明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 10

266.『坊っちゃん聖典発掘(1)――松山弁の呪縛


 ここで趣向を変えて、せっかく集英社版『直筆で読む「坊っちゃん」』が出版されているのだから、虚子が書き加えたとされる松山弁絡みの部分を取り去った、漱石の書いたままの「文章」を復元してみたい。(「文字」の復元ではない。)
 手始めにまず、(虚子が添削した後の)現行本文の「復元」を試みる。ここでは虚子が手を加えた(と思われる)部分を赤字で示すことにする。次に項を改めて、漱石のオリジナルを鑑賞しようというわけである。意味のない行為かも知れないが、やってみないと分からない。
 対象は第7章、萩野の婆さんとの趣きのある会話シーン。写真版原稿の77枚目の終盤から82枚目冒頭行まで、凡そ4枚分。

 この会話シーンで漱石は大胆にも、マドンナと赤シャツ・うらなりの三角関係という小説のプロットを「説明」している。一歩間違えば作品の興を削いでしまう、その意味でも趣のある松山弁と東京弁のバトルである。漱石の「書いたままの」原稿を云々するのであるから、引用の底本はいつもと同じ岩波の、平成版漱石全集(第2巻1994年1月)と定本漱石全集(第2巻2017年1月)であるが、今回だけ新仮名遣いに直さず、旧仮名遣いを活かすことにした。同時にふだんは使用しない踊り字等もそのまま使う。
 そして写真版と現行本文を見比べてついでに気付いた箇所も、併せて取り上げることにした。その部分は下線で示し、理由を注記した。ルビは従来通り必要最小限とする。

《第7章の岩波版全集本文=青字、うち虚子添削部分と思われるもの=赤字》

 御婆さんは時々部屋へ来て色々な話をする。どうして奥さんをお連れなさつて一所に御出でなんだのぞなもしなどゝ質問をする。奥さんがある様に見えますかね。可哀想に是でもまだ二十四ですぜと云つたら、それでもあなた二十四で奥さんが御有りなさるのは當り前ぞなもしと冒頭を置いて、どこの誰さんは二十で御嫁を御貰ひたの、どこの何とかさんは二十二で子供を二人御持ちたのと、何でも例を半ダース許り挙げて反駁を試みたには恐れ入つた。それぢや僕も二十四で御嫁を御貰ひるけれ、世話をして御呉れんかなと田舎言葉を真似て頼んで見たら、御婆さん正直に本當かなもしと聞いた。
本當ほんとう本當ほんまつて僕あ、嫁が貰ひ度つて*仕方がないんだ」
「左様ぢやろうがな、もし。若いうちは誰もそんなものぢやけれ」此挨拶には痛み入つて返事が出来なかった。
「然し先生はもう、御嫁が御有りなさる極つとらい。私はちやんと、もうらんどるぞなもし
「へえ、活眼だね。どうして、睨らんどるんですか」
「何故しててゝ。東京から便りはないか、便りはないかてゝ、毎日便りを待ち焦がれて御いでるぢやないかなもし
「こいつあ驚いた。大変な活眼だ」
「中りましたらうがな、もし」
「さうですね。中つたかも知れませんよ」
「然し今時の女子は、昔と違ふて油断が出来んけれ、御気を御付けたがえゝぞなもし」
「何ですかい、僕の奥さんが東京で間男でもこしらへて居ますかい」
「いゝえ、あなたの奥さんは慥かぢやけれど……」
「それで、漸と安心した。夫ぢや何を気を付けるんですい」
あなたのは慥か――あなたのは慥かぢやが――」
「何処に不慥かなのが居ますかね」
「こゝ等にも大分居ります。先生、あの遠山の御嬢さんを御存知かなもし
「いゝえ、知りませんね」
まだ御存知ないかなもしこゝらであなた一番の別嬪さんぢやがなもし。あまり別嬪さんぢやけれ、学校の先生方はみんなマドンナ々々言ふといでるぞなもし。まだ御聞きんのかなもし
「うん、マドンナですか。僕あ芸者の名かと思つてた」
「いゝえ、あなた*。マドンナと云ふと唐人の言葉で、別嬪さんの事ぢやらうがなもし
「さうかも知れないね。驚いた」
「大方画学の先生が御付けた名ぞなもし
「野だがつけたんですかい」
「いゝえ、あの吉川先生が御付けたのぢやがなもし
「其マドンナが不慥なんですかい」
「其マドンナさんが不慥なマドンナさんでな、もし」
「厄介だね。渾名の付いてる女にや昔から碌なものは居ませんからね。さうかも知れませんよ」
ほん當に*そうぢやなもし。鬼神の御松ぢやの、妲妃の御百ぢやのてゝ怖い女が居りましたなもし
「マドンナも其同類なんですかね」
「其マドンナさんがなもしあなた。そらあの、あなたを此所へ世話をして御呉れた古賀先生なもし――あの方の所へ御嫁に行く約束が出来て居たのぢやがなもし――」
「へえ、不思議なもんですね。あのうらなり君が、そんな艶福のある男とは思はなかつた。人は見懸けによらない者だな。ちつと気を付けやう」
「所が、去年あすこの御父さんが、御亡くなりて、――夫迄は御金もあるし、銀行の株も持つて御出るし、万事都合がよかつたのぢやが――夫からと云ふものは、どう云ふものか急に暮し向きが思はしくなくなつて――詰り古賀さんがあまり御人が好過ぎるけれ、御欺されたんぞなもし。それや、これやで御輿入も延びて居る所へ、あの教頭さんが御出でゝ、是非御嫁にほしいと御云ひるのぢやがなもし
「あの赤シやツ*がですか。ひどい奴だ。どうもあのシやツは只のシやツぢやないと思つてた。それから?」
「人を頼んで懸合ふてお見ると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事は出来かねて――まあよう考へて見やう位の挨拶を御したのぢやがなもし。すると赤シやツさんが、手蔓を求めて遠山さんの方へ出入をおしる様になつて、とう々々あなた*、御嬢さんを手馴付けてお仕舞ひたのぢやがなもし。赤シやツさんも赤シやツさんぢやが、御嬢さんも御嬢さんぢやてゝ、みんなが悪るく云ひますのよ。一反古賀さんへ嫁に行くてゝ承知をしときながら、今更学士さんが御出たけれ、其方に替へよてゝ、それぢや今日様へ済むまいがなもしあなた*」
「全く済まないね。今日様所か明日様にも明後日様にも、いつ迄行つたつて済みつこありませんね」
「夫で古賀さんに御気の毒ぢやてゝ、御友達の堀田さんが教頭の所へ意見をしに御行きたら、赤シやツさんが、あしは約束のあるものを横取りする積はない。破約になれば貰ふかも知れんが、今の所は遠山家と只交際をして居る許りぢや、遠山家と交際をするのに別段古賀さんに済まん事もなからうと御云ひるけれ、堀田さんも仕方がなしに御戻りたさうな。赤シやツさんと堀田さんは、それ以来折合がわるいと云ふ評判ぞなもし」
「よく色々な事を知つてますね。どうして、そんな詳しい事が分るんですか。感心しちまつた」
「狭いけれ何でも分りますぞなもし
 分り過ぎて困る位だ。此容子ぢやおれの天麩羅や団子の事も知つてるかも知れない。厄介な所だ。然し御蔭様でマドンナの意味もわかるし、山嵐と赤シやツの関係もわかるし、大に後学になつた。只困るのはどつちが悪る者だか判然しない。おれの様な単純なものには白とか黒とか片づけて貰はないと、どつちへ味方をしていゝか分らない。
「赤シやツと山嵐たあ、どつちがいゝ人ですかね」
山嵐て何ぞなもし
山嵐と云ふのは堀田の事ですよ」
「そりや強い事は堀田さんの方が強さうぢやけれど、然し赤シやツさんは学士さんぢやけれ、働らきはあるかたぞな、もし。夫から優しい事も赤シやツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がえゝといふぞなもし
「つまり何方がいゝんですかね」
「つまり月給の多い方が豪いのぢやらうがなもし」(『坊っちゃん』第7章)

註* 嫁が貰ひ度つて 岩波の(書籍の)本文は「貰ひ」である。たしかに漱石はこの部分はそう書いている。前述したが、撥音でなくても「つ」を時折小さく書くのは漱石の癖である。たまたま原稿の文字が小さく見えたからといって、そこにたまたま漱石の意思が感じられたからといって、それをそのまま確定本文にしてしまっては、残りの何千万という文字すべてについて、(その大小を)漱石に確認しなければならない。書き漏らして後から(小さく)書き足すことだって、ないとは言えない。旧カナのルールの中でどうしても小さい「っ」を使うのであれば、それはルビに組み込むべきであろう。あるいは「ッ」とか「ヶ」とか、片仮名や符号のようなものに逃げた方がいいのではないか。旧カナでは「坊つちやん」が正しいはずであるが、どうしても「っ」を小さく書くのであれば、「坊ちやん」より「ぼつちやん」であろう。(初版本の扉は「坊ちゃん」になっているし、漱石は手紙では「坊ちゃん」と書いている。)

註* ほん當に 「ほんにそう(ぞな)」を「ほん當にそう(ぢやなもし)」に改めている。當の字はすぐ前にも「本當(ほんとう)の本當(ほんま)のつて」と現れて(それ自体不思議な記述であるが)、この当該吹き出しの(原稿の)當の字は漱石の書いた字にそっくりである。ここは漱石が直した箇所かも知れないが、ちょっと気になったので入れてみた。「ほんに」も「ほんとうに」も両方使われる言葉であるが、「ほんに」の方は関西弁に近い。江戸っ子はまず使わない。中国四国でもあまり使われないように思われる。漱石は萩野の婆さんなら使うだろうと思ってそう書いたのだが、直したとすればその真意は、

《松山の人は「ほんに」と言うより、「ほんとうに」と言う方が自然である。》

 ということであろう。これは少なくとも漱石の中からストレートに出て来る発想ではあるまい。瀬戸内は文化圏としてはもちろん関西に属しているが、言葉にはどちらかといえば関東に近い乱暴さがある。少なくとも京言葉は使われないようである。それを使うのは、むしろ金沢の人の方であろうか。

註* 赤シやツ 岩波の本文は「赤シ」である。(論者の記述も基本は「赤シャツ」である。)しかし漱石の書いた通りを重んじるなら、「赤シやツ」であろう(清への手紙は「赤しやつ」)。虚子とも松山弁とも無関係だが、以下本項のこのくだりに限って、「赤シやツ」と表記することにする。文字の復元ではないと先に記したが、ここでは漱石の原稿の文面を論じているのだから。

註* あなた 岩波の本文は「あなた」に統一されているが、この萩野の婆さんのセリフでは漱石は「あんた」と「あなた」を混在させている。それでおそらく虚子の添削の段階で、方言の意味合いも含めて、「あなた」に統一されたと想像される。漱石は自分の子供に「あんた」と言うことを咎めているから(「あんた」という言葉はない、とまで言い切っている)、ここはわざと書き分けていると判断したい。漱石はこのくだりで6ヶ所「あんた」と書き、3ヶ所正しく「あなた」と書いた。もう1ヶ所は虚子によって「あなた」という言葉自体が書き加えられている。

《『坊っちゃん』本文の引用元》
集英社版直筆で読む「坊っちゃん」(2007年10月)
岩波書店漱石全集第2巻(1994年1月)・定本漱石全集第2巻(2017年1月)