明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 16

312.『草枕』目次(3)第2章――画工33歳那美さん25歳


第2章 峠の茶屋で写生と句詠(全4回)

1回 高砂の媼
(P15-3/「おい」と声を掛けたが返事がない。軒下から奥を覗くと煤けた障子が立て切ってある。向う側は見えない。五六足の草鞋が淋しそうに庇から吊されて、屈托気にふらりふらりと揺れる。下に駄菓子の箱が三つ許り並んで、そばに五厘銭と文久銭が散らばって居る。)
茶店の婆さんは高砂の媼にうり二つ~婆さんが美しいのではなく高砂の媼が美しいのだ~婆さんの横顔を写生する

 雨に濡れて頓挫しそうになった非人情の旅であるが、茶屋の囲炉裏の火で立て直して、早速その実例を披露する。

 二三年前宝生の舞台で高砂を見た事がある。その時これはうつくしい活人画だと思った。箒を担いだ爺さんが橋懸りを五六歩来て、そろりと後向になって、婆さんと向い合う。その向い合うた姿勢が今でも眼につく。余の席からは婆さんの顔が殆ど真むきに見えたから、ああうつくしいと思った時に、其表情はぴしゃりと心のカメラへ焼き付いて仕舞った。茶店の婆さんの顔は此写真に血を通わした程似ている。

 茶店の婆さんが美しいなら、それは「人情」である。しかし婆さんは直接愛でられるのではなく、『高砂』の婆さんに瓜二つであるという。高砂の媼は自分の心に残る美しい記憶である。それが甦った。これが脱世間であり非人情であるという。似ているか似ていないかは喜怒哀楽に関係ない、単なる事実である(と漱石は言う)。記憶が呼び覚まされたというのも同じ理屈による。この非人情論はふつうの人には理解されにくいだろう。

2回 那古井の志保田
(P18-7/折りから、竃のうちが、ぱちぱちと鳴って、赤い火が颯と風を起して一尺あまり吹き出す。「さあ、御あたり。嘸御寒かろ」と云う。軒端を見ると青い烟りが、突き当って崩れながらに、微かな痕をまだ板庇にからんで居る。「ああ、好い心持ちだ、御蔭で生き返った」)
さあ御あたり~いい具合に雨も晴れました~ここから那古井迄は一里足らずだったね~宿屋はたった一軒だったね

「宿屋はたった一軒だったね」
「へえ、志保田さんと御聞きになればすぐわかります。村のものもちで、湯治場だか、隠居所だかわかりません」
「じゃ御客がなくても平気な訳だ」
旦那は始めてで
いや、久しい以前一寸行った事がある

 画工はそう言うが、那古井が2度目であることは小説全体からは伝わって来ない。このセリフから推測されることは、(画工でなく)漱石が那古井の温泉に2度行ったことがあるということである。こんな正直な小説があるだろうか。
 何に対して正直か。自分の気持ちに正直というだけで、小説が永遠の生命を保てるとは思えないが、とりあえず漱石の小説が百年経っても読まれ続けていることの、必要条件ではあろう。
 確実に言えることは、主人公が那古井を始めて訪れた設定にするのであれば、Yes にせよ No にせよ、こんな問答は挿入されなかっただろう。根が天邪鬼なのである。

 画工は婆さんに続いて鶏もスケッチする。写生帖の余白に始めて1句披露する。『草枕』はまた俳句小説でもあった。

 春風や惟然が耳に馬の鈴

3回 源さんと馬子唄
(P21-8/只一条の春の路だから、行くも帰るも皆近付きと見える。最前逢うた五六匹のじゃらんじゃらんも悉く此婆さんの腹の中で又誰ぞ来たと思われては山を下り、思われては山を登ったのだろう。)
源さんと婆さんが那古井の御嬢様の噂話をする~嫁入のとき馬でこの峠を越した~ミレーのオフェリア

「・・・御秋さんは善い所へ片付いて仕合せだ。な、御叔母さん」
「難有い事に今日には困りません。まあ仕合せと云うのだろか」
「仕合せとも、御前。あの那古井の嬢さまと比べて御覧」
「本当に御気の毒な。あんな器量を持って。近頃はちっとは具合がいいかい
なあに、相変らずさ
困るなあ」と婆さんが大きな息をつく。
困るよう」と源さんが馬の鼻を撫でる。

 那美さんの健康状態についての第1回目。源さんと婆さんは振袖姿で馬に乗った花嫁の姿を思い出している。画工はまだ何の話か分からない。しかし早くもそこに死の影を感じている。

4回 長良の乙女
(P23-15/「それじゃ、まあ御免」と源さんが挨拶する。「帰りに又御寄り。生憎の降りで七曲りは難義だろ」「はい、少し骨が折れよ」と源さんは歩行出す。源さんの馬も歩行出す。じゃらんじゃらん。「あれは那古井の男かい」)
志保田の嬢様の話~長良の乙女の話~ともに2人の男が祟った~今度の戦争で夫の銀行が倒産

「志保田の嬢様が城下へ御輿入のときに、嬢様を青馬に乗せて、源兵衛が覊絏を牽いて通りました。――月日の立つのは早いもので、もう今年で五年になります」

・・・

「嘸美くしかったろう。見にくればよかった」
「ハハハ今でも御覧になれます。湯治場へ御越しなされば、屹度出て御挨拶をなされましょう」
「はあ、今では里に居るのかい。矢張り裾模様の振袖を着て、高島田に結って居ればいいが」
たのんで御覧なされ。着て見せましょ
 余はまさかと思ったが、婆さんの様子は存外真面目である。非人情の旅にはこんなのが出なくては面白くない。・・・

 那美さんの健康状態についての第2回目。言責は婆さんにある。出帰りの御嬢さんが、5年経って洒落にも花嫁衣裳を着て見せるはずがない。しかしそうとも限らないことを茶店の婆は知っている。

 『草枕』の執筆は明治39年夏であるが、この章では今次の戦争という言葉が出て来て、画工が置いた茶代の10銭銀貨を見ても、この戦争が日露戦役(明治37年2月~明治38年9月)であることが分かる。後章では「日露戦争が済む迄」(13章)とはっきり書かれており、物語の今は明治38年春であろうか。

 それで画工が第1章で、

「世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏の如く、日のあたる所には屹度影がさすと悟った。三十の今日はこう思うて居る。――」(第1章)

 そして第3章で(始めて那美さんに正対して)、

「然し生れて三十余年の今日に至るまで未だかつて、かかる表情を見た事がない。」(第3章)

 と言っているから、画工の年齢はまず32、3歳か。(ある年次の中で、生れて31年経ったと表明出来る人は、数えで32歳の人である。それも自分の誕生月が来ないと、精確に31年経ったとは申せない。30年でなく生れて31年経っていると大威張りで主張できるのは、むしろ正月を以って33歳になった人である。この場合三十余年を最も若い31年と見做して、それでも32歳が下限年齢で、可能性としては33歳の方が高い。)那美さんは5年前の嫁入りが20歳くらいと見て、現在25、6歳といったところだろう。両者お似合いの年頃というのがミソである。

 余談だが画工が明治6年生まれ(明治38年春で33歳)とすると、これは『坊っちゃん』が(日露でなく)日清戦争のころ、つまり漱石と同じ明治28年に松山入りしたという、本ブログ坊っちゃん篇で述べたオルタネイトの坊っちゃんの年齢(生年)に一致する。

 『草枕』目次。引用は岩波書店『定本漱石全集第3巻』(2017年3月初版)を新仮名遣いに改めたもの。回数分けは論者の恣意だが、その箇所の頁行番号ならびに本文を、ガイドとして少しく附す。(各回共通)