明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」それから篇 7

70.『それから』愛は3回語られる(2)――果てしなき道


 三題噺というものがある。三種の神器というものもある。前項の話は『それから』だけに仕掛けられたトリックであろうか。単なる偶然であろうか。

 『三四郎』で露骨に描かれた「恋愛譚」が一つだけある。広田先生の夢の女にまつわる話である。漱石はこの話を3つに分けて書いている。(『三四郎』11ノ7・8回)

 20年前、森有礼の葬列で美しい少女を見た。

 20年後、夢でその少女と再会した。二人の想いは(それがあるとすれば)20年前と変わらなかった。

 三四郎は訊く。もし20年前現実にその女と知り合っていたら、貰っていたか。広田先生は答える。貰っていただろう。

 実際にどう生きたかはともかく、広田先生がこのとき魂を奪われたのは慥かであろう。女に魂を奪われるのが漱石の小説の主人公であるとすれば、『三四郎』の真の主人公は広田先生ということになる。三四郎も美禰子に魂を奪われたではないかと人は言うかも知れない。しかし初心で田舎者の三四郎は、懐疑心の固まりになったに過ぎない。疑って・迷って・悩んでいる以上、何者にも魂を奪われていない、とは言えよう。三四郎は美禰子に金を返す方を優先した。

 漱石はどうしただろう。唯一の手掛かりは鏡子の『思い出』にある。よく知られる冒頭のエピソードもまた、三題噺のようである。(『思い出』1松山行)

 駿河台井上眼科で親切な女を見知った。結婚してもいいと思ったが、母親の性格がきつかったせいか、この話は結実しなかった。

 20年後九段能楽堂で、その女に偶然再会した。

 帰宅して鏡子に「今日逢って来た。昔と変わっていなかった。こんなことを言っているのを亭主が聞いたら、いやな気がするだろうな」と言った。

 Ⅰは漱石の精神異常に結びつけて語られてもいる。監視追跡されているという妄想から、神経を病み松山に逃げ出した。漱石はその後実家に「結婚の申し込みが来ているはずだが」と確認に訪れ、驚く兄たちを烈火の如く叱りつけたという。この話の真偽はともかく、似たような話が『行人』女景清の逸話で漱石自身の口から紹介される。(『行人/帰ってから』13~19回)

 坊っちゃんは若年時ある女と関係を結び結婚を約束したが、すぐ破約を申し込んだ。(ごめんよ事件)

 20何年か後、有楽座名人会で偶然その女を見かけた。女は気の毒にも盲目になっていた。

 人に頼んで女の身元をつきとめ、二郎の父を介して女に金品を渡そうとしたが断られる。

 『行人』ではこんな外伝ばかりでなく、三沢の体験として、出帰りの娘さんとの不思議な恋愛譚が語られる。

 縁あって自分の家に引き取られた娘さんは、少し精神に異常を来たし、三沢の出掛けには必ずどこからか現れて「早く帰って来て頂戴ね」と言う。(『行人/友達』32・33回)

 その娘さんはほどなく亡くなったが、そのとき三沢が女の冷たい額に接吻したという話を、なぜか兄の一郎が知っていた。(『行人/兄』10・11回)

 後日二郎がその話を蒸し返したとき、三沢は娘さんの親戚を罵った。「何故そんなら始めから僕に遣ろうと云わないんだ。資産や社会的の地位ばかり目当てにして……」(『行人/帰ってから』31回)

 Ⅲのさらにおかしなところは、引用文に続く次の決定的なセリフである。

「一体君は貰いたいと申し込んだ事でもあるのか」と自分は途中で遮った。
「ないさ」と彼は答えた。(『行人/帰ってから』31回)

 これでは鏡子でなくても漱石の身勝手さを主張せざるを得ないだろう。

 しかし『行人』では三沢の恋愛奇譚さえ傍流である。メインテーマたる二郎とお直の物語について、『行人』ではこの二人の「愛」は存在しないように書かれているが、一ヶ所だけ例の和歌浦の一泊事件のときに、お直の口から挑発的な言葉が発せられる。(『行人/兄』32・33回)

「姉さん・・・居るんですか」
「居るわ貴方。人間ですもの。嘘だと思うなら此処へ来て手で障って御覧なさい」

「姉さん何かしているんですか」……
「先刻下女が浴衣を持って来たから、着換えようと思って、今帯を解いている所です」

「姉さん何時御粧したんです」
「あら厭だ真闇になってから、そんな事を云いだして。貴方何時見たの」

 読者は大胆なお直に驚くが、いよいよ床に入ってから、お直はエロティックでも挑発でもない、もっと生の根源的な秘密に触れるような物言いをし始める。

「あら本当よ二郎さん。妾死ぬなら首を縊ったり咽喉を突いたり、そんな小刀細工をするのは嫌(きらい)よ。大水に攫われるとか、雷火に打たれるとか、猛烈で一息な死方がしたいんですもの」
 自分は小説などを夫程愛読しない嫂から、始めて斯んなロマンチックな言葉を聞いた。そうして心のうちで是は全く神経の昂奮から来たに違ないと判じた。
「何かの本にでも出て来そうな死方ですね」
「本に出るか芝居で遣るか知らないが、妾ゃ真剣にそう考えてるのよ。嘘だと思うなら是から二人で和歌の浦へ行って浪でも海嘯でも構わない、一所に飛び込んで御目に懸けましょうか」
「あなた今夜は昂奮している」と自分は慰撫める如く云った。
「妾の方が貴方より何の位落ち付いているか知れやしない。大抵の男は意気地なしね、いざとなると」と彼女は床の中で答えた。(『行人/兄』37回)

 お直の主張は3点である。

 自分はいつでも死ぬ覚悟は出来ている。

 どこでもこれから一緒に飛び込んでみせる。

 いざとなると大抵の男は意気地なしである。

 この3点は漱石作品の中ではもはや普遍的ともいえる地位を占めているが、次の回(38回)でも念を押すように繰り返される。お直は三千代の進化形であろうか。