明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 9

265.『坊っちゃん』のカレンダー(4)――もうひとつのカレンダー


 滑稽小説『坊っちゃん』に自分の人生を(勝手に)結びつけられては、漱石もさぞ迷惑であろうが、チャプリンの映画の目立たないギャクに、チャプリンの幼少期の悲劇が感じ取られることもあるのではないか。とすれば、それが喜劇王であろうが小説家であろうが政治家であろうが、社会に向けて発信する以上、そこに当人の弱年時の心の傷が見え隠れして何の不思議もない。チャプリンヒトラーを演じたことにある必然を見る者にとっては、(チャプリンはそのように主張していると取られないように作っているが、)『坊っちゃん』は(『猫』でも)漱石の「少年時代の悲哀」の代弁者以外の何物でもない。漱石は『心』を「あれは子供が読んでためになるものじゃありませんからおよしなさい」と言っているが(地方の小学生宛書簡)、『猫』や『坊っちゃん』ならいいとも、決して言う筈はないのである。

 ところで坊っちゃんは作品発表時24歳であるとするのが一般的であるが、このとき作者は40歳。狸ほどではないが年は赤シャツの方に近いだろう。三四郎以下の例もあるので読者はとくに不都合を感じない。中年の漱石が自分より1廻り以上も若い主人公を描く。それは自分の青年時代を懐かしく想い出して書いているというよりは、今現在を生きる若者を書こうとしいていると言ってよい。それは当然それでいいのであるが、『坊っちゃん』の読後感だけは、『三四郎』以下の新聞小説とずいぶん異なる。それは『坊っちゃん』が滑稽小説として書かれているという読み方をすれば、何の不思議もない。本ブログ冒頭にも述べたように、漱石は朝日入社後は『坊っちゃん』のような筆致を封印して、たとえば『破戒』のような「真面目で正統的な」現代小説を目指したと見れば、読後感が違って当り前である。
 しかし漱石はそんな器用な小説家であろうか。発表媒体によって書き分けるような現代的作家であろうか。もちろん漱石は朝日入社後は外に小説を書き得なかったのだから、そんなことを言っても始まらないのであるが、その議論を離れても『坊っちゃん』のユニークさは際立っている。そこには何か別の理由が考えられはしないか。『坊っちゃん』の読後感の特異性というのは、もっと別なところにその原因が潜んでいるのではあるまいか。

 ということで前項までの『坊っちゃん』のカレンダーで、その決め手となったのは2ヶ所だけである。

①祝勝会が日露戦捷であるからには、それは明治38年10月である。
②そのあと「今年の二月」に清が死んだと書かれるから、今は明治39年(2月)である。

 これでとりあえずは何の問題もない。すると残るのは1つだけ。祝勝会が本当に日露戦役のことを指すのかという問題である。
 というのは『坊っちゃん』の本文を読んでいて、漱石のよく書く、後から振り返るような書き方がいくつかされているが、その感じが何となく、小説が指し示している年次より、もっと長いような感じがするのである。

③清に貰った3円を「今となっては十倍にして返してやりたくても返せない」と語っていること。
(18歳時の借金3円を24歳時に振り返っている。)
④兄が九州へ発ったとき「二日たって新橋の停車場で分れたぎり兄にはその後一遍も逢わない」と語っていること。
(20歳時の肉親との永別らしき別れを24歳時に振り返っている。)
⑤物理学校入校を「今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から起った失策だ」と語っていること。
(20歳時の進学決定を24歳時に振り返っている。)
⑥中学校赴任を「これも親譲りの無鉄砲が祟ったのである」と語っていること。
(23歳時の就職決定を24歳時に振り返っている。)
⑦神戸から夜行の急行列車で新橋に着いたとき「山嵐とはすぐ分れたぎり今日まで逢う機会がない」と語っていること。
(明治38年11月の出来事を翌明治39年3月に振り返っている。)
⑧「清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが、気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった」という記述。
(再会した清との生活は僅か1~2ヶ月であった。)

 勿論おかしくはない。しかし漱石の書き振りからすると、何となくこれに5年~10年ほどプラスしたいような感じを受ける。
 では小説に書かれた祝勝会が日清戦役時のそれだとしたらどうだろうか。明治27年7月末開戦、9月黄海海戦大勝利、翌明治28年4月講和である。祝賀会が明治27年10月に行なわれても、明治28年10月に行なわれても不思議ではない。例の「日清談判破裂して」という壮士歌というか流行歌も、日清戦争前には歌われていたという。実際にも漱石は明治28年4月に伊予中学校に赴任して日清戦捷の祝賀会も見聞しているから、坊っちゃんが明治27年または明治28年に赴任してちっともおかしくないのである。物理学校もその10年以上前に開校しているので、理屈に合わない箇所はとりあえず1つもない。それで漱石と同じ明治28年赴任説を採ってみると、坊っちゃんのカレンダーは次のようになる。

明治6年 1歳 坊っちゃん生まれる 兄4歳
明治7年 2歳
明治8年 3歳 この頃清が下女として同居か
明治9年 4歳
明治10年 5歳
明治11年 6歳
明治12年 7歳
明治13年 8歳 小学校入学
明治14年 9歳
明治15年 10歳 この頃いたずら盛り
明治16年 11歳 勘太郎退治事件
明治17年 12歳
明治18年 13歳 人参畠事件 田圃の井戸事件
明治19年 14歳 台所で宙返り 母が亡くなった
明治20年 15歳 中学1年 飛車投擲事件(勘当・清のとりなし)
明治21年 16歳 中学2年
明治22年 17歳 中学3年
明治23年 18歳 中学4年 3円借金事件・後架事件
明治24年 19歳 中学5年
明治25年 20歳 正月父死亡
4月 中学卒業
6月 兄高等商業卒業
7月 神田小川町へ下宿
8月 兄九州へ赴任
9月 物理学校入学

明治26年 21歳 物理学校2年
明治27年 22歳 物理学校3年 日清戦争開戦
明治28年 23歳
4月 日清戦争講和
7月 物理学校卒業
8月 清との別れ
9月 松山中学赴任
10月 日清祝勝会式典
11月 天誅事件~帰京~山嵐との別れ~清との再会

明治29年 24歳 鉄道関係に再就職か

 ・ ・ ・ (清との幸せな日々)

明治36年 31歳 この頃街鉄に移る
明治37年 32歳
2月 日露戦争開戦

明治38年 33歳
9月 日露戦争講和
このころ清の懇請により養源寺に墓所の区画を申し込む

明治39年 34歳
2月 清の死
3月 清の埋葬
3月 坊っちゃんによる手記が書かれる
4月 『ホトトギス』に手記が発表される

 どうだろうか。「街鉄の技手に」スムーズに繋げるのは苦しいが(街鉄設立は明治36年であるから)、しかしこれだと清の死は10年延びる。10年に限ったことであろうか。も少し融通が効かないか。

 一時間あるくと見物する町もない様な狭い都に住んで、外に何にも芸がないから、天麩羅事件を日露戦争のように触れちらかすんだろう。憐れな奴等だ。小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねっこびた、植木鉢の楓見た様な小人が出来るんだ。(『坊っちゃん』第3章)

 つまり坊っちゃん日露戦争という、「歴史的事実」を知った上で、思い出を語っているのであるから、そしてその上で「今年の2月死んでしまった」と語っているのだから、その「今年」とは明治37年より前ではありえない。ぎりぎり坊っちゃんは明治37年か38年に思い出を語っていたと言い張れなくもないが、まあふつうに考えれば(物語の書かれた)明治39年であろう。
 日清戦争時代の中学校での出来事の回想に、日露戦争を比喩に使うのはあまりないことだが、例えば「戊辰戦争幕府軍は、太平洋戦争の日本軍のように負けてしまった」というような言い方は可能である。
 上記の文章でいえば、「歴史的事実」と書いたのは、勿論現代から日露の時代を見たからそう書いたのであるが、それを「つい最近の大事件」と書いても、文脈上は間違いではない。何が言いたいかというと、「日露戦争」(や「クロパトキン」)という言葉が使われたからといって、それが必ずしも天麩羅事件の起きた年のことを指すとは限らないのである。

 10年あれば養源寺の問題も、清の要請を受けた坊っちゃんが改めて区画を買い直して、めでたく檀家に復帰したという仮説も成り立つ。
 それより漱石はこの、小説に書かなかった10年間を、意図的に抹消したのではないだろうか。
 論者はその10年間を便宜的に至福の時「清との幸せな日々」と表現したが、その10年間が何であるかは、漱石自身にとっては余計なお世話であろう。

 ちなみにもうひとつの坊っちゃんの生年明治6年は、旧暦と新暦の切替え年次でもあるが、坊っちゃんは酉の一白水星ということになる。この頃生れた人は藤村、秋声、鏡花、虚子、碧梧桐、鉄幹、杉村楚人冠上田敏。いずれも坊っちゃん漱石)に引けを取らない錚々たるメンバーである。
 一方明治16年説を採ると、誰もいない。後から振り返っても阿部次郎、安倍能成、野上豊一郎、小宮豊隆漱石 quartet だけである。これではいかに漱石ファンであっても、オルタネートのカレンダーの方を支持したくなるのではないか。
 それとも坊っちゃん文人でないことは明らかであるから、漱石が分かってやったことか。坊っちゃんは文学書は読まなかっただろうが、それでも『破戒』を書いた島崎藤村の同期生だった可能性がある。――志賀直哉は明治16年2月生れであるから学齢では明治15年度生にあたる。(小宮豊隆は明治17年の早生れ。)他に明治16年生れの文人は本当に誰も居ない。僅かに相馬御風、前田夕暮北一輝を数えるのみである。