明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 8

264.『坊っちゃん』のカレンダー(3)――結末の謎


 ところで書出しの1行が漱石のすべてを表わすという議論の当否はともかくとして、『坊っちゃん』末尾の一節もまた、漱石にとっては様々に考えた末の、まさに掉尾を飾るに相応しい名文ではなかろうか。

 汽船は夜六時の出帆である。山嵐もおれも疲れて、ぐうぐう寝込んで眼が覚めたら、午後二時であった。下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。赤シャツも野だも訴えなかったなあと二人は大きに笑った。
 其夜おれと山嵐は此不浄な地を離れた。船が岸を去れば去る程いい心持ちがした。神戸から東京迄は直行で新橋へ着いた時は、漸く娑婆へ出た様な気がした。山嵐とはすぐ分れたぎり今日迄逢う機会がない。
清の事を話すのを忘れて居た。②――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げた儘、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれも余り嬉しかったからもう田舎へは行かない、③東京で清とうちを持つんだと云った。
 其後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、屋賃は六円だ。④清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に⑤今年の二月肺炎に罹って死んで仕舞った。⑥死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、⑦坊っちゃんの御寺へ埋めて下さい。⑧御墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待って居りますと云った。だから清の墓は⑨小日向の⑩養源寺にある。(『坊っちゃん』第11章小説末尾)

 本ブログ(坊っちゃん篇)冒頭でも触れたように、漱石は虚子宛に「自然に大尾に至れば名作」と書いているが、その自らの予言通り、『坊っちゃん』は国史に名を残す名作となった。
 ①はもちろん漱石は、清のことを一瞬たりとも忘れていないのでそう書いたのだろうが、ふつう漱石はそういう、あざとい書き方はしない。嘘はどんなに小さな嘘でも吐いてはいけないのが漱石である。であればこれはやはり本当に忘れていたのか。そう思って読むと、引き続きのダーシは、『直筆で読む「坊っちゃん」』のある箇所を想起させる。
 それは第3章の真ん中辺、骨董責めに逢う坊っちゃんが天麩羅蕎麦を4杯食うシーンの、導入部にあたるくだりである。

 ・・・此男は馬鹿に相違ない。学校の方はどうか、こうか無事に勤まりそうだが、こう骨董責に逢ってはとても長く続きそうにない。
 其うち学校もいやになった。⑪ある日の晩大町と云う所を散歩して居たら郵便局の隣りに蕎麦とかいて、下に東京と注を加えた看板があった。おれは蕎麦が大好きである。・・・(『坊っちゃん』第3章)

 この⑪の文章の頭に、漱石の自筆による吹き出しで、「(二字アケル)」という指示が追加されている(括弧も漱石の書いたまま)。この漱石直々の指示に反応している『坊っちゃん』の版を見たことがない。あらゆる出版物が漱石の原稿の明確な指示を無視している。無視するのはいいとしても、その断り書きさえない。これはどうしたことか。「2字アケ」というのは出版印刷のルールにないのかも知れないが、それと漱石の指示を無視してよいという話は別である。
 分かりやすくするために漱石の原稿を、書いたそのままに紹介すると、

 其うち学校もいやになった。(二字アケル)ある日の晩大町と云う所を散歩して居たら・・・

 となる。読者は戸惑うだろうが、かといって(馬鹿正直に)2文字分スペースにしても、意味不明なのは変わらない。
 これは『三四郎』の「改行セズ」問題を想起させるものであるが、『坊っちゃん』の場合は、
「1行空ける」
 という指示も、原稿の中に何箇所かあり、漱石の版組に対する意思も明確なのであるから、ここは極力その意思に応えるべきではないか。
 すなわちここはとりあえず②のようなダーシなりリーダなりを挿入すべきではなかったか。漱石はダーシもリーダもふんだんに使っているが(『坊っちゃん』全体で優に100ヶ所を超える)、その書き振りは原稿用紙の1桝を使用したものである。通常通りの(吹き出しでの)指示であれば、ダーシ等を(ちょこっと)挿入すればいいわけで、それをわざわざ「2字アケル」と指示したのは、漱石はそこにダーシやリーダ以上のものを求めているといってよい。具体的にはどうしたらよいか誰にも分からなかったわけだが、であれば漱石に確認するのが筋であろう。しかしそう言っても始まらないので、ここではとりあえず、A案「2倍の長さのダーシを入れる」と、B案「改行したうえでダーシを入れる」という2通りのやり方を列記してみる。

A案 ・・・此男は馬鹿に相違ない。学校の方はどうか、こうか無事に勤まりそうだが、こう骨董責に逢ってはとても長く続きそうにない。
 其うち学校もいやになった。――――ある日の晩大町と云う所を散歩して居たら郵便局の隣りに蕎麦とかいて、下に東京と注を加えた看板があった。おれは蕎麦が大好きである。・・・(『坊っちゃん』第3章改A案)

B案 ・・・此男は馬鹿に相違ない。学校の方はどうか、こうか無事に勤まりそうだが、こう骨董責に逢ってはとても長く続きそうにない。
 其うち学校もいやになった。
 ――ある日の晩大町と云う所を散歩して居たら郵便局の隣りに蕎麦とかいて、下に東京と注を加えた看板があった。おれは蕎麦が大好きである。・・・(『坊っちゃん』第3章改B案)

「そのうち学校も厭になった」というのは、漱石の満腔の同意を得た坊っちゃんのつぶやきである。漱石が書きたくてたまらなかったセリフであろうが、(学園小説ばかり書いているわけでもないので)なかなかそういう場面にも行き当らない。(後日『野分』で改めて試してみようと思ったが、あるいは坊っちゃんの仇を討とうとしたが、結局うまく行かなかった。)
 その肝となる一句の後に続く、大好きな天麩羅蕎麦の話である。常識的には、学校が嫌になったという気分と、散歩中に蕎麦屋に出くわしたこととを、直接関連させたくないという思いが、漱石にそのような変則的な指示をさせたのであろうが、ここは教師が嫌で堪らないという本音が出てしまうのを気にして、その気持が「2字アケ」の指定に繋がったのだろう。自分の気持に正直過ぎる。これを表現する言葉はとりあえず無いのである。改行とかダーシ(ダッシュ)を除いては。

 ところで坊っちゃんの新しい借家はつましいものであったと思われるが、つまり部屋数がいくつもあったとは思えないが、⑥の「死ぬ前日おれを呼んで」最後の別れを惜しんだような書き方からすると、清はまだ甥の家にいるような感じも受ける。③と④の記述から、そうではないとは分かるが、だとするとこの「死ぬ前日おれを呼んで」というのは、死の床からおれを手招きしてという意味であったのか。清が亡くなる当日、坊っちゃんは家でどのように過ごしたのだろうか。坊っちゃんは前の日からずっと清のそばを離れなかったのだろうか。
 ともかく清の死は、⑤のように「今年の2月」であるとはっきり書かれ、ここに『坊っちゃん』のカレンダーは一気に成立した。漱石が『坊っちゃん』を書いている明治39年のまさに3月、坊っちゃんもまた自分の半生の手記を書いていたのである。

 そしてあわただしくも清の埋葬も3月中に、⑦の最期の希み通り、小日向の養源寺に1区画を買って執り行なわれたと想像できる(⑨⑩)。逆算して清の死は2月の上旬であろうか。坊っちゃんの街鉄就職は1月になってからと推測されるが、そうであれば坊っちゃんと清との「蜜月」は、わずか1ヶ月のものだったのか。
 金(費用)は清が死ぬときに残していたのだろう。しかし金のことよりも、ここでは坊っちゃんの家と養源寺との関係が今一つはっきりしない。坊っちゃんの家の檀那寺が養源寺であるのはいいとして、しかし坊っちゃんの家は父親が亡くなったときに、兄がすべてを処分して九州へ行ってしまった。寺との関係だけ保つのであれば、坊っちゃんが兄とその後一遍も逢わないというのはヘンである。もちろん坊っちゃんが家長を代行して、檀家としての付き合いを継続していたということは、ありえない。
 唯一考えられるのは、兄が九州へ発つとき養源寺に永代供養および残された家族の埋葬や戒名までを一括で頼んで、大枚の金を渡していたというもの。しかし兄に将来出来るであろう家族、坊っちゃんにも当然家族は想定されよう。男の子が生まれたり養子を取れば檀家としての交際は50年100年と続く。そんなものをすべて包括した契約などというものが存在するだろうか。坊っちゃんは両親の位牌の、そのありかさえ知らないのではないか。
 坊っちゃんが将来養源寺に入るということを信じるに足る理由はどこにあるか。清がそれを信じていたとして、であれば清が幼い坊っちゃんをつかまえて、可哀想だ不仕合せだと言った理由の説明が付かない。明治に死んでいく年寄りの幸不幸の感情が、(物理的な)墓に直結していたことは想像に難くないが、⑧の記述が真実であれば、坊っちゃんの不幸という話はどこへ行ったのか。

 とまあ、お寺に関心のない漱石にいくら言っても始まらないのであるが、⑨の「小日向」は、原稿写真版を見ると、「小石川」を消して「小日向」と書き直している。こじつけるようだが、これが『心』で先生の下宿を小石川に置いた遠因になっていると思われる。先生と奥さん御嬢さんは、凶事のあった小石川を避けて、同じ小石川区でも地名に小石川の冠の附かない、小日向台地に新しい棲み家を見出した。先生は小石川を捨てて、小日向に住まいつつ、雑司ヶ谷へ通ったことになる。
 漱石の実家の菩提寺は小日向にある真宗のお寺である。(漱石自身の墓は周知の通り雑司ヶ谷墓地である。)『坊っちゃん』の運筆速度から見て、この小説の結びの一句は最初から、

だから清の墓は小日向の養源寺にある。

 で何の迷いもなく決まるはずである。それをまず、

だから清の墓は小石川の養源寺にある。

 と書いてしまった漱石の心情を忖度すると、悲哀の念に堪えない。漱石はいったんは自家の墓所小日向の名を忌んで、別の地名にしようとしたが、やはり思い直して小日向を使用した。(第6章の職員会議のときにいったん養源寺の名を出しているが、そのときも写真版を見ると「小日向」と「小石川」を迷ったような、ためらったような書き方をしている。)
 結局漱石は小日向に気を遣う必要がないと割り切ったのであろう。小石川は後々の小説で主人公たちが活動する地域として、「とっておく」ことにしたのであろう。
 漱石の自らの預言は8年後に、『心』で成就した。そしてその小説に描かれた、小石川-小日向-雑司ヶ谷の3点セットは、10年後漱石自身の死によって、その(『坊っちゃん』のときの)預言の続きに、奇妙なオチが付けられたのである。