明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」それから篇 1

64.『それから』はじめに――『それから』最大の謎


三四郎』の野々宮君(野々宮さん)と広田先生を最後に、漱石作品から君さん付けは姿を消した。漱石は真顔になったと言うべきか。真に職業作家になったと言うべきか。あるいは余裕がなくなってつまらなくなったと言うべきか。「折角の面白い子を種なしにした」(『たけくらべ』)とまでは誰も言わないにせよ、初期の親しみのある作品群は永遠に失われてしまった。
 しかしそのために(ばかりでもなかろうが)、漱石の『それから』から『明暗』に至る(7つの)作品が、永遠の輝きを有ったとすれば、それもまた(天に)感謝すべきであろう。もちろん『猫』から『三四郎』に至る作品群も、永遠で独自の輝きを放っているが。

 さてこれまで『三四郎』について長々と講釈を垂れたが、最後は(山田風太郎のおかげで)「宮本武蔵」まで飛び出し、訳が分からなくなったところで、いよいよ『それから』である。
 新聞連載は明治42年6月から10月まで。小説の筋はともかく、タイトルも登場人物も、物語としての時代背景も語り口も、執筆スピードさえ、ほぼ『三四郎』の続編とみて差し支えない。(漱石の言い方を借りれば)最後に主人公は奇妙な境遇に陥るが、その具体的な記述は殆どないので、それもまた『三四郎』に近い印象を与える。その代助も、年齢的には野々宮のスライドであるが、三四郎が(7年たって)成長したというよりは、三四郎がそのまま30歳になってしまったような感じではある。もちろん代助は都会人であるが、三四郎が7年の東京暮らしで田臭を脱したと言えなくもない。

 そんなことはどうでもいいとして、『それから』全110回の最大の問題点は、前作でも指摘したが、代助(と漱石)が佐川の令嬢との結婚話を断る前に、一刻も早く三千代に求婚しなければならないと、(論理の帰結として)信じ込んだ、ということであろう。

 代助は嫂に自分の心を打ち明けた。(戻ってもいいのだが)もう後戻りは出来ない。三千代に向かって行くばかりである。それはいい。すみやかに三千代に告白すべきであろう。代助は天意に従うか意志を発揮させるか悩んでいた。この場合、三千代を奪うのが天意であり自然であるというのが漱石の(小説における)論理である。三千代を諦めるとすれば、(己を抑えて社会倫理には背かないでおこうという)意志を通さなければならない。そのどちらも詰まるところは自分の「意志」ではないかという考えは、漱石にはない。
 ここでは漱石の理屈に従うとしても、どちらを選ぶかは結局は代助の決断次第である。代助の好きにしていい話である(つまり代助の意志である)。佐川の結婚話は三千代には関係ない。むしろ代助が気にすべきなのは、三千代の反応の方であろう。姦通罪の時代である。三千代が驚いて逃げ出す可能性を、代助も漱石も考慮したふしがない。
 といって、三千代に断られたら佐川の娘に行こうと、代助が一瞬たりとも思っていなかったことも確実である。であれば尚更、代助が父へ佐川を断る前に三千代との決着をつけなければならないと焦った理由が分からない。
 佐川との見合い話は代助と父の問題であるから、代助が三千代に告白するしないということとは別の話である。代助がどうしても三千代をあきらめ切れないというなら、むしろ佐川の娘との縁談など始めからきっぱり断るのが自然である。

 代助が一番気にしたのは、父に断りを言うときに、嘘を吐くことであった。今までぐずぐず佐川の見合い話を引っ張っていたのは、もちろん代助の優柔不断であるが、代助は父や嫂に(嘘は言わないまでも)いい加減なことを言って逃げていたともいえる。代助は父に最終結論を述べる際に、嫂にしたようには出来なかったというのだろうか。

「父さん、私は好いた女があるんです」(架空のセリフ)

 父に言えないことを嫂には言ったとすれば、その理由が読者の腑に落ちる様にする必要があるのではないか。代助の父は実の親であり、(志賀直哉みたいに)別に不仲なわけではない。嫂はいくら気心が知れているとはいえ一家の中では他人である。(恋心の告白は親族に第一にすべきと主張しているわけではない。第一はむろん相手に直接、であるし、第二は誰にも言わない、であろう。第三の選択肢ということでいえば、『心』のように、友にすることがふつうであろう。『それから』の場合は、漱石は佐川の話を被せることによって、代助の恋心を巧みにはぐらかすようなストーリーになっている。)
 代助は父に、嫂にしたようには告白する自信が持てなかったがゆえに、父への最後通告がこれまで通りのらりくらりとはぐらかすような仕儀に陥ることを恐れた。これまで代助が取ってきた態度、結論の先送りは「嘘」とは異なる。しかし代助はもう結論を言わなくてはいけない局面に差し掛かっている。ここで今までと同じような顔をして、「気が進まないから」とだけ言って話を断ることは、父に嘘を吐くということである。代助はそれを懼れた。

 嘘を吐くということを何よりも懼れた漱石は、代助が父にいつまでも嘘を言わなくて済むように、先に三千代との話を完成させたかった。三千代と関係を「既成事実」にしてしまえば、もう代助は嘘を言う必要がない。のらくらで逃げるわけにはいかない。あるいはのらくらで逃げる必要がない。
 ところが代助は希望通り三千代に告白したのち、父へはこれまで通りの態度を変えなかった。つまり代助は最後の段階に至っても、「好きな女がいる」ではなく「気が進まない」を父への結論としたのである。これでは代助は何のために焦っていたのか分からない。三千代との「既成事実作り」は、代助の為だけ、代助の心の安定のためにのみ、なされたと言わざるを得ない。
 代助は眼前の利害を離れて潔癖なのであろうか。しかし、こんな自分勝手な話はないと、周囲は見ないだろうか。自分の精神的安定を第一とする。これを人は誠実といい、また自分のことしか考えないともいう。そのために人生の一大事に直面する三千代や佐川の令嬢や代助の父の都合が二の次に追いやられる。周囲や家族はたまったものではあるまい。余計なお世話だが。