明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 13

309.『草枕』あぶない小説(4)――『一夜』の脚本


(前項の)3人の生涯は余計な話(小説的に空想した無駄話)であるが、難解な『一夜』を少しでも分かりやすくするため、ここで最後に本文を脚本ふうにリライトしてみよう。本文は引用と同じ青色で示すが、赤色文字は詩(うた)としての発声を表現したつもり。

漱石しき多くの人の、美しき多くの夢を……
保治「描けども成らず、描けども成らず……描けども、描けども、夢なれば、描けども、成りがたし……ハハハ」と女の方を見る。
楠緒「画家ならば絵にもしましょ。女ならば絹を枠に張って、縫いにとりましょ」白い浴衣から崩した足が座布団を滑る。
漱石美しき多くの人の、美しき多くの夢を……
楠緒「縫いにやとらん。縫いとらば誰に贈らん。贈らん誰に」莞爾としながら団扇の柄で頬にかかる黒髪を払う。香油の薫がひろがる。
保治「我に贈れ」またからからと笑う。女の頬には笑みとともに微かに朱が差す。
漱石縫えば如何な色で
楠緒「絹買えば白き絹、糸買えば銀の糸、金の糸、消えなんとする虹の糸、夜と昼との界なる夕暮の糸、恋の色、恨みの色は無論ありましょ
 女の黒い眼は愁いを含んでなお涼しげである。

 五月雨がまた降り出す。
保治「あの木立は枝を卸した事がないと見える。梅雨も大分続いた。よう飽きもせずに降るの」と言いながら自分の膝頭を敲く。「脚気かな、脚気かな
漱石「女の夢は男の夢よりも美しかろう」
楠緒「せめて夢にでも美しい国へ行かないと、救われません」
漱石「世の中が古くなって、汚れたとでも言うのかい」
楠緒「よごれました」
漱石「古き壺には古き酒があるはず、味わってみるのもいい」
楠緒「そんな……。古き世に酔える人は仕合せです」
保治「脚気かな、脚気かな」と言いつつ、「しっ」と二人を制する。杜鵑が裏の禅寺の方へ飛ぶ。
漱石「あの声がほととぎすか」
保治「あちらだ」鉄牛寺の上で杜鵑がククッと鳴く。
漱石一声でほととぎすだと覚る。二声で好い声だと思うた
楠緒「ひと目見てすぐ惚れるのも、そんな事(古き世のこと)でしょうか」平気な顔で言う。
保治「あの声は胸がすくよだが、惚れたら胸は痞えるだろ。惚れぬ事。惚れぬ事……どうも脚気らしい」向う脛をしきりに気にしている。
漱石九仞の上に一簣を加える。加えぬと足らぬ、加えると危うい。思う人には逢わぬがましだろ……然し鉄片が磁石に逢うたら?」
保治「はじめて逢うても会釈はなかろ」
漱石「見た事も聞いた事もないに、是だなと認識するのが不思議だ。わしは歌麻呂のかいた美人を認識したが、なんと画を活す工夫はなかろうか」とまた女の方を向く。
楠緒「私には(分かりません)……認識した御本人でなくては」
漱石「夢にすれば、すぐに活きる」
楠緒「どうして?」
漱石「わしのは斯うじゃ……」
 蚊遣火が消えた。
楠緒「灰が湿って居るのか知らん」と女が蚊遣筒を引き寄せて蓋を取る。
 隣で琴と尺八の音がよく聞える。明け放った座敷の灯が見える。
保治「どうかな」
漱石「人並じゃ」

漱石「わしのは斯うじゃ」
楠緒「今度はつきました」蚊遣の烟が上がる。
保治「荼毘だ、荼毘だ」
楠緒「蚊の世界も楽じゃありません」
 元へ戻りかけた話も蚊遣火と共に吹き散らされた。話しかけた男は別に語り続けようともしない。
楠緒「御夢の物語りは」
漱石「こう湿気てはたまらん」詩集を膝に置いている。
楠緒「じめじめする事……。香でも焚きましょうか」
 香炉の蓋を取る。香炉の隣には蓮の花が挿してある。
楠緒「あら蜘蛛が。……蓮の葉に蜘蛛下りけり香を焚く
漱石蠰蛸懸不揺、篆烟遶竹梁」(蠰蛸しようしよう懸ってうごかず、篆烟てんえん竹梁ちくりようめぐ
保治「夢の話を蜘蛛も聞きに来たのだろう」
漱石「そうじゃ夢に画を活かす話じゃ。聞きたくば蜘蛛も聞け」と膝の上なる詩集を読むともなしに開く。
漱石百二十間の廻廊があって、百二十個の燈籠をつける。百二十間の廻廊に春の潮が寄せて、百二十個の燈籠が春風にまたたく、朧の中、海の中には大きな華表が浮かばれぬ巨人の化物の如くに立つ。……」
 戸鈴の響がして何者か門口をあける。話し手ははたと話をやめる。
保治「隣だ」
 蛇の目を開く音がして「また明晩」と若い女の声。「必ず」と男。三人は無言のまま顔を見合せて微かに笑う。
保治「あれは画じゃない、活きている」
漱石「あれを平面につづめればやはり画だ」
保治「しかしあの声は?」
漱石「女は藤紫」
保治「男は?」
漱石「そうさ」何と言ってよいか分からない。女の方を向く。
楠緒「緋」と賤しむ如く答える。
漱石百二十間の廻廊に二百三十五枚の額が懸って、其二百三十二枚目の額に画いてある美人の……」
楠緒「声は黄色ですか茶色ですか」
漱石「そんな単調な声じゃない。色には直せぬ声じゃ。強しいて云えば、ま、あなたの様な声かな」
楠緒「難有う」
 女の眼の中には憂をこめて笑の光が漲みなぎる。
 この時どこからか二疋の蟻が這出して一疋は女の膝の上に攀上る。女は白い指で軽く払い落す。落された蟻は菓子皿へ向かう。
保治「八畳の座敷があって、三人の客が坐わる。一人の女の膝へ一疋の蟻が上る。一疋の蟻が上った美人の手は……」
漱石「白い。蟻は黒い」三人が斉しく笑う。
楠緒「其画にかいた美人が?」と又話を戻す。
漱石波さえ音もなき朧月夜に、ふと影がさしたと思えばいつの間にか動き出す。長く連なる廻廊を飛ぶにもあらず、踏むにもあらず、只影の儘にて動く
保治「顔は」と尋ねる。

 隣の合奏がまた聞え出す。あまり旨くはない。
漱石「蜜を含んで針を吹く」皮肉な評語。
保治「ビステキの化石を食わせられているみたいだな」こちらは直球である。
楠緒「造り花なら蘭麝でも焚き込めなければ……」女の評が一番辛辣かも知れない。
漱石珊瑚の枝は海の底、薬を飲んで毒を吐く軽薄の児。……それそれ。合奏より夢の続きが肝心じゃ。――画から抜けだした女の顔は……」
保治「描けども成らず、描けども成らず」と調子を取って軽く菓子椀を叩く。蟻は菓子椀の中を右左へ馳け廻る。
楠緒「蟻の夢が醒めました」
漱石「蟻の夢は葛餅か」と笑う。
保治「抜け出ぬか、抜け出ぬか
楠緒「画から女が抜け出るより、あなたが画になる方が、やさしう御座んしょ」
漱石「それは気がつかなんだ、今度からは、こちらが画になろうか」
保治「蟻も葛餅にさえなれば、こんなに狼狽えんでも済む事を」と葉巻をふかしながら、伸びて軒に迫る女竹の、風に揺れて椽に緑の雫を垂らす様子を眺めて、「あすこに画がある」
漱石「ここにも画が出来る」床の間の若冲を振り返る。ほの暗いので古い軸と区別がつかない。

 女は洗える儘の黒髪を肩に流して、丸張りの絹団扇を軽く揺がせば、折々は鬢のあたりに、そよと乱るる雲の影、収まれば淡き眉の常よりも猶晴れやかに見える。桜の花を砕いて織り込める頬の色に、春の夜の星を宿せる眼を涼しく見張りて「私も画になりましょか」と云う。はきと分らねど白地に葛の葉を一面に崩して染め抜きたる浴衣の襟をここぞと正せば、暖かき大理石にて刻める如き頸筋が際立ちて男の心を惹く。
漱石「其儘、其儘、其儘が名画じゃ」
保治「動くと画が崩れます」
楠緒「画になるのも矢張り骨が折れます」
 女は膝に乗せた右手をいきなり後ろへ廻わして体をどうと斜めに反らす。丈長き黒髪がきらりと灯を受けて、さらさらと青畳に障る音さえ聞える。
漱石「南無三、好事魔多し」
保治「刹那に千金を惜しまず」と葉巻の飲み殻を庭へ抛きつける。
 隣の合奏はいつしかやんで、樋を伝う雨点の音のみが高く響く。蚊遣火はいつの間まにやら消えた。
保治「夜もだいぶ更ふけた」
漱石「ほととぎすも鳴かぬ」
楠緒「寝ましょか」

 彼らは凡てを忘れ尽したる後漸く太平に入る。女はわがうつくしき眼と、うつくしき髪の主である事を忘れた。一人の男は髯のある事を忘れた。他の一人は髯のない事を忘れた。彼等は益々太平である。
 昔阿修羅が帝釈天と戦って敗れたときは、八万四千の眷属を領して藕糸孔中に入って蔵れたとある。維摩が方丈の室に法を聴ける大衆は千か万か其数を忘れた。胡桃の裏に潜んで、われを尽大千世界の王とも思わんとはハムレットの述懐と記憶する。粟粒芥顆のうちに蒼天もある、大地もある。一生師に問うて云う、分子は箸でつまめるものですかと。分子は暫く措く。天下は箸の端にかかるのみならず、一たび掛け得れば、いつでも胃の中に収まるべきものである。
 又思う百年は一年の如く、一年は一刻の如し。一刻を知れば正に人生を知る。日は東より出でて必ず西に入る。月は盈つればかくる。徒らに指を屈して白頭に到るものは、徒らに茫々たる時に身神を限らるるを恨むに過ぎぬ。日月は欺くとも己れを欺くは智者とは云われまい。一刻に一刻を加うれば二刻と殖えるのみじゃ。蜀川十様の錦、花を添えて、いくばくの色をか変ぜん。
(『一夜』脚本 畢)

 この「一刻を知れば正に人生を知る」は、本ブログ坊っちゃん篇で紹介したヴィトゲンシュタインの「現在を生きる者は永遠に生きる」のことであろう。それはまた「刹那に千金を惜しまず」にも通ずる。

 永遠を終わりのない無限に続く時間の連続としてでなく、「非時間」と解するなら、現在を生きる者は永遠に生きる。(ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』6-4311)

 そして『一夜』は、作者の宣言めいた次の一文で締め括られる。

 八畳の座敷に髯のある人と、髯のない人と、涼しき眼の女が会して、斯くの如く一夜を過した。彼等の一夜を描いたのは彼等の生涯を描いたのである。(『一夜』末尾近く/再掲)

 読者はこの詩的コントから、作者の言う通り、例えば漱石・保治・楠緒の生涯を感じ取ることが出来るだろうか。