明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」それから篇 4

67.『それから』年表(1)――結婚は最初から破綻していた


 『それから』の物語の今現在は、前述のように明治42年で問題ない。そこで『それから』のおおよその年表を作ってみる。代助たちの大学入学から、三千代の上京、菅沼の急死、卒業、結婚、転勤、そして物語の始まる平岡の転地。その7年間は物語のそこかしこで語り手と主人公によって振り返られる。その記述を小説の進行に従って順に追うことにする。

 車をがらがらと門前迄乗り付けて、此所だ此所だと梶棒を下さした声は①慥かに三年前分れた時そっくりである。(『それから』2ノ1回)

 代助と平岡とは中学時代からの知り合で、②殊に学校を卒業して後、一年間というものは、殆んど兄弟の様に親しく往来した。(2ノ2回)

 ③一年の後平岡は結婚した。同時に、自分の勤めている銀行の、京坂地方のある支店詰になった。(2ノ2回)

 ④平岡からは断えず音信があった。(2ノ2回)

 ⑤そのうち段々手紙の遣り取りが疎遠になって、月に二遍が、一遍になり、一遍が又二月、三月に跨がる様に間を置いて来ると、……(2ノ2回)

 ⑥現に代助が一戸を構えて以来、約一年余と云うものは、此春年賀状の交換のとき、序を以て、今の住所を知らした丈である。(2ノ2回)

 ⑦三千代は東京を出て一年目に産をした。生れた子供はじき死んだが、それから心臓を痛めたと見えて、兎角具合がわるい。(4ノ4回)

 廊下伝いに座敷へ案内された三千代は今代助の前に腰を掛けた。そうして奇麗な手を膝の上に畳ねた。下にした手にも指輪を穿めている。上にした手にも指輪を穿めている。上のは細い金の枠に比較的大きな真珠を盛った当世風のもので、⑧三年前結婚の御祝として代助から贈られたものである。
 三千代は顔を上げた。代助は、突然例の眼を認めて、思わず瞬を一つした。(4ノ4回)

 実を云うと、代助は今日迄まだ誠吾に無心を云った事がない。尤も⑨学校を出た時少々芸者買をし過ぎて、其尻を兄になすり付けた覚はある。(5ノ5回)

「まだ、そんなものフランネルの赤ん坊の着物)を仕舞っといたのか。⑩早く壊して雑巾にでもしてしまえ」(6ノ4回)

 ⑪代助が三千代と知り合になったのは、今から四五年前の事で、代助がまだ学生の頃であった。(7ノ2回)

 この菅沼は東京近県のもので、⑫学生になった二年目の春、修業の為と号して、国から妹を連れて来ると同時に、今までの下宿を引き払って、二人して家を持った。その時妹は国の高等女学校を卒業したばかりで、⑬年は慥十八とか云う話であったが、派手な半襟を掛けて、肩上をしていた。そうして程なくある女学校へ通い始めた。(7ノ2回)

 ⑭四人はこの関係で約二年足らず過ごした。すると菅沼の卒業する年の春、菅沼の母と云うのが、田舎から遊びに出て来て、……それが一週間の後窒扶斯と判明したので、すぐ大学病院へ入れた。三千代は看護の為附添として一所に病院に移った。病人の経過は、一時稍佳良であったが、中途からぶり返して、⑮とうとう死んでしまった。そればかりではない。窒扶斯が、見舞に来た兄に伝染して、これも程なく亡くなった。国にはただ父親が一人残った。(7ノ2回)

 ⑯其年(菅沼の死んだ年)の秋、平岡は三千代と結婚した。そうしてその間に立ったものは代助であった。尤も表向きは郷里の先輩を頼んで、媒酌人として式に連なって貰ったのだが、身体を動かして、三千代の方を纏めたものは代助であった。(7ノ2回)

 ⑰結婚して間もなく二人は東京を去った。国に居た父は思わざるある事情の為に余儀なくされて、これもまた北海道へ行ってしまった。(7ノ2回)

 彼(菅沼)は⑱三千代を呼ぶ前、既に代助に向ってその旨を打ち明けた事があった。その時代助は普通の青年の様に、多大の好奇心を以てこの計画を迎えた。
 ⑲三千代が来てから後、兄と代助とは益親しくなった。……三人はかくして、巴の如くに回転しつつ、月から月へと進んで行った。有意識か無意識か、巴の輪は回るに従って次第に狭まって来た。遂に三巴が一所に寄って、丸い円になろうとする少し前の所で、忽然その一つが欠けたため、残る二つは平衡を失った。
 ⑳代助と三千代は五年の昔を心置なく語り始めた。語るに従って、現在の自己が遠退いて、段々と当時の学生時代に返って来た。二人の距離は又元の様に近くなった。
「あの時兄さんが亡くならないで、未だ達者でいたら、今頃私はどうしているでしょう」と三千代は、その時を恋しがる様に云った。(14ノ9回)

 ㉑「僕は三四年前に、貴方に左様打ち明けなければならなかったのです」(14ノ10回)

『それから』年表

明治35年9月 入学。23歳。

明治36年春 三千代18歳上京。兄菅沼と家を持つ。(⑫⑬⑱⑲)
明治36年夏 代助(平岡も)、次第に三千代と親しくなる。(⑪⑳)

明治37年 4人の親密な交際(2年弱続いた)。(⑭)(⑪⑳)

明治38年春 菅沼チブスで急死(母親も)。三千代は父親と取り残される。(⑮)
明治38年7月 卒業。平岡就職。爾来1年間、代助と平岡は兄弟同然の行き来をする。(②㉑)
明治38年秋 (秋結婚説)其年の秋、平岡と三千代の結婚。(⑯)
明治38年 代助放蕩。(⑨)

明治39年春 (春結婚説)平岡と三千代の結婚。(③⑧)
明治39年春 平岡大阪へ転勤。頻繁な文通。(①④⑰)
明治39年秋冬 三千代出産、子供夭折。(⑦)

明治40年 文通漸減。(⑤)

明治41年 あまり文通しなくなる。(⑤)
明治41年 代助神楽坂へ引越独立。(⑥)

明治42年1月 年賀状で住所変更通知。(⑥)
明治42年春 物語の始まり。代助30歳、三千代24歳。

 最初に気付いてかつ最大の疑問は、平岡と三千代の結婚時期である。卒業後1年間代助と平岡は兄弟同然の交際をして、その成果として平岡と三千代は結婚する。同時に二人は大阪へ引っ越すのである(③)。しかるに⑯では、結婚は菅沼の死んだ年の秋であるという。これは漱石の書き損ないではないか。結婚は菅沼の死んだ翌年(卒業の翌年)が正しい。秋でもいいが、結婚のすぐあと転勤するのであるから、結婚は春の方が自然である。

 もう1点は⑪の、代助が三千代と知ったのが4、5年前というくだり。三千代の上京は入学翌年だから明治36年である。じきに親しくなり明治36年後半から菅沼の亡くなる明治38年春までの「2年弱」4人の親密な交際が続くのである。彼らの出逢いは6年前である。
 漱石は菅沼兄妹の同居を「学生になった二年目の春」と書いた。明治35年9月入学(7月入学でも)の者が「2年目の春」と言うとき、それは明治36年春でなく明治37年春を指すと言えなくもない。しかし明治38年春には菅沼は亡くなり、7月には代助たちも卒業してしまうのであるから、「約2年足らず」の4人の蜜月期間とは、やはり明治36年初夏から明治38年春の期間を言うのだろう。漱石は1年勘違いをしたのではないか。

 広瀬中佐の戦死(明治37年3月)について、漱石は「四五年後の今日」(13ノ8回)と書いている。5年を4、5年と書くのはいい。代助と三千代が⑳で「五年の昔」を懐かしむのもいいだろう。しかし6年を4、5年と書くのは、やはり勘違いの範疇ではないか。

誤 代助が三千代と知り合になったのは、今から四五年前の事で、(7ノ2回冒頭)

正 代助が三千代と知り合になったのは、今から五六年前の事で、(7ノ2回冒頭改)

誤 其年の秋、平岡は三千代と結婚した。(7ノ2回末尾近く)

正 其翌る年、平岡は三千代と結婚した。(7ノ2回末尾近く改)

 でもこれはまあ、校正の(編集者の)問題であろう。漱石は胃の痛みという尤もな理由があった。校正者には理由がない。