明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」それから篇 4

67.『それから』年表(1)――結婚は最初から破綻していた


 『それから』の物語の今現在は、前述のように明治42年で問題ない。そこで『それから』のおおよその年表を作ってみる。代助たちの大学入学から、三千代の上京、菅沼の急死、卒業、結婚、転勤、そして物語の始まる平岡の転地。その7年間は物語のそこかしこで語り手と主人公によって振り返られる。その記述を小説の進行に従って順に追うことにする。

 車をがらがらと門前迄乗り付けて、此所だ此所だと梶棒を下さした声は①慥かに三年前分れた時そっくりである。(『それから』2ノ1回)

 代助と平岡とは中学時代からの知り合で、②殊に学校を卒業して後、一年間というものは、殆んど兄弟の様に親しく往来した。(2ノ2回)

 ③一年の後平岡は結婚した。同時に、自分の勤めている銀行の、京坂地方のある支店詰になった。(2ノ2回)

 ④平岡からは断えず音信があった。(2ノ2回)

 ⑤そのうち段々手紙の遣り取りが疎遠になって、月に二遍が、一遍になり、一遍が又二月、三月に跨がる様に間を置いて来ると、……(2ノ2回)

 ⑥現に代助が一戸を構えて以来、約一年余と云うものは、此春年賀状の交換のとき、序を以て、今の住所を知らした丈である。(2ノ2回)

 ⑦三千代は東京を出て一年目に産をした。生れた子供はじき死んだが、それから心臓を痛めたと見えて、兎角具合がわるい。(4ノ4回)

 廊下伝いに座敷へ案内された三千代は今代助の前に腰を掛けた。そうして奇麗な手を膝の上に畳ねた。下にした手にも指輪を穿めている。上にした手にも指輪を穿めている。上のは細い金の枠に比較的大きな真珠を盛った当世風のもので、⑧三年前結婚の御祝として代助から贈られたものである。
 三千代は顔を上げた。代助は、突然例の眼を認めて、思わず瞬を一つした。(4ノ4回)

 実を云うと、代助は今日迄まだ誠吾に無心を云った事がない。尤も⑨学校を出た時少々芸者買をし過ぎて、其尻を兄になすり付けた覚はある。(5ノ5回)

「まだ、そんなものフランネルの赤ん坊の着物)を仕舞っといたのか。⑩早く壊して雑巾にでもしてしまえ」(6ノ4回)

 ⑪代助が三千代と知り合になったのは、今から四五年前の事で、代助がまだ学生の頃であった。(7ノ2回)

 この菅沼は東京近県のもので、⑫学生になった二年目の春、修業の為と号して、国から妹を連れて来ると同時に、今までの下宿を引き払って、二人して家を持った。その時妹は国の高等女学校を卒業したばかりで、⑬年は慥十八とか云う話であったが、派手な半襟を掛けて、肩上をしていた。そうして程なくある女学校へ通い始めた。(7ノ2回)

 ⑭四人はこの関係で約二年足らず過ごした。すると菅沼の卒業する年の春、菅沼の母と云うのが、田舎から遊びに出て来て、……それが一週間の後窒扶斯と判明したので、すぐ大学病院へ入れた。三千代は看護の為附添として一所に病院に移った。病人の経過は、一時稍佳良であったが、中途からぶり返して、⑮とうとう死んでしまった。そればかりではない。窒扶斯が、見舞に来た兄に伝染して、これも程なく亡くなった。国にはただ父親が一人残った。(7ノ2回)

 ⑯其年(菅沼の死んだ年)の秋、平岡は三千代と結婚した。そうしてその間に立ったものは代助であった。尤も表向きは郷里の先輩を頼んで、媒酌人として式に連なって貰ったのだが、身体を動かして、三千代の方を纏めたものは代助であった。(7ノ2回)

 ⑰結婚して間もなく二人は東京を去った。国に居た父は思わざるある事情の為に余儀なくされて、これもまた北海道へ行ってしまった。(7ノ2回)

 彼(菅沼)は⑱三千代を呼ぶ前、既に代助に向ってその旨を打ち明けた事があった。その時代助は普通の青年の様に、多大の好奇心を以てこの計画を迎えた。
 ⑲三千代が来てから後、兄と代助とは益親しくなった。……三人はかくして、巴の如くに回転しつつ、月から月へと進んで行った。有意識か無意識か、巴の輪は回るに従って次第に狭まって来た。遂に三巴が一所に寄って、丸い円になろうとする少し前の所で、忽然その一つが欠けたため、残る二つは平衡を失った。
 ⑳代助と三千代は五年の昔を心置なく語り始めた。語るに従って、現在の自己が遠退いて、段々と当時の学生時代に返って来た。二人の距離は又元の様に近くなった。
「あの時兄さんが亡くならないで、未だ達者でいたら、今頃私はどうしているでしょう」と三千代は、その時を恋しがる様に云った。(14ノ9回)

 ㉑「僕は三四年前に、貴方に左様打ち明けなければならなかったのです」(14ノ10回)

『それから』年表

明治35年9月 入学。23歳。

明治36年春 三千代18歳上京。兄菅沼と家を持つ。(⑫⑬⑱⑲)
明治36年夏 代助(平岡も)、次第に三千代と親しくなる。(⑪⑳)

明治37年 4人の親密な交際(2年弱続いた)。(⑭)(⑪⑳)

明治38年春 菅沼チブスで急死(母親も)。三千代は父親と取り残される。(⑮)
明治38年7月 卒業。平岡就職。爾来1年間、代助と平岡は兄弟同然の行き来をする。(②㉑)
明治38年秋 (秋結婚説)其年の秋、平岡と三千代の結婚。(⑯)
明治38年 代助放蕩。(⑨)

明治39年春 (春結婚説)平岡と三千代の結婚。(③⑧)
明治39年春 平岡大阪へ転勤。頻繁な文通。(①④⑰)
明治39年秋冬 三千代出産、子供夭折。(⑦)

明治40年 文通漸減。(⑤)

明治41年 あまり文通しなくなる。(⑤)
明治41年 代助神楽坂へ引越独立。(⑥)

明治42年1月 年賀状で住所変更通知。(⑥)
明治42年春 物語の始まり。代助30歳、三千代24歳。

 最初に気付いてかつ最大の疑問は、平岡と三千代の結婚時期である。卒業後1年間代助と平岡は兄弟同然の交際をして、その成果として平岡と三千代は結婚する。同時に二人は大阪へ引っ越すのである(③)。しかるに⑯では、結婚は菅沼の死んだ年の秋であるという。これは漱石の書き損ないではないか。結婚は菅沼の死んだ翌年(卒業の翌年)が正しい。秋でもいいが、結婚のすぐあと転勤するのであるから、結婚は春の方が自然である。

 もう1点は⑪の、代助が三千代と知ったのが4、5年前というくだり。三千代の上京は入学翌年だから明治36年である。じきに親しくなり明治36年後半から菅沼の亡くなる明治38年春までの「2年弱」4人の親密な交際が続くのである。彼らの出逢いは6年前である。
 漱石は菅沼兄妹の同居を「学生になった二年目の春」と書いた。明治35年9月入学(7月入学でも)の者が「2年目の春」と言うとき、それは明治36年春でなく明治37年春を指すと言えなくもない。しかし明治38年春には菅沼は亡くなり、7月には代助たちも卒業してしまうのであるから、「約2年足らず」の4人の蜜月期間とは、やはり明治36年初夏から明治38年春の期間を言うのだろう。漱石は1年勘違いをしたのではないか。

 広瀬中佐の戦死(明治37年3月)について、漱石は「四五年後の今日」(13ノ8回)と書いている。5年を4、5年と書くのはいい。代助と三千代が⑳で「五年の昔」を懐かしむのもいいだろう。しかし6年を4、5年と書くのは、やはり勘違いの範疇ではないか。

誤 代助が三千代と知り合になったのは、今から四五年前の事で、(7ノ2回冒頭)

正 代助が三千代と知り合になったのは、今から五六年前の事で、(7ノ2回冒頭改)

誤 其年の秋、平岡は三千代と結婚した。(7ノ2回末尾近く)

正 其翌る年、平岡は三千代と結婚した。(7ノ2回末尾近く改)

 でもこれはまあ、校正の(編集者の)問題であろう。漱石は胃の痛みという尤もな理由があった。校正者には理由がない。

漱石「最後の挨拶」それから篇 3

66.『それから』内容見本(2)――2ノ1回全文引用(つづき)


(前項よりつづき)

 物語は(『三四郎』と違って)高等商業の学校騒動、『煤煙』、日糖事件等の記述から、明治42年以外の何物でもないことが分かるが、平岡の上京の季節もまた明示されている。代助の父も同時期関西へ旅行していて、それは佐川の見合い話のためでもあったが、念の入ったことにその父も後段で関西の桜の話をする。
 物語はそれから梅雨が明けて夏らしい日差しが強くなってくるまでの約4ヶ月間、これは『三四郎』の9月~12月の4ヶ月間に同じ。漱石も同じリズムで書き、読者も同じリスムで読めるので、『三四郎』のファンは『それから』のファンでもある筈である。執筆自体も6月から8月中旬まで、暑い時期にさらに暑くなるストーリー、最後には主人公も赤く焼け尽くされるという、これまた念の入りようである。

「向こう」というのは大阪のことである。漱石は平岡の転勤を「京阪地方のある支店詰め」(2ノ2回)としか書かない。しかし平岡の上司の支店長が東京へ戻る順番しか気にしていないことを見ても、この場所が大阪(市)であることは明らかである。父の浪士時代の京都、上記でも述べた佐川の家を神戸とはっきり書いているにもかかわらず、平岡と三千代の3年暮らした街を、なぜちゃんと大阪と書かなかったのだろう。三千代の(菅沼の)出自も「東京近県」(7ノ2回)とぼかしているが、この気まぐれな秘密主義は『明暗』でも活躍する。
 もちろん漱石の意図はよく分かる。例えば平岡夫妻の関西時代にあまりリアリティを(生活臭を)感じさせないようにして、その分伝通院脇の今の生活の印象を強調するのだろう。しかし似たようなことは前にも述べたが、「大阪」「大阪辺」に置き換えてそのくだりを読んでみても、作品の印象は変わらないのである。まあ漱石の代弁をすれば、漱石は頭の中に在ることを正確に書いているので、どのように書いても同じと言えば言える。

 このくだりも解釈は難しい。世間話の出来ない漱石としては(少しはしたであろうが)、通りすがりに天気の話をされても返答に困るのであろうが、例えば何を言われても鸚鵡返しに同じことを言っておけば済むところを、真面目に論理建てで喋ろうとするのであろう。代助と平岡は互いに無意味な問答をしないことで友情を繋ぎ続けてきたとは想像される。

 これも同じ。読者は代助と平岡が(『明暗』の津田と小林のように)なぜ親友たりえたか不思議に思うところであるが、互いに世辞を言わない、心に無いことは言わない、『心』の御嬢さんの言葉を借りれば、空の盃で献杯の応酬をしないという点に、共通点を見出したのだろうか。婆さんの意味のないおしゃべりと愛想笑いに、ふたり揃って無視を極め込む。そういうところは妙にウマが合うのである。

 そしてどうでもいいことでもちゃんと確認をする。いい加減な性格のようでいてその実まじめなのである。対人関係に誠実なところがあるのである。

「ありゃ何だい」「婆さんさ」

 言わなくてもいいこと、場面のリアリティにあまり寄与しそうにないこと、おそらく並の作家なら書かないで済ませたであろう会話をちゃんと書く。これもまた百年の命脈を保つ漱石の秘密(のごく一部)であろうか。
 しかしここでは別の不可解さに直面する。平岡は玄関で婆さんに俥代を立て替えてもらっているのである。婆さんが使用人であると分かっていたからこそ20銭借りたのであろう。もし婆さんがこの家の使用人でない場合は、(「コロンボ」みたいな)ギャグ(事故)になるわけだが、その金は所詮代助の金であるから、婆さんに重ねて礼を言う話ではないだろうが、それでも「ありゃ何だい」はないだろう。金に細かいのが漱石の小説であるからには、読者は先程の20銭の顛末について気にせざるを得なくなる。

 先に「漱石作品最大の謎」で述べたように、独身者は小間使いの年齢にも気を配らねばならない。代助もちゃんと分かっている。続く『門』でも小六との同居に当たって漱石は細心の注意を払っている。しかるにその次の『彼岸過迄』で漱石はおもむろに市蔵と作を二人きりにする。それはそれで作者として小説の結構であるから構わないとして、市蔵の母がそのことに無関心なのはおかしいと論者は不満を述べた。このときの代助ももちろん論者に同意見だと思われる。

 代助は少し顔を赫らめた。代助は(「坊っちゃん」のように)結婚したくてたまらぬほどでないにせよ、結婚する用意は十分にある。嫂への遁辞にかかわらず代助には結婚願望がある。佐川の娘をすぐに切り捨てなかったのもそのためである。その代助が小説の終盤で三千代に向き合ったとき、漱石は代助の(三千代も)性的衝動を完全に抑え込み、代助による三千代の救済に「対価」を示さなかった。代助の愛は無報酬の愛であった。
 漱石は『それから』の結末について、「本来なら宗教に持って行くべきだろうが今のおれがそれをすると嘘になる」(林原耕三による)と言ったという。しかしこんな「宗教的な」話があるだろうか。代助の倫理は『それから』全体を救済していると思われるが、その倫理感は代助本人の潔癖性を超えて、いっそ宗教的ではないか。

 先の(⑦の)「それから」と、この三千代の名前を出す前に「ぴたりとやめた」の2つが、この小説の内容をよく表している。その意味でもこの2ノ1回は、『それから』を象徴する回である。この上手な、言い方を変えればあざとい手法は、『猫』や『坊っちゃん』には見られないものである。そしてその芽は日増しに大きくなり、『明暗』では連載回ごとに用いられさえする。読者の好みはあろうが、漱石はそのどちらも上手くこなしたと言える。

漱石「最後の挨拶」それから篇 2

65.『それから』内容見本(1)――2ノ1回全文引用


 いきなり大きく構えてしまったので、次は反対に本文に即して細かい観察を試みることにする。見本として、2ノ1回を採り上げる。
 青色で示した引用本文は、「三四郎篇」同様岩波書店版の漱石全集(初版1994年5月)・定本漱石全集(初版2017年5月)に拠る(ただし現代仮名遣いに直した)。

 着物でも着換えて、此方から平岡の宿を訪ね様かと思っている所へ、折よく先方から遣って来た。①車をがらがらと門前迄乗り付けて、此所だ此所だと梶棒を下さした声は慥かに三年前分れた時そっくりである。玄関で、取次の婆さんを捕まえて、②宿へ蟇口を忘れて来たから、一寸二十銭借してくれと云った所などは、どうしても③学校時代の平岡を思い出さずにはいられない。代助は玄関まで馳け出して行って、手を執らぬばかりに旧友を座敷へ上げた。
「どうした。まあ緩くりするが好い」
「④おや、椅子だね」と云いながら平岡は安楽椅子へ、どさりと身体を投げ掛けた。⑤十五貫目以上もあろうと云うわが肉に、三文の価値を置いていない様な扱かい方に見えた。それから椅子の脊に坊主頭を靠たして、一寸部屋の中を見廻しながら、
「⑥中々、好い家だね。思ったより好い」と賞めた。代助は黙って巻莨入の蓋を開けた。
「⑦それから、以後どうだい」
「どうの、こうのって、――まあ色々話すがね」
「もとは、よく手紙が来たから、様子が分ったが、近頃じゃ些とも寄さないもんだから」
「いや何所も彼所も御無沙汰で」と平岡は突然眼鏡を外して、脊広の胸から皺だらけの手帛を出して、⑧眼をぱちぱちさせながら拭き始めた。学校時代からの近眼である。代助は凝とその様子を眺めていた。
「僕より君はどうだい」と云いながら、細い蔓を耳の後へ絡みつけに、両手で持って行った。
「僕は相変らずだよ」
「相変らずが一番好いな。あんまり相変るものだから」
 そこで平岡は八の字を寄せて、庭の模様を眺め出したが、不意に語調を更えて、
「⑨やあ、桜がある。今漸やく咲き掛けた所だね。余程気候が違う」と云った。話の具合が何だか故の様にしんみりしない。代助も少し気の抜けた風に、
「⑩向こうは大分暖かいだろう」と序同然の挨拶をした。すると、今度は寧ろ法外に熱した具合で、
「うん、大分暖かい」と⑪力の這入った返事があった。あたかも自己の存在を急に意識して、はっと思った調子である。代助は又平岡の顔を眺めた。平岡は巻莨に火を点けた。その時婆さんが漸く急須に茶を淹れて持って出た。今しがた鉄瓶に水を注してしまったので、煮立るのに暇が入って、つい遅くなって済みませんと言訳をしながら、洋卓の上へ盆を載せた。⑫二人は婆さんの喋舌てる間、紫檀の盆を見て黙っていた。婆さんは相手にされないので、独りで愛想笑いをして座敷を出た。
「⑬ありゃ何だい
「婆さんさ。雇ったんだ。飯を食わなくっちゃならないから」
「御世辞が好いね」
 代助は赤い唇の両端を、少し弓なりに下の方へ彎げて蔑む様に笑った。
「今までこんな所へ奉公した事がないんだから仕方がない」
「君の家から誰か連れて来れば好のに。大勢いるだろう」
「⑭みんな若いのばかりでね」と代助は真面目に答えた。平岡はこの時始めて声を出して笑った。
「若けりゃ猶結構じゃないか」
「とにかく家の奴は好くないよ」
「あの婆さんの外に誰かいるのかい」
「書生が一人いる」
 門野は何時の間にか帰って、台所の方で婆さんと話をしていた。
「それぎりかい」
「それぎりだ。何故」
「細君はまだ貰わないのかい」
代助は心持赤い顔をしたが、すぐ尋常一般の極めて平凡な調子になった。
「妻を貰ったら、君の所へ通知位する筈じゃないか。⑯それよりか君の」と云いかけて、ぴたりと已めた。(『それから』2ノ1回全文)

 平岡は代助の新しい家(借家)を知らない。代助は年賀状で始めて住所を知らせたという。転地するという(2週間前に届いた)平岡の手紙に驚いたが、いきなり訪問を受けるつもりもなかったであろうことは、冒頭の「こっちから宿を訪ねようと思っていた」という記述からも伺われる。平岡に例えば地図入りの手紙を出していたとはとても思えない。
 代助の家(神楽坂藁店)は坂のどん詰まりの分かりにくいところにある筈であるが、このくだりを読む限りでは、平岡が始めての家を訪れるような感じはしない。平岡の性格をよく表しているともいえるが、俥で勢いよく乗り着けたのは不思議だという気もする。

 20銭の「寸借詐欺事件」については前著でも取り上げた。蟇口を忘れたのにその夜代助と外で一杯やった平岡は電車で宿へ帰る。電車代はどうしたのか。代助から更に借りたのか。おしゃれな代助は当然金は持って出たであろうが、小銭までジャラジャラ懐中していたのだろうか。平岡は庭先でああは言ったものの、ポケットに銅貨くらいは忍ばせていたのか。
 論者は平岡が20銭の俥代を15銭に値切って帰りの電車賃を確保していたと推測したが、むろん為にする話である。

 いきなり「学校時代の平岡」という言葉が遣われるが、代助と平岡は卒業してからの1年間、ほとんど兄弟同様の付き合いをしたと書かれるから、濃厚な記憶に新しい1年間を跳び越えて、その前の(3年間の)学生時代の平岡を思い出したことになる。金銭にだらしないところのあった学生時代、卒業して銀行に入った1年間はそうではなかったのだろうから、漱石がそう書くのは理屈には合っているが、代助としては器用な思い出し方をしたものである。
 漱石も気が引けたのか、そのあとの平岡が眼鏡を汚いハンケチで拭く箇所でも「学校時代からの近眼である」と学校時代を重ねている。要は金銭にこだわる漱石はついそういう書き方をしてしまうのであろうか。

 平岡は代助の家に洋間があることに感心した。下宿に毛の生えたような、『三四郎』の広田先生の家くらいに思っていたのだろうか。しかし平岡はそれこそ学生時代から南青山の長井の家に何度も遊びに行っていたのであるから、洋間や椅子くらいでは驚かないはずである。使用人が大勢いることも知っている。代助の家は裕福なのである。30歳で洋間。思い切ったのは漱石の方であろう。

 この記述は難解である。関西でしくじってこんな扱いになってしまったのか。もともと平岡にはこんなところがあるのか。後の記述を見ると平岡の性格に豪放磊落・野武士的なところはないから(漱石の登場人物にそういう男は出て来ない)、このときの平岡はやはり半分捨て鉢になっていたのか。だとすると、少し勇み足のような感じも受ける。代助は「手を取らんばかりに」平岡を迎えたのである。このあとに語られる平岡の失敗の、前触れとしての描写とも取れなくもないが、漱石はそんな細工は嫌いであろう。

 これも④に同じ。平岡は代助の新居については殆ど何も聞かされていない状態である。同時に代助の新居についてそれほど関心があるとは思えない。平岡は代助が結婚を前提に引っ越した可能性を考えているが、せいぜいその程度である。それとも平岡は世辞を言ったのだろうか。平岡は世辞を言う人間か。

「それから」という言葉が小説の中で使われる。それを象徴するかのように、この回(2ノ1回)は『それから』の全体像を明示している回でもある。『それから』はおそらく小説の本文でタイトルが参照されるほとんど最後の作品であろう。以後漱石は小説のタイトルに独自の趣味を発揮するようになる。
 『門』はこじつけである。弟子がこじつけたのであるが、漱石も(評判の悪い)参禅シーンで、それに乗ったように見えるが、三題噺じゃあるまいし、小説『門』は、(宗門・山門という意味での)門という言葉とは無関係の小説である。

 眼をぱちぱちさせる人物は、平岡のあと、『門』の宗助、『彼岸過迄』の森本に(3作品連続して)受け継がれて、いったん絶滅したかに見えたが、最後『明暗』の小林で不死鳥のごとく蘇った。思うに余裕のない生き方をしている(と漱石が判断した)人物に固有の癖なのであろう。
 『それから』では平岡だけでなく、代助が1回だけ瞬きをしている。三千代が始めて代助の家にやってきたとき、

 三千代は顔を上げた。代助は、突然例の眼を認めて、思わず(またたき)を一つした。(4ノ4回)

 ここでの瞬きは数回でなく1回きりであるから、同列には扱えないが、このときの代助が余裕を失っていることは確かであろう。漱石も眼が大きく綺麗なので、ぱちぱちさせればそれはそれで目立ったであろう。

(この項つづく)

漱石「最後の挨拶」それから篇 1

64.『それから』はじめに――『それから』最大の謎


三四郎』の野々宮君(野々宮さん)と広田先生を最後に、漱石作品から君さん付けは姿を消した。漱石は真顔になったと言うべきか。真に職業作家になったと言うべきか。あるいは余裕がなくなってつまらなくなったと言うべきか。「折角の面白い子を種なしにした」(『たけくらべ』)とまでは誰も言わないにせよ、初期の親しみのある作品群は永遠に失われてしまった。
 しかしそのために(ばかりでもなかろうが)、漱石の『それから』から『明暗』に至る(7つの)作品が、永遠の輝きを有ったとすれば、それもまた(天に)感謝すべきであろう。もちろん『猫』から『三四郎』に至る作品群も、永遠で独自の輝きを放っているが。

 さてこれまで『三四郎』について長々と講釈を垂れたが、最後は(山田風太郎のおかげで)「宮本武蔵」まで飛び出し、訳が分からなくなったところで、いよいよ『それから』である。
 新聞連載は明治42年6月から10月まで。小説の筋はともかく、タイトルも登場人物も、物語としての時代背景も語り口も、執筆スピードさえ、ほぼ『三四郎』の続編とみて差し支えない。(漱石の言い方を借りれば)最後に主人公は奇妙な境遇に陥るが、その具体的な記述は殆どないので、それもまた『三四郎』に近い印象を与える。その代助も、年齢的には野々宮のスライドであるが、三四郎が(7年たって)成長したというよりは、三四郎がそのまま30歳になってしまったような感じではある。もちろん代助は都会人であるが、三四郎が7年の東京暮らしで田臭を脱したと言えなくもない。

 そんなことはどうでもいいとして、『それから』全110回の最大の問題点は、前作でも指摘したが、代助(と漱石)が佐川の令嬢との結婚話を断る前に、一刻も早く三千代に求婚しなければならないと、(論理の帰結として)信じ込んだ、ということであろう。

 代助は嫂に自分の心を打ち明けた。(戻ってもいいのだが)もう後戻りは出来ない。三千代に向かって行くばかりである。それはいい。すみやかに三千代に告白すべきであろう。代助は天意に従うか意志を発揮させるか悩んでいた。この場合、三千代を奪うのが天意であり自然であるというのが漱石の(小説における)論理である。三千代を諦めるとすれば、(己を抑えて社会倫理には背かないでおこうという)意志を通さなければならない。そのどちらも詰まるところは自分の「意志」ではないかという考えは、漱石にはない。
 ここでは漱石の理屈に従うとしても、どちらを選ぶかは結局は代助の決断次第である。代助の好きにしていい話である(つまり代助の意志である)。佐川の結婚話は三千代には関係ない。むしろ代助が気にすべきなのは、三千代の反応の方であろう。姦通罪の時代である。三千代が驚いて逃げ出す可能性を、代助も漱石も考慮したふしがない。
 といって、三千代に断られたら佐川の娘に行こうと、代助が一瞬たりとも思っていなかったことも確実である。であれば尚更、代助が父へ佐川を断る前に三千代との決着をつけなければならないと焦った理由が分からない。
 佐川との見合い話は代助と父の問題であるから、代助が三千代に告白するしないということとは別の話である。代助がどうしても三千代をあきらめ切れないというなら、むしろ佐川の娘との縁談など始めからきっぱり断るのが自然である。

 代助が一番気にしたのは、父に断りを言うときに、嘘を吐くことであった。今までぐずぐず佐川の見合い話を引っ張っていたのは、もちろん代助の優柔不断であるが、代助は父や嫂に(嘘は言わないまでも)いい加減なことを言って逃げていたともいえる。代助は父に最終結論を述べる際に、嫂にしたようには出来なかったというのだろうか。

「父さん、私は好いた女があるんです」(架空のセリフ)

 父に言えないことを嫂には言ったとすれば、その理由が読者の腑に落ちる様にする必要があるのではないか。代助の父は実の親であり、(志賀直哉みたいに)別に不仲なわけではない。嫂はいくら気心が知れているとはいえ一家の中では他人である。(恋心の告白は親族に第一にすべきと主張しているわけではない。第一はむろん相手に直接、であるし、第二は誰にも言わない、であろう。第三の選択肢ということでいえば、『心』のように、友にすることがふつうであろう。『それから』の場合は、漱石は佐川の話を被せることによって、代助の恋心を巧みにはぐらかすようなストーリーになっている。)
 代助は父に、嫂にしたようには告白する自信が持てなかったがゆえに、父への最後通告がこれまで通りのらりくらりとはぐらかすような仕儀に陥ることを恐れた。これまで代助が取ってきた態度、結論の先送りは「嘘」とは異なる。しかし代助はもう結論を言わなくてはいけない局面に差し掛かっている。ここで今までと同じような顔をして、「気が進まないから」とだけ言って話を断ることは、父に嘘を吐くということである。代助はそれを懼れた。

 嘘を吐くということを何よりも懼れた漱石は、代助が父にいつまでも嘘を言わなくて済むように、先に三千代との話を完成させたかった。三千代と関係を「既成事実」にしてしまえば、もう代助は嘘を言う必要がない。のらくらで逃げるわけにはいかない。あるいはのらくらで逃げる必要がない。
 ところが代助は希望通り三千代に告白したのち、父へはこれまで通りの態度を変えなかった。つまり代助は最後の段階に至っても、「好きな女がいる」ではなく「気が進まない」を父への結論としたのである。これでは代助は何のために焦っていたのか分からない。三千代との「既成事実作り」は、代助の為だけ、代助の心の安定のためにのみ、なされたと言わざるを得ない。
 代助は眼前の利害を離れて潔癖なのであろうか。しかし、こんな自分勝手な話はないと、周囲は見ないだろうか。自分の精神的安定を第一とする。これを人は誠実といい、また自分のことしか考えないともいう。そのために人生の一大事に直面する三千代や佐川の令嬢や代助の父の都合が二の次に追いやられる。周囲や家族はたまったものではあるまい。余計なお世話だが。

山田風太郎の「あげあしとり」 3

63.山田風太郎の「あげあしとり」(3)――国民作家吉川英治


漱石「最後の挨拶」番外篇]

 さて吉川英治はいつもこんな(危ない橋を渡るような)書き方をしているのだろうか。「宮本武蔵」全7巻の内の第1巻「地の巻」の「縛り笛」の章に、早くもこんな記述がある。(引用は前項と同じ全集版による)

 お通は、怪しんで、笛の手をやめ、
「沢庵さん、何を、独り言をいっているのですか」
「――知らぬのか、お通さん、先刻から、ソレそこに、武蔵(たけぞう)が来て、そなたの笛を聴いているじゃないか
 と、指さした。
 何気なく、ひょいと振り向いたお通は、途端に、我れに回(かえ)って、
「きゃッ――」
 と、そこの人影へ向って、手の横笛を投げつけた。

   八

 きゃッと叫んだお通よりも、却って驚いたらしいのは、そこにうずくまっていた人間であった。草むらから鹿のように起って、ぱっと彼方へ駆け出そうとする。
 沢庵は、予期しなかったお通のさけびに、折角静かに網へ掬いかけていた魚を汀から逃したように、これも、あっと慌てて、
――武蔵(たけぞう)
 と、満身の力で呼んだ。
「待たッしゃれ!」
 つづいて投げた言葉にも、圧するような力があった。声圧というか、声縛というか、そのまま振りほどいて行かれない力がある。武蔵は、足に釘を打たれたように振り向いた。
? ・・・
 らんらんと光る眼が、じっと、沢庵の影とお通のほうを見ていた。猜疑にみち、殺気にみち、殺気に燃えている眼である。
「・・・・・・」

 すべてお見通しの沢庵が、潜伏中の武蔵を巧まずにおびき出すシーンであるが、お通さんが無駄に驚いたため武蔵が逃げてしまった。それで沢庵もあわてて「タケゾー、待て」と叫んだという、文章としては何の問題もない箇所である。
 しかるに上記傍線部分の、「武蔵(たけぞう)?」を読者はどう理解すればいいのか。
 山田風太郎ふうに言えば、沢庵は傍らにうずくまる武蔵にとっくに気付いていたのである。(ああ、それなのに)突然飛び出した男の影に「武蔵か?」は無いだろう、というところであろうか。(掲載回を跨いでいることも似通っている。)

 しかしこの場合は、「?」はてなマークの意味付けによる。現代文の「?」で解釈すると、この一連の吉川英治の文章は無用の誤解を生む。沢庵の呼びかけに応える武蔵の「?・・・」も意味不明になる。
 この「?」は(疑問文としての)疑問符ではなかろう。ここでは悩める武蔵の、単なる心の表象と見るべきであろう。
 沢庵は「武蔵(たけぞう)!」と呼びかけたのであるが、それを吉川英治は「――武蔵?」と書いた。たしかに「――武蔵」とだけ書いたのでは、声の大きさを表現できない(と正直な吉川英治は考えた)。武蔵の躊躇の無言を「・・・」でなく「?・・・」と書いた。いずれも「?」は武蔵の心の裡にある。現代文ではカットしていいところであろう。あるいは感嘆符として「――武蔵⁉」でもいいかも知れない。読み手はそこに大して意味付けをする必要はないのである。
 前項の文章もまた、「?」を取って読んで差し支えない。
「おばさん」「おおタケゾーさんじゃないか」・・・武蔵は怪しんで女を見守る。果して女はお甲であった。
 この場合、武蔵が怪しんだのは、その直前の文章たる「自分の幼名を呼ぶのはお杉婆以外に云々」のくだりだけを指すのではなく、賊の女として自分に跳びかかってきたお甲の一連の行為全体を指すと見た方が、分かりやすい。襲って来たので組み敷いた。その女が自分の幼名を呼んだ。それを含めて(お杉婆への連想も含めて)、お甲への道筋を「怪しんだ」のである。

 これは漱石にも通ずる話である。ある言葉が必ずしも直前の語句を形容しない、指示しない、意味しない、説明しない。あるいは形容・指示・意味・説明するにとどまらない。文章の構えが大きいのである。

  この大きさを通俗と見て嫌う文学愛好家がいる。漱石も一部では永く通俗と見られていた。太宰治漱石(全集)を「俗中の俗」と(鷗外と比して)言ったことがあるが、俗なのは漱石の作品でなく、やたら全集が売れるという現象の方であろう。であれば今や漱石太宰治は俗の双璧ということになる。漱石にとってはどうでもいいことだろうが。
 漱石吉川英治を並べて論ずる者はそうはいまいが、「国民作家」という立派な共通点がある。この称号にふさわしい作家は、あと一人、長谷川町子が挙げられようか。似たところが一つもなくて構わないのである。

《 漱石「最後の挨拶」三四郎篇 終り 》

山田風太郎の「あげあしとり」 2

62.山田風太郎の「あげあしとり」(2)――風太郎の勘違い

漱石「最後の挨拶」番外篇]

 もう一度山田風太郎の指摘する箇所を、「吉川英治全集」(講談社昭和43年初版)から直接引いてみる。山田風太郎が引用した部分は重ねてボールドで示す。
 なお、前項で紹介した山田風太郎の「あげあしとり」の中で彼が引用した「宮本武蔵」の出典が不明であるが、ふつう考えられる上記全集版ではなく、朝日新聞連載直後に出された(昭和11年の)講談社の単行本(初版本)を、山田風太郎自身が新カナに直し、かつ煩雑を避けるため連載回の小見出しを省略したのではないかと、論者は推測する。
 ここでは上記全集版を使用するが、セリフの鍵括弧は「あげあしとり」同様、一般的なものに改めた。

「畜生、畜生」
 と、必死になって、手当り次第に、物を取っては、武蔵へ向って投げつけて来るのは、賊の妻らしい女であった。
 武蔵は、すぐその女を組み敷いた。――女は組み敷かれながらもまだ、髪の笄を逆手に抜いて、
「畜生」
 と、突きかけていたが、その手を、武蔵の足に踏まれてしまうと、
「――お前さん、どうしたのさ! 意気地のない、こんな若僧に」
 と、歯がみをしながら、もう気を失っている賊の良人を、無念そうに、叱咤していた。
「・・・あっ?」
 武蔵は、その時、思わず身を離した。女は男以上に勇敢だった。刎ね起きざま、良人の捨てた短刀を拾って、再び、武蔵へ斬りつけて来たが、
「・・・お、おばさん?」
 武蔵が、意外な言葉を与えたので、賊の妻も、
「――えっ?」
 息をひいて、喘ぎながら相手の顔をしげしげと――
「あっ、おまえは?・・・。オオ武蔵(たけぞう)さんじゃないか」

   

今もまだ、幼名の武蔵(たけぞう)を、そのまま、自分へ呼ぶ者は、本位田又八の母お杉ばばを措いて、誰があろう?
怪しみながら、武蔵は、そう馴々しく自分を呼んだ賊の妻を見まもった。
「まあ、武(たけ)さん、いいお武家におなりだねえ」
⑤さもさも懐しそうな女のことばだった。それは、伊吹山よもぎ造り――後には娘の朱実を囮に、京都で遊び茶屋をしていた、(あ)の後家のお甲であった
「どうして、こんな所に居るのですか」
「・・・それを訊かれると恥ずかしいが」
「では、そこに仆れているのは・・・あなたの良人か」
「おまえも知っておいでだろう。元、吉岡の道場にいた、祇園藤次の成れの果てですよ」
「あっ、では吉岡の祇園藤次が・・・」
 唖然としたまま、武蔵は、後のことばも出なかった。

 武蔵はよく驚く(武蔵以外の人物もよく驚くが)。田舎者で若いからだろうか。漱石の若い主人公で田舎者といえば三四郎であるが、三四郎だけが驚く男である。あとの漱石の男は驚かない。「驚くうちは楽(たのしみ)がある」と『虞美人草』の甲野さんは不思議なことを言っているが、甲野さんの態度が則天去私の行き方であろう。甲野さんは驚かない。吉川英治の登場人物がよく驚くのは、作者が善人で楽天家だからであろう。ある意味で吉川英治は稀有な資質を備えた作家であるといえる。
 変人で世の中を否定的に見る漱石は、則天去私に自らの生き方を見出した。なぜなら則天去私という言葉に従って生きれば、自分で自分の物の見方を疑う必要がないからである。自ら楽天家になれないタイプの人間は、(他動的な)求道へ傾く。その道を何と呼ぶか、本に書いてあるか自分で造語するか、誰かに教えてもらうか自分で思いつくかは関係ない。則天去私が則私去天であっても、本人にとっては同じことである。

 それはさておき、山田風太郎の指摘に従ってこの太字のくだりを整理すると、

「虫焚き」第2回末尾

①武蔵は女がお甲であることに気付いて驚き「お、おばさん?」と言った。

②女はそれを受けて「そう言うお前はタケゾーさんか」と言った。

「虫焚き」第3回冒頭

③自分を幼名で呼ぶ(年増の)女は(お杉婆以外に)誰かいるだろうか。武蔵は訝った。

④「怪しみながら、武蔵は、そう馴々しく自分を呼んだ賊の妻を見まもった。」

(ひきつづき)

⑤女の名はお甲であった。

 つまり山田風太郎は妥当にも、①②で武蔵-お甲の配置が確定したにもかかわらず、③④で武蔵が改めて後家のお甲の古名を、導き出そうとしているのは矛盾していると言ったのである。
 山田風太郎はその①②と③④のギャップの理由を、疲れて一眠りしたためと「推理」したのであるが、全集本を参照してくどさを厭わなければ、それは新聞連載の継ぎ目なのであるから、漱石ではないが、1回分書き終えてホッとひと休みした、と書いてもよかったところであろう。

 山田風太郎が全集本を所持し読んでいたことは間違いない。山田風太郎は「宮本武蔵」を熟読ではないにせよ3回読んでいると言っているし(柴錬は4回読んだ)、30年経って問題の箇所が訂正されているかどうか、必ず確認している筈だからである。各種の文庫本も、昭和40年代であれば、まだ市に出ていない。山田風太郎が当時における確定版たる全集を直接引かなかった理由は分からないが、初版本に愛着があったのと、全集版を典拠にすると初版や初出との異同を云々しなければならないのを鬱陶しがったのであろうか。(考えにくいことではあるが、全集版で作者が「解りにくく筆を入れた」可能性も、絶無とは言えないのである。)

 しかしそれはともかく、本当にここは吉川英治の瑕疵だろうか。
 ①から④までの中で、吉川英治が実際には書いていないことがひとつだけある。山田風太郎の判断・推測に拠るところであるが、それは①の傍線部分の、武蔵が女がお甲であると気付いたという箇所である。たしかに武蔵は「おばさん」とは言ったものの、女がお甲であると即座に認識したとは書いていない。武蔵が最初からお甲の名が脳に映っているのでないとすれば、そのあとの記述は特におかしなところはないことになる。

 では吉川英治の文章に寄り添って解釈すると、

「虫焚き」第2回末尾

①武蔵はとびかかって来た女を見て、(それが知った顔だったので)驚いた。咄嗟には名前は浮かんで来ない。それでもかろうじて「お、おばさん?」という言葉が口から出た。

②その言葉に女もまた驚いて、武蔵の顔をじっくり見た。「おお、タケゾーさんじゃないか」

「虫焚き」第3回冒頭

③武蔵は考える。・・・自分を幼名で呼ぶ者は誰か。まずお杉婆の名が頭をよぎるが、又八の母お杉婆は仇の武蔵をタケゾーさんとは言わない。では誰がいるだろうか。やはりこの顔はお甲か。又八の色にして義母の、あの後家のお甲か・・・。

④「怪しみながら、武蔵は、そう馴々しく自分を呼んだ賊の妻を見まもった。」

⑤「まあ、タケさん、いいお武家におなりだねえ」・・・果たして女はお甲であった。武蔵は訝しく思いながらも、自分の置かれた情況は腑に落ちた。

 お甲は実際久しぶりに登場したのである。読者は賊がお甲とその(新しい)亭主であったことを知らない。武蔵は読者とともに驚いたのである。そして連載回の変り目を挟んで、作者の筆は微妙に武蔵を脱出しているようである(またすぐ戻るにせよ)。それがまた、山田風太郎には「失念」と映ったのであろうか。彼が小見出しを省略した理由も何となく分かる。議論が果てしなく拡散してしまうからである。

 結論として、ここは、

・お甲の正式な(再)登場は(「虫焚き」)第2回末尾でなく第3回冒頭である。

・そのためにこそ第2回と第3回のインターバルがある。

 つまり「失念」でなく「(小さな)リセット」であろう。これだとファンも吉川英治も納得するはずである。山田風太郎も納得しないだろうか。

山田風太郎の「あげあしとり」 1

61.山田風太郎の「あげあしとり」(1)――武蔵の勘違い


漱石「最後の挨拶」番外篇]

 論者は前著で、山田風太郎の「あげあしとり」(『推理』昭和47年)という短文について、「全文引用したい誘惑にかられる」と書いたが(先の第58項でも重ねて書いた)、デジタル社会と作者の山田風太郎に感謝しつつ、ここでそれを実行したい。引用元は中公文庫『風眼抄』(1990年初版)より。山田風太郎が引用した「宮本武蔵」の本文はとくに太字で示した。

「・・・あっ?」
 武蔵(むさし)は、その時、思わず身を離した。女は男以上に勇敢だった。刎ね起きざま、良人の捨てた短刀を拾って、再び、武蔵へ斬りつけて来たが、
「・・・を、をばさん?」
 武蔵が、意外な言葉を与えたので、賊の妻も、
「――えっ?」
 息をひいて、喘ぎながら相手の顔をしげしげと――
「あっ、おまえは?・・・オゝ武蔵(たけぞう)さんじゃないか」
 今もまだ、幼名の武蔵(たけぞう)を、そのまま、自分へ呼ぶ者は、本位田又八の母お杉ばばを措いて、誰があろう?
 怪しみながら、武蔵は、そう馴々しく自分を呼んだ賊の妻を見まもった。
 

 右は、有名な吉川英治の「宮本武蔵」――「空の巻」の中の「虫焚き」の章である。
 さて読者諸君、右の一節を読んで、変だと思うところを、一分以内に答えてから、これからあとの私の文章を読んで下さい。
 これは武蔵が信州で山賊の妻となり果てた旧知のお甲という女に襲われる場面だが、それが旧知のお甲であることにまず気がついたから、「を、をばさん?」と呼んだのである。そして、そう呼ばれたからこそ、相手が驚いて、「あっ、おまえは?・・・オゝ武蔵(たけぞう)さんじゃないか」と答えたのである。
 ああ、それなのに、今さら武蔵が、自分の幼名を馴々しく呼ぶものは誰だろうと、怪しみながら相手を見まもるという法はないではないか。
 いや、自分のことは棚にあげて、人さまの作品のあげあしをとるのは趣味がよくない。論理一点張りであるべき推理小説ですら甚だあやしげなものが多いことはどなたも御存じの通りであり、特に私のものなど指摘されると降参するよりほかはないものがあるにちがいないけれど、――これはあまりに人口に膾炙した「名作」だから、ここで俎にのせるのである。世にこれを有名税という。
 以下は私の推理である。――
 吉川さんは右の章の前半部分を書かれたあと、ヘトヘトになって一眠りされたに相違ない。そして、眼をさましてから後半部分にとりかかったとき、ついうっかり前半の文章のいきさつを忘れしまったに相違ない。
 こういううっかりは、そんな場合、私もやりかねないから、実作者としてわからないでもない。
 それからまた、「宮本武蔵」のクライマックスは吉岡一門との決闘だが、これはそれが終ってから武蔵が江戸へ下ってゆく途中の話である。作者としては、渾身の力をふるってそこをみごとに描き去ったあとの、中だるみ的な気のゆるみもあったかも知れない。逆にまた、その吉岡一門との戦いと大詰の船島の決闘とのあいだに八、九年の歳月がたつのだが、これからその長年月をいかに武蔵に過させようかという悩みもあったろう。張りつめた場面では作者はめったにミスをしないものだが、ああしようか、こうしようか、或いは、ああでもない、こうでもないと迷っているときは、クライマックスを書いているときよりくたびれるもので、そんな疲れのせいもあったかも知れない。
 しかし、むろんこれはこの「名作」にとって致命的なミスではない。推理小説の大長篇を書いて、あととんでもない論理的ミスに気がついて、訂正しようにも全篇ぬきさしならぬことになっていて、どうにもこうにもならないというような悲劇ではない。作者がこの部分だけ、ちょっと書き改めればすむことである。しかし、発表以来、作者の死まで三十年ちかく、このままで通って来たところを見ると、吉川さんはついに一生気がつかれなかったことと思われる。
 それにしても不思議なのは、吉川さんには百万と称する熱狂的な愛読者があり、また身辺にも讃美者がウヨウヨしていただろうに、最初に発表された朝日新聞はもとより、以後「宮本武蔵」が何百版か版を重ねるあいだ、だれもこのことを指摘して教えてあげた人がなかったのであろうか。まったくファンというものは、あてにならんものである。
 尤も、そんなことをえらそうにいう私だって――私はめんと向って吉川さんにお会いしたことはないけれど、もし生きていられるあいだに気がついたら誰かを介してこのことについて御一考願いたかったほどであるが――それまで少くとも三回くらい眼を通したであろう宮本武蔵のこのミスに、気がついたのは、つい二、三年前という始末であった。
 あてにならんといえば、吉川氏が亡くなったとき、読売新聞にある高名な評論家が「吉川英治論」を書いたが、中で堂々と、「吉川英治はついに忠臣蔵を書かなかった」と意味ありげに書いていたことをおぼえている。ところが、吉川英治には「新編忠臣蔵」という――吉川文学の中でも出来栄えでは上位クラスに属する――作品がちゃんとあるのである。これは、うっかり、ではすまされない。余りよく知らないで「吉川英治論」を書くものだからそういうことになるので、まあ、ひとのこととなると、たいていはこんなものである。(山田風太郎『あげあしとり』全文)

 山田風太郎の主張は(その限りでは)いちいち尤もである。吉川英治が迂闊に見える書き方をすることも多分あるだろう。
(この短文の主旨そのものではないが、文末の「まあ、ひとのこととなると、たいていはこんなものである。」は、時代を超えて真理の呟きであるとともに、文学研究を試みる者にとって永遠の誡めとなる。)

 しかし(それはさておき)ここで取り上げられた「宮本武蔵(空の巻)/虫焚き」における吉川英治の筆致は、山田風太郎の言うような、一方的なケアレスミスではないとする解釈も、また可能ではないだろうか。

 その前に、上記山田風太郎の引用文章の範囲では、武蔵が賊の女を一瞬お杉婆と勘違いしたと読めなくもない。武蔵は一瞬お杉婆の姿が脳裏をよぎり、「おばさん」と言った。女は「タケゾーさんか」と驚いた。武蔵は少し混乱した。自分をタケゾーと呼ぶのはお杉婆しかいないが、そのお杉婆は決して自分を「さん付け」する存在ではない。お杉婆は武蔵(とお通さん)を殺す旅路に出ているのである。それではこの女は・・・。

 山田風太郎の指摘しているのは、そういう話ではあるまい。武蔵はお甲と認識しながら、かつ二重にお甲の名を求めてしまった、と言っているのである。吉川英治の不注意であろうと言っているのである。
 しかし、そうでもない読み方もある、ということを、次回示してみたい。