明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」それから篇 16

79.『それから』ミステリツアー(1)―― 四つの橋


漱石「最後の挨拶」番外篇》

『それから』については前著(『明暗』に向かって)でもいくつか述べたことがある。というのは『それから』も『明暗』も、主人公たちが牛込から小石川、神田界隈まで、似たような町内を歩き廻っているからである。
 一部重複するところがあるかも知れないが、その前著から当該の項を引用してみたい。

Ⅱ 小石川の谷(と台地)
19.『それから』ミステリツアー

『明暗』と違って『それから』は、漱石の他の作品同様固有名詞は何のためらいもなく使われているが、小説を読んだ感じでは、具体的な場所の特定という観点からは、不思議なことに両者に大きな径庭はない。『それから』の中で、主人公が歩き廻った跡はどのように描かれているのだろうか。

 代助の家はどこにあるか。三千代が神楽坂に買い物に来たついでに、白百合を持って代助の家を訪れる。このときの三千代の物言いは、素人のくどくどしさを嫌って、玄人漱石の言葉にリライトされている。

 ・・・大抵は伝通院前から電車へ乗って本郷まで買物に出るんだが、人に聞いてみると、本郷の方は神楽坂に比べて、何うしても一割か二割物が高いと云うので、この間から一二度此方へ来て見た。此前も寄る筈であったが、つい遅くなったので急いで帰った。今日は其積で早く宅を出た。が、御息み中だったので、又通り迄行って買物を済まして帰り掛けに寄る事にした。所が天気模様が悪くなって、藁店を上がり掛けるとぽつぽつ降り出した。傘を持って来なかったので、濡れまいと思って、つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身体に障って、息が苦しくなって困った。・・・(『それから』10ノ5回)

 代助の家は神楽坂の坂を上がって、さらに藁店の坂の上にある。その先が矢来で、代助の住む高台の町と矢来は、後に新宿へ行く電車が通るようになった谷で遮断されている。

 神楽坂へかかると、寂(ひっそ)りとした路が左右の二階家に挟まれて、細長く前を塞いでいた。中途迄上って来たら、それが急に鳴り出した。代助は風が家の棟に当る事と思って、立ち留まって暗い軒を見上げながら、屋根から空をぐるりと見廻すうちに、忽ち一種の恐怖に襲われた。(8ノ1回)(論者注記。地震が起こったのである。)

 代助の家は、決して分かりやすい表通りに面した家ではないようである。前の年に実家を出て(親掛りのまま志賀直哉みたいに)独立した。平岡とはすでに文通も途絶えがちになっていたので、引越しの通知も年始状で代用したとある。その平岡が「車をがらがらと門前まで乗り付けて、此所だ此所だと梶棒を下ろさした声は慥かに三年前分れた時そっくりである」(2ノ1回)と、まるで初めて訪れる家を探す雰囲気を見せないのは、平岡の性格をよく出しているとはいえ、やはり少し変である。そして平岡同様代助の家を始めて訪れる三千代にしても、少しも迷った様子が見えないのはやはり疑問が残る(4ノ5回)。三千代にしてみれば、これ以上道になんぞ迷っていられない事情なのは判るが。

 代助の実家、平岡もそれこそ何度か遊びに来たであろう代助の父の家(兄の家)は、青山である。青山のどの辺りであろうか。

 ・・・中々暮れそうにない四時過から家を出て、兄の宅迄電車で行った。青山御所の少し手前迄来ると、電車の左側を父と兄が綱曳で急がして通った。挨拶をする暇もないうちに擦れ違ったから、向こうは元より気が付かずに過ぎ去った。代助は次の停留所で下りた。(7ノ3回)

 代助は自宅を出て、外濠線で揚場から牛込見附、新見附、市谷見附、赤坂見附と、当然ながら堀端の見張り塔を辿って進み、赤坂見附から青山渋谷方面行きに乗り換えて「御所の手前の次の停留所」、青山一丁目で下車している。(このとき「電車の左側」を通る父と兄の人力車と擦れ違ったと書かれるが、漱石はふつう俯瞰した書き方をしないから、この「左側」という記述の真意は永遠の謎である。)
 後に代助は嫂に三千代の存在を打ち明けたとき、心の動揺を抑えきれずに兄の家から三千代の家の前まで移動した。代助は青山一丁目から南北に交差する塩町行きの電車に乗り、塩町(四谷三丁目)から津の守坂を下って市谷の方へ歩くというのである。

 ・・・(兄の家から)角へ来て、四谷から歩く積で、わざと、塩町行の電車に乗った。練兵場の横を通るとき、重い雲が西で切れて、梅雨には珍らしい夕陽が、真赤になって広い原一面を照らしていた。(14ノ5回)

 角上(津守)を下りた時、日は暮れ掛かった。士官学校の前を真直に濠端へ出て、二三町来ると砂土原町へ曲がるべき所を、代助はわざと電車路に付いて歩いた。彼は例の如くに宅へ帰って、一夜を安閑と、書斎の中で暮すに堪えなかったのである。濠を隔てて高い土手の松が、眼のつづく限り黒く竝んでいる底の方を、電車がしきりに通った。代助は軽い箱が、軌道の上を、苦もなく滑って行っては、又滑って帰る迅速な手際に、軽快の感じを得た。其代り自分と同じ路を容赦なく往来(ゆきき)する外濠線の車を、常よりは騒々敷悪んだ。牛込見附迄来た時、遠くの小石川の森に数点の灯影を認めた。代助は夕飯を食う考もなく、三千代のいる方角へ向いて歩いて行った。
 約二十分の後、彼は安藤坂を上って、伝通院の焼跡の前へ出た。大きな木が、左右から被さっている間を左りへ抜けて、平岡の家の傍まで来ると、板塀から例の如く灯が射していた。代助は塀の本に身を寄せて、凝と様子を窺った。(14ノ6回)

 ふだんは代助は平岡の家を訪問するときは、安藤坂などといううるさい電車の走る路は通らない(おまけに遠回りになる)。このときだけ外濠線、飯田橋、大曲、安藤坂、伝通院というメインストリートを歩んだ(放心状態で歩いても大丈夫なように)。そして平岡の家から聞こえる物音に打ちひしがれて夢中で夜の道を歩き廻る。
 その平岡の寓居は伝通院付近のどの辺りか。

 代助は門を出た。江戸川迄来ると、河の水がもう暗くなっていた。彼はもとより平岡を訪ねる気であった。から何時もの様に川辺を伝わないで、すぐ橋を渡って、金剛寺坂を上った。(11ノ4回)

 ・・・代助は竹早町へ上って、それを向こうへ突き抜けて、二三町行くと、平岡と云う軒燈のすぐ前へ来た。格子の外から声を掛ると、洋燈を持って下女が出た。が平岡は夫婦とも留守であった。(11ノ4回)

 三千代の家は竹早町の外には出ていないだろう。代助は散歩のついでに三千代の家の方へ行くことはある。そのときは江戸川縁を適当に歩き、(何本もある)上がる坂は決まっていない。しかし直接三千代を訪れるときは、(中之橋を渡って)金剛寺坂を使うというのである。代助の棲む藁店から竹早への最短コースなのだろう。
 小説では最後の「道行き」になるが、代助が自宅で三千代に求婚したとき、

 雨は小降になったが、代助は固より三千代を独り返す気はなかった。わざと車を雇わずに、自分で送って出た。平岡の家迄附いて行く所を、江戸川の橋の上で別れた。代助は橋の上に立って、三千代が横町を曲る迄見送っていた。夫から緩くり歩を囘らしながら、腹の中で、「万事終る」と宣言した。(14ノ11回)

 このとき代助の立っていた橋が難解である。
 前項(上掲前著の第18項「再び市の西北の高台について」のこと)の繰り返しになるが、大曲(白鳥橋)から江戸川橋まで順に、

・中之橋
・小桜橋
西江戸川橋(前田橋)
・石切橋

 の四つの橋が架かっている。
 代助なら中之橋~金剛寺坂ルートであろうが、小桜橋~新坂というルートもある。こちらの方が少しだけ傾斜が緩いようである。
 代助がいつものルートで中之橋に立っていたとすると、中之橋はどの坂も見通せないから、三千代は橋を渡って右折して川沿いの道をほんの少しだけ(2、30メートルだけ)進み、金剛寺坂に続く道(坂)を求めてすぐ左に曲がり、代助の視界から姿を消す。これを果たして「代助は橋の上に立って、三千代が横町を曲るまで見送っていた」と表現できるだろうか。少し冷たいようである。もちろんおかしくはない。
 もうひとつの小桜橋であるが、この橋は坂が見通せるから、代助は橋の上に立って、三千代が最初の坂を上り切り、そこから次なる坂(たぶん新坂)へ向かうために横丁へ曲がるまで、三千代を見送っていたという記述と矛盾しない。心臓の悪い三千代にもその方がふさわしいだろう。
 そうすると代助はこの日に限り始めから小桜橋に決めていたということになる。
 でも代助は(漱石は)女に対してそんな親切な(作為的な)ことをするだろうか。三千代の(裏神保町からの)引越しの日さえ(直前に門野から聞いていたのに)忘れていたくらいである。
 引用の「代助は固より三千代を独り返す気はなかった。わざと車を雇わずに、自分で送って出た。平岡の家迄附いて行く所を、江戸川の橋の上で別れた。」という文章からもそんなところは伺えないのではないか。
 やはり中之橋説をとるべきか。代助はもともと冷たいところのある男なのである。