであれば、三沢の結婚まで書き切った方がよかったのではないか。どうせ鳴らすならウェディングベルは3回鳴らしてもよかった。
 三沢の立場が曖昧なのは、やはり出帰りの娘さんの存在であろう。前述したように三沢とその娘さんの間の出来事は、書かれた範囲だけでも小説として無茶苦茶である。といってあまりはっきり書くと夏目家における漱石の立場が無くなる。とまれこの一対を長野家に持ち込むわけにはいかなかったのだろう。

 そして次の『心』で、この「愛の3点セット」は突然変貌するようである。『心』はほぼ先生の遺書を活かすための小説といえるが、その遺書の中で、Kも先生も珍しく自分の意志(のみ)に基づいて行動した。その結果は二人とも死んでしまうわけだが、まずKのやったことは、

 医科から文科への突然の方向転換。(その結果養家と実家からの義絶)

 御嬢さんへの想いを突然先生に打ち明けた。(その結果先生はパニックに)

 そして突然の自裁。飛び込みでも首吊りでもなく自室での刃物による出血死。まるで切腹である。(その結果は、12年後ではあるが先生の死によって幕引きとなった)

 先生はどうか。

 Kを同じ下宿に招じ入れた。奥さんの反対を押し切ってかなり強引に。

 奥さんに御嬢さんとの結婚を申し込んだ。誰にも言わず突然。

 そして自裁。・・・実際に実行のシーンは書かれないが、少なくとも長い遺書を年下の友人に宛てて書き送った。

 これではもう、それが「魔の3点セット」であっても、3点云々など出る幕はないではないか。そのためかどうかは知らないが、以後『道草』『明暗』まで、このお馴染みの要素・モジュールは漱石の小説には見られなくなる。
 理由があるとすればただ一つ、漱石の扱うテーマが大きくなったことによる。店を拡げ過ぎて、作者に(部品を組み立ててそれを積み上げて作品を構成する)ゆとりがなくなったという見方も出来る。反対に何も計算しないで書いても芸術的には見劣りしない出来栄えになる。則天去私とはこういうことだったのか。

 繰り返すが『心』でのKの「意思決定」は、漱石の世界にあっては異例づくめである。誰から慫慂されたわけでなく自己の人生の一大事を決める。先生のそれは、まあKのコピーであろう。それでも漱石の決して成し得なかったことではある。
 坊っちゃんは校長から勧められなければ松山には行かなかっただろう。現地で一暴れして辞職したのは山嵐に誘われたからである。数学を専攻したのも偶然物理学校の前を通りかかったからであるし、そもそもそんなせっかちな人間に生まれついたのは親の遺伝のせいであるという。
 代助は自分の意志でプロポーズしたではないかと言われそうだが、代助の決断は父兄嫂、佐川の娘、そして三千代(と平岡)によってだんだん選択肢を狭められて行った結果である。代助は自分の自由意志で決めたのではなく、実際はそこに(ピンポイントに)追い込まれたのである。

 自分で決めて、その結果Kも先生も死んでしまった。
 自分で決めると碌なことがない。
 代助も、結果だけから見ると、自分自身で決断したと言い張ることも可能かも知れない。外見だけで判断するとそう見えるかも知れない。
 しかし代助は少なくとも死んではいない。それどころかどこか太平の逸民を思わせるような幸福・平凡な男として再生している(『門』の宗助を見るとそう言わざるを得ない)。

『心』だけが特殊なのか。それは主人公の死のせいか。

漱石「最後の挨拶」それから篇 8

71.『それから』愛は3回語られる(3)――果てしなき道(つづき)


 ここで『それから』の本題からは外れるかも知れないが、漱石の描く男と女の愛情の交流について、そのイベントなり要素が漱石によって(外形的に)どのように書かれているか、順に追ってみたい。

『猫』でまず語られるのは、吾輩と友人三毛子の儚いあるいは冗談で洒落のめしたような愛物語である。(『猫』第2篇)

 三毛子の紹介。「天璋院の御祐筆の・・・」は三毛子の発言。三毛子は知能は高い。飼い主の二絃琴の師匠と下女は性悪である。

 三毛子の病気。風邪かと思ったら肺炎らしい。しかし・・・。

 三毛子の葬儀。坊主が「ええ利目のある所をちょいとやって置きました」と言うのは古典的なギャグだが、著作権漱石にあるのか明治の落語家にあるのか、それとも日本の僧侶にあるのかは、誰も分からない。以後吾輩に浮いた話はない。

 猫より寒月の方が大切である。『猫』において寒月と富子の直接の(男女としての)交渉が書かれるのは次の3回だけである。夢かも知れないし嘘かも知れないが、とにかく小説にはこう書いてある。なおⅢの羽織を褒めるのは、ふつうの小説なら恋愛譚とは直接関係ないと言えるだろうが、漱石の場合は着物を評価することは肉の評価に直結するので、例えば寒月が富子の羽根突きしているのを見たというような話題とはまったく性格が異なる。(『猫』第2篇・第3篇)

 病気で臥せる富子は譫言に寒月の名を口にする(作り話だったが)。

 吾妻橋「はーい」返事事件(隅田川入水未遂事件)。

 寒月は富子に羽織を褒められたとニヤける。

坊っちゃん』に恋愛譚が書かれたとすれば、それは赤シャツとマドンナであろう。赤シャツはすでに遠山の母にマドンナと結婚したい意向を伝えている。一方うらなり(英語教師の古賀)とマドンナはかつて婚約していたとは言われるが、小説ではそれ以上の具体的な記述はない。(『坊っちゃん』5章・7章)

 ターナー島での釣舟の上。野だと赤シャツがマドンナの名をあげてひそひそ話。

 坊っちゃんが上手に聞き出した萩野の婆さんの話。赤シャツがマドンナをうらなりから横取りした。

 温泉行の停車場で始めてマドンナ親子を見る。赤シャツも(うらなりも)やって来るが、赤シャツの目的は温泉でなく、村はずれでの散歩デートであったようだ。

草枕』も一般に恋愛物語と呼ぶには苦しいが、那美さんは一部色情狂のように描かれ、「触れなば落ちん」という感じですらあるが、主人公と那美さんの初対面には丁寧に3ステップの手順が踏まれている。(『草枕』第3章)

 宿に着いた夜。1時10分。山続きの庭で歌をうたっていた。

 さらなる深更。部屋に入って来る。押し入れから何か取り出したもよう。

 朝。風呂場。主人公が湯から上がって戸を開けると、出会い頭の挨拶。これが正式な初対面である。主人公はおそらく全裸であったはず。

 正式な対面まで3ステップ要するのは『三四郎』にも受け継がれた。

 池の女。

 大学病院の玄関。

 引越の日の庭の正式な名乗り。

 そして前項『三四郎』の広田先生の夢の女、『それから』と続いて、『門』では何と御米の流産を3回数えたところで、もうこの話はやめたくなるが、気を取り直して『彼岸過迄』では、千代子の(市蔵に対する)言動に注目せざるを得ない。

「市さんには大人しくって優しい、親切な看護婦見た様な女が可いでしょう」
「看護婦見た様な嫁はないかって探しても、誰も来手はあるまいな」
 僕が苦笑しながら、自ら嘲る如く斯う云った時、今迄向こうの隅で何かしていた千代子が、不意に首を上げた。
「妾行って上げましょうか」(『彼岸過迄/須永の話』7回)

(病気で独り留守番の千代子に、市蔵はいつになく慰藉の言葉を掛ける)……すると千代子は一種変な表情をして、「貴方今日は大変優しいわね。奥さんを貰ったら左ういう風に優しく仕て上なくっちゃ不可ないわね」と云った。(同9回)

(鎌倉から帰って)「じゃ僕も招待を受けたんだから、送って貰えば好かった」……
「左様すると丸で看護婦見た様ね。好いわ看護婦でも。附いて来て上げるわ。何故そう云わなかったの」
「云っても断られそうだったから」
「妾こそ断られそうだったわ、ねえ叔母さん。偶に招待に応じて来て置きながら、厭に六ずかしい顔ばかりしているんですもの。本当に貴方は少し病気よ」
「だから千代子に附いて来て貰いたかったのだろう」と母が笑いながら云った。(同30回)

 千代子が市蔵と結ばれるには看護婦のような適性が必要であるという尤もな議論であるが、Ⅱでは病気の千代子から看護婦は連想されるものの、少し弱いと思われたのか、漱石は次の3点セットで千代子の思いを補強している。(同9・10回)

「妾貴方の描いて呉れた画をまだ持っててよ」

「貴方それを描いて下すった時分は、今より余程親切だったわね」

「妾御嫁に行く時も持ってく積よ」

 千代子の気持ちは索引が付いていると言ってよい。市蔵は当然知っていた筈であるが、度胸がないので自分で自分の態度を決めることが出来ない。
 この「入れ子」状態は、先に挙げた『それから』の最後の例(三千代の決意の3点セット)ですでに実行されていた。人物とイベントの重要度に比例しているのかも知れない。

 ところで(代助同様)グズグズの市蔵には、規模は異なるがもう一つの「艶福」がある。それは問題の(と論者は考える)市蔵とお作の、それこそ本当に儚い、愛の物語である。

 僕は珍らしく彼女に優しい言葉を掛けた。そうして彼女に年は幾何だと聞いた。彼女は十九だと答えた。僕は又突然嫁に行きたくはないかと尋ねた。彼女は赫い顔をして下を向いたなり、露骨な問を掛けた僕を気の毒がらせた。(『彼岸過迄/須永の話』26回)

 僕は又突然作に、鎌倉抔へ行って混雑するより宅にいる方が静で好いねと云った。作は、でも彼方の方が御涼しう御座いましょうと云った。僕はいや却って東京より暑い位だ、あんな所にいると気ばかり焦躁焦躁して不可ないと説明してやった。作は御隠居さまはまだ当分彼地に御出で御座いますかと尋ねた。僕はもう帰るだろうと答えた。(同28回)

 千代子は作が出て来ても、作でない外の女が出て来たと同じ様に、なんにも気に留めなかった。作の方では一旦起って梯子段の傍迄行って、もう降りようとする間際に屹度振り返って、千代子の後姿を見た。(同30回)

 作は市蔵との2人だけの日々がいつまで続くだろうかと思った。出来るだけ長く続けばよいと思っていたことは間違いない。それがまた哀れを誘う。

漱石「最後の挨拶」それから篇 7

70.『それから』愛は3回語られる(2)――果てしなき道


 三題噺というものがある。三種の神器というものもある。前項の話は『それから』だけに仕掛けられたトリックであろうか。単なる偶然であろうか。

 『三四郎』で露骨に描かれた「恋愛譚」が一つだけある。広田先生の夢の女にまつわる話である。漱石はこの話を3つに分けて書いている。(『三四郎』11ノ7・8回)

 20年前、森有礼の葬列で美しい少女を見た。

 20年後、夢でその少女と再会した。二人の想いは(それがあるとすれば)20年前と変わらなかった。

 三四郎は訊く。もし20年前現実にその女と知り合っていたら、貰っていたか。広田先生は答える。貰っていただろう。

 実際にどう生きたかはともかく、広田先生がこのとき魂を奪われたのは慥かであろう。女に魂を奪われるのが漱石の小説の主人公であるとすれば、『三四郎』の真の主人公は広田先生ということになる。三四郎も美禰子に魂を奪われたではないかと人は言うかも知れない。しかし初心で田舎者の三四郎は、懐疑心の固まりになったに過ぎない。疑って・迷って・悩んでいる以上、何者にも魂を奪われていない、とは言えよう。三四郎は美禰子に金を返す方を優先した。

 漱石はどうしただろう。唯一の手掛かりは鏡子の『思い出』にある。よく知られる冒頭のエピソードもまた、三題噺のようである。(『思い出』1松山行)

 駿河台井上眼科で親切な女を見知った。結婚してもいいと思ったが、母親の性格がきつかったせいか、この話は結実しなかった。

 20年後九段能楽堂で、その女に偶然再会した。

 帰宅して鏡子に「今日逢って来た。昔と変わっていなかった。こんなことを言っているのを亭主が聞いたら、いやな気がするだろうな」と言った。

 Ⅰは漱石の精神異常に結びつけて語られてもいる。監視追跡されているという妄想から、神経を病み松山に逃げ出した。漱石はその後実家に「結婚の申し込みが来ているはずだが」と確認に訪れ、驚く兄たちを烈火の如く叱りつけたという。この話の真偽はともかく、似たような話が『行人』女景清の逸話で漱石自身の口から紹介される。(『行人/帰ってから』13~19回)

 坊っちゃんは若年時ある女と関係を結び結婚を約束したが、すぐ破約を申し込んだ。(ごめんよ事件)

 20何年か後、有楽座名人会で偶然その女を見かけた。女は気の毒にも盲目になっていた。

 人に頼んで女の身元をつきとめ、二郎の父を介して女に金品を渡そうとしたが断られる。

 『行人』ではこんな外伝ばかりでなく、三沢の体験として、出帰りの娘さんとの不思議な恋愛譚が語られる。

 縁あって自分の家に引き取られた娘さんは、少し精神に異常を来たし、三沢の出掛けには必ずどこからか現れて「早く帰って来て頂戴ね」と言う。(『行人/友達』32・33回)

 その娘さんはほどなく亡くなったが、そのとき三沢が女の冷たい額に接吻したという話を、なぜか兄の一郎が知っていた。(『行人/兄』10・11回)

 後日二郎がその話を蒸し返したとき、三沢は娘さんの親戚を罵った。「何故そんなら始めから僕に遣ろうと云わないんだ。資産や社会的の地位ばかり目当てにして……」(『行人/帰ってから』31回)

 Ⅲのさらにおかしなところは、引用文に続く次の決定的なセリフである。

「一体君は貰いたいと申し込んだ事でもあるのか」と自分は途中で遮った。
「ないさ」と彼は答えた。(『行人/帰ってから』31回)

 これでは鏡子でなくても漱石の身勝手さを主張せざるを得ないだろう。

 しかし『行人』では三沢の恋愛奇譚さえ傍流である。メインテーマたる二郎とお直の物語について、『行人』ではこの二人の「愛」は存在しないように書かれているが、一ヶ所だけ例の和歌浦の一泊事件のときに、お直の口から挑発的な言葉が発せられる。(『行人/兄』32・33回)

「姉さん・・・居るんですか」
「居るわ貴方。人間ですもの。嘘だと思うなら此処へ来て手で障って御覧なさい」

「姉さん何かしているんですか」……
「先刻下女が浴衣を持って来たから、着換えようと思って、今帯を解いている所です」

「姉さん何時御粧したんです」
「あら厭だ真闇になってから、そんな事を云いだして。貴方何時見たの」

 読者は大胆なお直に驚くが、いよいよ床に入ってから、お直はエロティックでも挑発でもない、もっと生の根源的な秘密に触れるような物言いをし始める。

「あら本当よ二郎さん。妾死ぬなら首を縊ったり咽喉を突いたり、そんな小刀細工をするのは嫌(きらい)よ。大水に攫われるとか、雷火に打たれるとか、猛烈で一息な死方がしたいんですもの」
 自分は小説などを夫程愛読しない嫂から、始めて斯んなロマンチックな言葉を聞いた。そうして心のうちで是は全く神経の昂奮から来たに違ないと判じた。
「何かの本にでも出て来そうな死方ですね」
「本に出るか芝居で遣るか知らないが、妾ゃ真剣にそう考えてるのよ。嘘だと思うなら是から二人で和歌の浦へ行って浪でも海嘯でも構わない、一所に飛び込んで御目に懸けましょうか」
「あなた今夜は昂奮している」と自分は慰撫める如く云った。
「妾の方が貴方より何の位落ち付いているか知れやしない。大抵の男は意気地なしね、いざとなると」と彼女は床の中で答えた。(『行人/兄』37回)

 お直の主張は3点である。

 自分はいつでも死ぬ覚悟は出来ている。

 どこでもこれから一緒に飛び込んでみせる。

 いざとなると大抵の男は意気地なしである。

 この3点は漱石作品の中ではもはや普遍的ともいえる地位を占めているが、次の回(38回)でも念を押すように繰り返される。お直は三千代の進化形であろうか。

漱石「最後の挨拶」それから篇 6

69.『それから』愛は3回語られる(1)――漱石作品唯一のプロポーズ


 漱石の全作品の中で『それから』が独り聳え立っているところが一つある。それは主人公が女に直接愛を告白したことである。前著でも述べたが、男が女に直接プロポーズするのは代助が最初で最後である。しかるにその相手とは人妻で、(当時の)法を犯すような話であった・・・。

 それはいいとして、代助の告白はその前後を入れて都合3回なされている。

「姉さん、私は好いた女があるんです」(14ノ4回末尾)

「僕の存在には貴方が必要だ」(14ノ10回冒頭)

「では云う。三千代さんを呉れないか」(16ノ10回)

 言うまでもなく2番目が漱石作品唯一の、男が相手に直接発した求婚の言葉である。(当然Iであるべき)主語がIでなくYouであるのが漱石らしいが、プロポーズであることに違いはなかろう。代助は三千代にとっても必要な存在であったと思われるから、代助の言葉は不自然ではない。

 ところでこの代助と三千代の物語の、バックグラウンドで静かに進行していた佐川の娘との結婚話であるが、嫂が代助にいい加減で観念せよと迫る場面が、小説全体で同じく3回ある。

「御貰いなさいよ……賛成ですとも。因念つきじゃありませんか」
「先祖の拵らえた因念よりも、まだ自分の拵えた因念で貰う方が貰い好い様だな」
「おや、左様なのがあるの」(3ノ7回)

妙なのね、そんなに厭がるのは。――厭なんじゃないって、口では仰しゃるけれども、貰わなければ、厭なのと同なしじゃありませんか。それじゃ誰か好きなのがあるんでしょう。其方の名を仰ゃい」(7ノ6回)

「だから私達が一番好いと思うのを、黙って貰えば、夫で何所も彼所も丸く治まっちまうから、……そうでも、為なくっちゃ、生きてる内に、貴方の奥さんの顔を見る事は出来ないじゃありませんか」……「だって、貴方に好いたのがあればですけれども、そんなのは日本中探して歩いたって無いんじゃありませんか」(14ノ4回)

 ちょうど3回目のこの梅子の(ワンパタンの)発言の直後に、先に掲げた嫂に向けた告白がなされる。
 ちなみに『それから』は、主人公の父親がちゃんと自己の哲学を開陳するセリフ付きで登場する、漱石の中では稀有といっていい作品であるが、その父と代助の面談シーンも、丁寧に3回描かれている。

 3ノ3回~3ノ4回

 9ノ3回~9ノ4回

 15ノ4回~15ノ5回

 の3回である。最後の会見のラストシーンで、「もう御前の世話はせんから」と言われ、それで父の出番は終わっている。(代助の正式な放逐は兄の口を通して実行される。)

 繰り返しは3度まで、というルールが漱石にあったとは思えないが、音楽的な書きぶりも目立つのが漱石の小説であるからには、繰り返しの効果は当然意識されてはいただろう。
 佐川の見合い話では代助自身もこの「3回」を身を以って体験している。佐川の娘と3回対面しているのである。

 歌舞伎座での騙し討ちのような顔合わせ。(11ノ7~8回)

 自宅(実家)での会食。代助はまた騙されたと思っているが、実質上の正式な見合いである。先祖の因縁話から現世での利害。二人を結び付ける話が持ち上がってからの月日。ふつうの見合いでは、ここまでくればもう誰も断われない。(12ノ6・7回)

 翌日の新橋駅頭での一家を挙げての御見送り。「何うです此汽車で、神戸迄遊びに行きませんか」(13ノ1回)という高木の言葉を代助が首肯(うけが)えば、この結婚は確定していた。たまたまではあるが、代助は旅行に出るために準備までしていたのである。神戸行きもありうるという伏線では決してないが。

 ここまで来ると、読者は当然ある質問を思い浮かべる。代助の家に三千代が何回来たかという疑問である。

 神保町の宿から伝通院脇の借家への引越の前日。始めての訪問。門野と婆さんが些細なことで笑い合うシーンの直後にそれは描かれる。前著でも述べたが漱石作品ではヒロインがヒーローの家を訪れるとき、下女が笑う場面が挿入されることが多い。笑われたからではあるまいが、ヒーローとヒロインに期待されるような「濡れ場」はやって来ない。
 代助は翌日が引越であることを(三四郎みたいに)忘れていたが、三千代の用件は五百円の無心であった。男女の話に必ず金銭の話が絡むのが漱石の小説である。(4ノ3~4回)

 2度目の訪問。代助が昼寝をしていて出直したとき。「リリー・オフ・ゼ・ヴァレー」事件で名高い回である。三千代は借銭の使途について詫びに来た。(10ノ4~6回)

 3度目の訪問。漱石にはもう後がないことが分かっていた(らしい)。代助は門野を使って俥で無理やり三千代を呼び寄せた。いつものエレガントな代助らしくない遣り方である。いくら告白のクライマックス回だとしても。(14ノ8~11回)

 ついでながら上のⅡ(2度目の訪問)は、三千代の決心を明示する回でもある。誰もがよく知るこのときの三千代の(意図的な)行為は次の3点である。

 わざわざ買って来た(想い出の)白百合の花3本。

 このときだけの(想い出の)銀杏返し

 鈴蘭を浮かべた陶製の大きな鉢。その水を(わざとではないかも知れないが)飲んでしまう。それも代助の使用した洋盃(コップ)で。

 代助が学生時代に好きだった(と三千代が信じた)白い百合3本は、兄・代助・三千代の3人を象徴している。結局代助と三千代は「四五年前」を思い出すことにより、平岡に嫁す以前の状態に戻ることを希んだのであろう。
 鈴蘭の水を代助のタンブラで飲んだのは、三千代が代助の家の住人になってもよい(代助の墓に入ってもよい)という意志表示であろう。これは『行人』女景清の(男の喰い欠けの煎餅を横からひったくって食べた)エピソードを彷彿させる。癇性な代助と異なり、三千代は代助が口を付けたものを気にしないことにした。花器の水に中って死んでも構わないのであった。三千代は既にある種の覚悟を持って髪も結い直したのである(漱石のほとんどの女と同じように)。
 このため漱石は代助が三千代にプロポーズしたとき、三千代の拒絶の可能性をあたかも考慮していないような書き方が出来たのであろう。三千代がそこで迷ったり回答を渋ったりしたのでは、何のために2度目の訪問時に「決意の3点セット」を実行したのか分からなくなる。賽はすでに投げられていたのである。

 さらに言えば漱石があえて「四五年前」にこだわったのは、実際の年月(6年)をカウントすると、(6年が3の倍数であることにより)この「3」のトリックが明るみに出ることを(意識下で)懼れたからであろう。23歳で大学に入り、3年間の大学生活、卒業後1年間を経て、東京と大阪に分かれて3年間、合計7年間。そんな計算をするまでもなく、三四郎23歳、代助30歳で7年間経っていることくらい、作者の漱石には分かり過ぎるほど分かっている。それで入学2年目の春に三千代は兄に呼び寄せられているのである。代助と三千代が知り合って6年経っていることくらい、原稿紙の余白に簡単にいたずら書きしただけで分かるではないか。それをわざわざ「知り合って四五年」と書くのは、明らかに何か他の意図に基づいていたとしか思えない。

漱石「最後の挨拶」それから篇 5

68.『それから』年表(2)――真の問題点


 論者は先に『三四郎』の本文改訂案としていくつか挙げたが、おもむきは異なるが、『それから』でも、改めて本文改訂を提案したい。

誤 代助が三千代と知り合になったのは、今から四五年前の事で、(7ノ2回冒頭)

正 代助が三千代と知り合になったのは、今から五六年前の事で、(7ノ2回冒頭改)

誤 其年の秋、平岡は三千代と結婚した。(7ノ2回末尾近く)

正 其翌る年、平岡は三千代と結婚した。(7ノ2回末尾近く改)

 漱石の記述が矛盾していることは確かであるが、前項の問題は誤植の範疇として、読者は一応無視して読み進めることが出来る。事実そうして百年間読み継がれてきたのであろう。1年半年食い違っているからといって、それが小説の主題でない以上あげつらうことに何の意義があろうか。
 しかし例えば前項の年表の範囲に限ってみても、また別種の疑問点が探せば見つかるようである。

 菅沼の急死のあと代助と平岡は卒業する。平岡は銀行員となる。二人の交際は薄まるのがふつうである。とくに代助と平岡は互いの気質に(代助と菅沼のような)共通点がほとんどないのであるから、片方の環境が変わればもう行き来しなくなるのが世の習いである。三千代の存在があったにせよ、代助にとっては無二の親友を失った直後であるにせよ、卒業後の1年間代助と平岡が兄弟同様の交わりをしたというのは、にわかには信じ難いことである。銀行員は今も昔も多忙である。専門知識も身に付けなければならない。平岡に学生時代のような閑暇があったとはとても思えない。おまけに代助はその間に過度の芸者買いまでこなしている。代助の放蕩は三千代を周旋した後の欠落感の穴埋めではなかろう。少なくとも漱石はそういう書き方をしていない。代助はただただ(時任謙作みたいに)放蕩した。

・新社会人平岡との濃厚な付き合い。

・三千代と平岡の恋のまとめ役。

・借金するほどな芸者買い。

・洋書の繙読、専門分野の研究継続。

 代助はこの年、これらをいっぺんにやったというのだろうか。頭と理屈が先行してなかなか実行が伴わない代助に、こんなバイタリティがあったのだろうか。

 まあこれには漱石サイドの反論も可能である。菅沼の急死を受けた卒業試験の前後。気分が昂ぶってつい芸者買いにのめり込んだ。それはすぐに兄に金を出してもらって、自分にその方面の欲求が強くないことを確認しただけで終わった。そして1年間、三千代の存在を忘れることなく平岡の余暇に目一杯付き合い、その結果として三千代を平岡に周旋することもやり遂げた。読書や研究は代助の「仕事」であるから、平岡が出仕している間は、代助の時間はそれに費やされた、というわけであろうか。
 そうかも知れない。サラリーマンが会社人間になってしまうのは戦後か少なくとも昭和の話かも知れない。銀行員平岡と高等遊民代助が、1年間兄弟のように交際してはいけない、という決まりはない。いずれにせよ読者が文句をつけることではない・・・。

 しかし宮仕えが大変なのは江戸時代からの変わらぬ真実であろうし、芸者買いに厭きた代助が三千代を平岡に与えたとすれば、その3年後、後悔する代助の論陣の張り方は、また別のものになりはしないか。また東京で余暇を学生時代の友人と過ごす平岡が、大阪へ行くと会社のダークなところに、大した必然性もなくどっぷり漬かってしまうのも、便宜的ではないか。現代の読者としては、何かおかしいという感じを拭えない。漱石のせいではないかも知れないが。