明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 9

222.『心』私のふるさと――漱石作品で最も探しにくい土地


 『心』の主な舞台は、前項で考察した小石川区にある先生の下宿と先生の家であるが、もう1ヶ所、(鎌倉の海水浴場を除けば)私の郷里の、ある地方都市が挙げられる。
 その市の場所は結局最後まで分からない。詳しく書かれないから分からないのではなく、逆にその市(村かも知れない)のことは折に触れ語られ、第2篇『両親と私』全18回の舞台にさえなっているほどである。
 そうであれば、ふつう固有名詞は出さなくても、読者はだいたいそれがどの地方のことかくらいは分かるのが、漱石作品である。漱石はファンタジィを書く趣味はないから、登場人物が動き回る土地の特定について、ことさらに秘匿する必要はないのである。それが『心』の若い語り手のふるさとに限って、わざとしたようにぼかされているのはどういうわけか。

 そのたぐいの具体的な記述が、『心』ではすべて曖昧にされているというわけではない。むしろその反対である。「鎌倉」「市ヶ谷」「本郷」「神田」から始まって、「新潟」「鳥取」「中国」「九州」、漱石は平気でいつも通り固有名詞を連発している。肝心の私の市の名前だけが、最後まで明かされない。市の名前どころか、それが東京の東にあるのか西にあるのかさえ、分からないようになっている。推測されるのを拒否している、と言ってもよい。
 どこでも構わない。場所を特定する必要がないから書いてないだけだ、と漱石は言うかも知れない。しかし漱石はこんなところでとぼけ切るほど器用な人ではない。漱石は隠し事の出来る人ではない。好みの芸者、近所の鰹節屋のおかみさんの話、子供と歌留多を取っても、じゃんけんをしてさえ、ついその本音は出てしまうのである。
 どこか架空の場所を書いている。繰り返すが漱石はそういう書き方の出来る人ではない。わざと分からないように書いている。――そうかも知れない。いやたぶんそうであろう。それ以外に読みようがない。ではなぜそんなことをしたのか。

 江戸の子漱石は皮肉や洒落は言っても、意味ありげな物の言い方をすることのない人である。意味のないのに意味あり気に物を言うことは、さらにしない人である。
 これは考えようによっては奥さんの家の茶の間の間取り図以上の謎といえるかも知れない。一方どうでもいいような話でもあるので、誰も探求しようとはしないが、ここで結論めいたことだけ言っておくと、漱石は具体的にその地方をイメジした上で書き始めたのであるが、それが自分の行ったことがない土地だったので、途中でそれを放棄してしまった。自分の知らない土地のことを書くには、漱石はあまりにも正直者すぎた、ということであろうか。

 とは言ってもここで切り上げてはつまらぬので、前著(『明暗』に向かって)でこの問題について解明しようとした箇所があるのでそれを紹介する。主人公に名前のない書き方や一人称での書き方の変遷に触れたあとの記述である。(以下、51「名前のない猫」より引用)

 地名にしても似たことがいえる。『明暗』の場合はかなり意図的であるから小論でも別に検討を加えたが、前項で触れた『心』の(学生たる)「私」の出身地にしても、どうでもいいから固有名詞を出さなかったわけではあるまい。その証拠に「私」の郷里についてはさまざまなヒントが書かれている。

 奥さんは東京の人であった。それは嘗て先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。奥さんは「本当いうと合の子なんですよ」と云った。奥さんの父親はたしか鳥取か何処かの出であるのに、御母さんの方はまだ江戸といった時分の市ヶ谷で生れた女なので、奥さんは冗談半分そう云ったのである。所が先生は全く方角違の新潟県であった。だから奥さんがもし先生の書生時代を知っているとすれば、郷里の関係からでない事は明らかであった。しかし薄赤い顔をした奥さんはそれより以上の話をしたくない様だったので、私の方でも深くは聞かずに置いた。(『先生と私』12回)

 私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。是は万一の事がある場合でなければ、容易に父母の顔を見る自由の利かない男であった。妹は他国へ嫁いだ。是も急場の間に合う様に、おいそれと呼び寄せられる女ではなかった。兄妹三人のうちで、一番便利なのは矢張り書生をしている私丈であった。其私が母の云い付け通り学校の課業を放り出して、休み前に帰って来たという事が、父には大きな満足であった。(『先生と私』22回)

 ・・・私はかつて先生から「あなたの宅の構は何んな体裁ですか。私の郷里の方とは大分趣が違っていますかね」と聞かれた事を思い出した。私は自分の生れた此古い家を、先生に見せたくもあった。又先生に見せるのが恥ずかしくもあった。(『両親と私』5回)

 もとより「私」の家が田舎であることは繰り返し書かれている。父の具合が悪くて急に帰省するときに先生に旅費を用立ててもらって夜行列車に乗っていることから、近県でないことは確かである。鳥取、新潟について格別なコメントがない以上、そこは除外される。
 兄のいる九州を(東京でなく実家から見ても)遠いと言っているし、同級生の帰省先を中国とだけ書いていることからも、中国四国辺でもないだろう。
 すると南限は近畿、北限はまあ東北全土か。(でも青森辺だとすると、いくら小説とはいえ兄の本州縦断の移動についてはさすがに何か一言あってしかるべきとは思うが。)
 さらに土産の干椎茸、太織の蒲団、「こりゃ手織ね、こんな地の好い着物は今まで縫った事がないわ」、そして家の建て方の様子についての先生のもの言いからは、何となく新潟に遠からず近からずの感じを抱かせる。(もし家が南国であれば先生のような理屈屋がこんな陳腐な質問の仕方はしないだろう。例えばその人の家が鹿児島だとして「あなたの家(鹿児島)の構えはどんな体裁ですか。私の郷里(新潟)の方とは大分趣が違っていますかね」とは言わないだろう。しかし紀州あたりだとこんな質問をしても不自然ではない。)

 そうすると一応東北全県、北陸3県、長野、岐阜、愛知(名古屋を除く)、三重、和歌山といった候補が挙るが、山形、福島、長野、富山は新潟県の隣接県にあたるので除外したいところである。卒業して夏に父の看病がてら実家で先生を想起し、もしかすると避暑地に行ってしまって留守にしているかもという書きぶりからすると、先生の避暑地が那須塩原あたりであれば、なおさら実家は福島ではないだろう。(避暑地が)鎌倉であれば東北地方でも理屈に合うが、先生と始めて会った記念の地を単に「どこか避暑にでも」と冷淡に扱うのは変であるから、やはり奥さんと色んな土地に出掛けていたという先生の避暑地は、このときは関東の北部であろう。そしてその場所は「私」の郷里とはかけ離れているのである。

 私は停車場の壁へ紙片を宛てがって、其上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。手紙はごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ増しだろうと思って、それを急いで宅へ届けるように車夫に頼んだ。そうして思い切った勢で東京行の汽車に飛び乗ってしまった。私はごうごう鳴る三等列車の中で、又袂から先生の手紙を出して、漸く始めから仕舞迄眼を通した。(『両親と私』18回本篇末尾)

 先にも触れたが、東京駅開業は『心』の連載が終わった4ヶ月後の大正3年12月のことである。漱石は東京駅がないからこそ安心して東京行という言葉を使用したのだろう。漱石は東か西かという情報さえ読者に与えたくなかったのである。であれば可能性は2つ。上野行か新橋行かである。上野であれば東北。たぶん(太田達人、狩野享吉の出身地でもある)岩手か秋田だろう。しかし正月に雪の記述がなかったのが気にかかる。新橋とすると岐阜か愛知、当時米原経由で直通列車のあった福井か石川(金沢)ということになる。(名古屋乗換の三重、大阪乗換の和歌山の可能性は低くなる。名古屋行の汽車を東京行とはなかなか言わないからである。)
「私」の田舎は「私」が大学を卒業すると村人を呼んで宴会をする。見栄っ張りなのである。すると信長の故邑岐阜か愛知(名古屋ではない)、そして金沢か。(加賀乞食という言葉がある。)
 そして往生際が悪いようだが長野もやはり捨て難い。新潟と県境を接していると誰もが知るわけでもないだろうし、名刺交換さえ断られた当時のもう一つの巨峰、藤村に気を置いて学生の郷里(信州)を闇に葬り去った可能性は大いにある。何より長野は漱石(夫妻)の訪れた土地であったというのも、漱石の場合に限り有効なポイントになってしまうのである。

 ついでに「他国へ嫁いだ」妹の嫁ぎ先であるが、私の実家は大したものでないにせよ、一応地元の名家の範疇であろうから、娘を(それも一人娘を)遠方に嫁がせるというのは、都会人の(漱石の)発想である。ふつうの田舎では近くの裕福な家から選ぶ。私の家は全体として不可解な家であるが、先生が遺書を送り付けるからには、それだけのことがないと辻褄が合わないとは言える。まあ奇怪なところがあるということで、実生活者漱石の理解の外にいた泉鏡花に敬意を表して、ここでは私の家を金沢と比定しておく。同じく雪の記述のないのがひっかかるが、金沢は正月に降らない年もあるのである。すると妹婿の関はとりあえず京大阪の商家の跡取り息子か次男坊といったところであろうか。(長野であれば名古屋のそれであろうか。)

 以上、《『明暗』に向かって 51.名前のない猫》より引用畢