明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 17

230.『先生と私』1日1回(3)――「其時」の用例


第3章 先生と奥さん
    私・先生・先生の奥さん

8回 先生の奥さんは美しい人~ある日の食卓にお酒が~「子供でもあると好いんですがね」「一人貰って遣ろうか」「貰っ子じゃ、ねえあなた」
9回 先生と奥さんは仲の好い一対~奥さんの名は静といった~でも諍いの声を聞いて玄関から引き返したことも~「妻が考えているような人間なら、私だって斯んなに苦しんでいやしない」
10回「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない」「妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思って呉れています」「私達は最も幸福に生れた人間の一対であるべき筈です」~ある日私はたまたま奥さんと二人切りで過ごすことがあった

 第5項の年表によると、(御大葬の3年前)明治42年では、先生35歳、奥さん30歳、私24歳である。私と奥さんの年齢差は6年、プラスマイナス1年ずつといったところか。むろん奥さんの方が年上であるが、年齢は近い。それで漱石としてはややこしい誤解を避けるために、あらかじめ布石が打ってある。

 普通の人間として私は女に対して冷淡ではなかった。けれども年の若い私の今迄経過して来た境遇からいって、私は殆ど交際らしい交際を女に結んだ事がなかった。それが源因か何うかは疑問だが、私の興味は往来で出合う知りもしない女に向かって多く働く丈であった。先生の奥さんには其前玄関で会った時、美くしいという印象を受けた。それから会うたんびに同じ印象を受けない事はなかった。然しそれ以外に私は是と云ってとくに奥さんに就いて語るべき何物も有たないような気がした。
 是は奥さんに特色がないと云うよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正当かも知れない。然し私はいつでも先生に付属した一部分の様な心持で奥さんに対していた。奥さんも自分の夫の所へ来る書生だからという好意で、私を遇していたらしい。だから中間に立つ先生を取り除ければ、つまり二人はばらばらになっていた。それで始めて知り合になった時の奥さんに就いては、ただ美しいという外に何の感じも残っていない。(『先生と私』8回)

 私は奥さんに対してはずっと今に至る迄、異性として意識をしたことがないし、これからもないと、露骨にならぬよう気を付けながら宣言している。
 ふつうの作家が「美しい」と書けば、それはある種の(その作家の)感情表現にはなる筈である。例えば川端康成若い女を「美しい」と書いた場合、その女に対して登場人物なり作家自身が、何がしかの芸術的感慨もしくはややこしい思念を抱いているであろうことは疑いない。ところが漱石の場合、ここまで10年近い文筆生活を送って来て、「美しい」という語句にそれ以上の何物も含まない、そんな世界を築き上げてしまった。言葉をたくさん識っている賜であると言ってしまえば身も蓋もないが、その源は漱石の倫理観に根差すものであろう。分かりやすく言うと、心がきれいだから、「美しい」という言葉を発したときに、それ以外の余計な感想が含まれないということである。これは真似しようという次元の話ではない。
 ちなみに上記引用文における私の、女性に対する態度というのは次のようにまとめられるだろう。

Ⅰ 女性に決して冷淡ではない。
Ⅱ 深く交際したことがない。
Ⅲ 往来で行き交う女に興味が働く。
Ⅳ そのとき美しいと感じたものがいつまでも記憶に残る。

 これは漱石自身の(女に対する)趣味性向と完全に一致しており、とするとこの部分だけ漱石は私に乗り移ったようである。とくに1番目は、『猫』の苦沙弥と同じであり(「元来主人は平常枯木寒巌の様な顔付はして居るものの実の所は決して婦人に冷淡な方ではない」)、そう思って読むと、すぐ先生の酒の話が出て来る。漱石度合いでは先生の方が私より1枚も2枚も上である。

「今夜は好い心持だね」
「是から毎晩少しずつ召上ると宜ござんすよ」
左右は行かない」(同8回)

 苦沙弥は「飲むとも」と言ったが、これは細君が「今夜は中々あがるのね。もう大分赤くなって入らっしゃいますよ」と言ったことに逆らったもので、先生は奥さんの提案を聞かないことでは、苦沙弥の顰に倣っている。
 本卦還りした漱石は、『猫』のような気分に戻ることもあったのだろうか。しかし慎重に言葉を選んで、丁寧な筆遣いを見せているところもまた、あるようだ。

「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いて云った。私は「左右ですな」と答えた。然し私の心には何の同情も起こらなかった。①子供を持った事のない其時の私は、子供をただ蒼蝿いものの様に考えていた。
「一人貰って遣ろうか」と先生が云った。
「貰ッ子じゃ、ねえあなた」と奥さんは又私の方を向いた。
「子供は何時迄経ったって出来っこないよ」と先生が云った。
 奥さんは黙っていた。「何故です」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」と云って高く笑った。(同8回末尾)

 ①の「其時の私は」というのは、現在(大正3年)から見て、明治42年頃の私という意味であり、その頃から今に至るまでずっと、私は(たぶん独身なので)子供がいないということである。
「②子供を持った事のない私は
と書くと、現在の(未来も含めて)自分というものの存在をベタに説明してしまう。卒業したとすれば、今はどこで何をしているのか。私は誰か。そういう不粋な展開を避けるために「其時」という言葉をあえて挿入したのである。

 ③私の知る限り先生と奥さんとは、仲の好い夫婦の一対であった。④家庭の一員として暮した事のない私のことだから、深い消息は無論解らなかったけれども、座敷で私と対坐している時、先生は何かの序に、下女を呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。・・・(同9回冒頭)

 似たような書き方で④の場合は、①の「其時の私は」の代りに、「私のことだから」という表現に置き換えている。
「家庭の一員として暮した事のない私は
 と書くと、上記②と同じことになり、
「家庭の一員として暮した事のない其時の私は
 に直したくなる。それでは余りにも芸がないので、「其時の私は」の代りに、「私のことだから」に変えたわけである。

「家庭の一員として暮した事のない私のことだから」(同9回冒頭再掲)

 この粘り強い丁寧さと、『猫』『坊っちゃん』のような歯切れの良さが、漱石のどの作品にも混在して、独特のリズムを生んでいる。細心すぎるまでのこだわり方と、あっけらかんとした大雑把さ。そのどちらにも該博な知識の裏付けがある。後を襲う者がいないのも頷ける。真似しようと思っても誰も真似出来ないのである。

 ③の「仲の好い夫婦」は、『門』にまったく同じ記述があったのを読者は記憶しているだろう。漱石はここでもまた自著を引用したのだろうか。慥かに先生と奥さんは仲が好いように見える。子供もないし、訳ありの過去を持つところも似ている。しかし決定的に異なるのは、宗助御米夫婦を仲が好いと断じたのは漱石自身であるが、先生と奥さんを「仲が好い夫婦」と書いたのは、漱石でなく世間知らずの書生の「私」であったという事実である。
 先生と奥さんは本当に仲が好かったのだろうか。