明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 1

257.『坊っちゃん』日本で一番有名な小説(1)――ライヴァルは『心』と『破戒』

 

 2020年7月にスタートした本ブログも、早や3年目に入った。対象も『三四郎』『それから』『門』の初期三部作、『彼岸過迄』『行人』『心』の中期三部作を了え、順番としては次は『道草』となるところであるが、その前にちょっと寄り道して、『坊っちゃん』を取り上げてみたい。

 

 おそらく日本語で書かれた小説の中で一番読まれているであろう『坊っちゃん』は、明治39年4月1日(日曜)、『ホトトギス』に一括掲載された。1日というのは(当時の)雑誌発売日の常套であるが、このときの『ホトトギス』は漱石の『坊っちゃん』のために特別価格を予定しており、その漱石が『坊っちゃん』をつい数日前まで書いていたために印刷校正が間に合わず、実際に雑誌が書店に並んだのは、翌日の4月2日(月曜)になってしまったようである。

 漱石は4月1日付の高浜虚子宛書簡で、(自分のせいで)発売日が遅れたのを半分だけ気にして、「三十一日の晩位に四方へ廻して、一日から売りたかった」と述べている。(あとの半分はホトトギスの編集体制がのんびりしすぎていると思っていたのであろう。中央公論などは印刷所に詰め切りになっているとも、うらやまし気に書いている。もちろん作者本人が活版印刷所に出向く気などさらさらない。)しかし4月4日付大谷繞石宛書簡で『坊っちゃん』を褒めてくれた礼を書いていることや、同日付高浜虚子宛書簡で『ホトトギス』定価52銭5500部の売れ行きを気にしていることから、遅れは1日程度で済んだと思われる。

 執筆は明治39年3月15日頃から3月26日頃の12日間前後とみて、大きな齟齬は無いだろう。執筆スピードは爾後新聞小説を書いた頃に比して3倍の速さ(分量)である。松屋製原稿紙(24×24)全149枚。推定1日12枚~13枚のペースで12日間。その根拠は3つ。

 

 明治39年3月17日付滝田樗陰宛書簡「只今ホトトギスの分を①三十余認めた所。何だか②長くなりそうで弱わり候。夫に③腹案も思う様に調わず閉口の体に候

 

 明治39年3月23日付高浜虚子宛書簡「拝啓新作小説④存外長いものになり、事件が段々発展⑤只今百〇九枚の所です。⑥もう山を二つ三つ書けば千秋楽になります。趣味の遺伝で時間がなくて急ぎすぎたから⑦今度はゆるゆるやる積です。もしうまく⑧自然に大尾に至れば名作、然らずんば失敗、⑨ここが肝心の急所ですからしばらく待って頂戴。出来次第電話をかけます。松山だか何だか分らない言葉が多いので閉口、どうぞ⑩一読の上御修正を願いたいものですが御ひまはないでしょうか草々

 

 夏目鏡子書いているのを見ているといかにも楽(たのし)そうで、夜なんぞも一番おそくて十二時一時頃で、大概は学校から帰ってきて、夕食前後十時頃までに苦もなく書いてしまう有様でした。何が幾日かかったか、今そんなことをはっきりは覚えておりませんが、『坊っちゃん』『草枕』などという比較的長いものでも、書き始めてから五日か⑪一週間とは出なかったように思います」(昭和2年『漱石の思い出』24「猫」の話)

 

 3月17日の時点で30枚余。3月23日で109枚書いている。執筆期間を3月15日前後~3月26日前後とする所以である。

 ①の30枚過ぎの箇所は、第3章末尾の「湯の中で泳ぐべからず」~いか銀の骨董責めが続くというあたり。⑤の109枚目はうらなりの送別会の始まるころ。この段階であと2つ3つの山(⑥)というのは、戦捷祝賀(日露)における中学校と師範学校の喧嘩騒動~辞表を出した山嵐と角屋の向かいに潜んでの見張り~赤シャツと野だに対する天誅と生玉子投げといったところか。

 ⑪のように鏡子から見れば『坊っちゃん』は1週間くらいで書き上げたという印象なのだろう。鏡子に書きかけの夫の原稿を見る趣味はなかったから、まずこんなものであろうか。『草枕』も同様、その執筆期間は実際には1週間というよりは2週間の方に近いと思われるが、むしろ20年以上も前のことなのによく覚えていると感心させられる。松岡譲の事前のレクチュァが奏功したのか。このときすでに漱石全集は3次を数え、書簡や自作に関する漱石のコメントも出揃っている。『坊っちゃん』の時期の執筆速度も(異様に早かったということだけは)広く知られていたのである。

 

 ちなみに『心』の先生の遺書は、小説では、『坊っちゃん』と同じ形態の原稿用紙に、『坊っちゃん』とほぼ同じ字数で書かれているが、本ブログ心篇30両親と私/最後の日々――欄外にリンク》で考察したところによると、大正元年9月17日(火曜)から9月27日(金曜)までの11日間で書かれたと想定される。このとき先生38歳。『坊っちゃん』を書いたときの漱石は40歳である。先生は明治39年時の漱石と同等かそれを上回るスピードで書いた、と言えなくもないが、先生の立場からすると(先生は職業も持たず子供もおらず、このときは奥さんさえ家におらず来客もほとんどないのであるから)、自分の自由になる時間は当時の漱石の3倍はあったはずである。したがって先生の運筆速度は、速さだけ見れば、まさしく『心』執筆時の(つまり普段の)漱石とほとんど同じであったとも考えられる。

 

 それはともかく、読者は『坊っちゃん』の筋書き・取り上げるべきエピソードが大体は漱石の頭の中にあって、それでそんなに早く書けたのだと思いがちであるが、②③④からはまったくそうではなくて、書きながら物語の進行を考えるという、いつも通りの漱石のやり方が、『坊っちゃん』でも行なわれていたことが伺われる。②③④を『心』や『明暗』に対する述懐と見て何の違和感もない。(実際似たようなことをしゃべっている。)中年を過ぎてから小説を書き始めた漱石ならではである。ただこの明治39年という年はエネルギーが溜まっていたのであろう。よほど体調が良かったのか。年廻りが良かったのか。

 そして⑦の「今度はゆるゆるやる」というのは、『坊っちゃん』全体の話ではなく、前作『趣味の遺伝』で、時間がないが故に末尾を端折ってしまった、文学作品としてまとめ切れなかったという反省に基づく発言である。してみると現行『坊っちゃん』の、潔く物語を打ち切った上で、後日談ふう・あとがきふうにまとめられた小説末尾の一節は、実は漱石によってよく練り上げられた、いかにも細工を施していない、(語り手坊っちゃんにとって)「自然に見える」ように締め括りがなされたと判断すべきであろう(⑧⑨)。この結末部分の成否こそ作品の命運を分けると、作者は『坊っちゃん』を書き進めながら既に宣言していたのである。このような高揚感は、おそらく後にも先にもない、生涯でただ一度きりのものであったろう。

 この高みに比べると、⑩の松山弁の添削などは枝葉の話に思えてくる。本ブログ心篇4志賀直哉の場合/神経戦ガチンコ勝負――欄外にリンク》で、志賀直哉の『稲村雑談』(昭和23年)から岩元禎の話として、「坊っちゃん』の中の方言を松山の人に云わせると、間違ってはいないが、いかにも面白味のない会話だと云われた」という部分を引用したが、伊予人以外はこの話はなかったことにしていいのではないか。

 

 漱石は『坊っちゃん』の出来栄えにある手応えを感じていたが、同じ時期自費出版された藤村の『破戒』を早くも読んでその真摯な書き振りに深く感動し、このような小説こそが正しい現代小説であると思ったに相違ない。爾来『坊っちゃん』のような筆致を封印した漱石は、8年後同じく自費出版した『心』で、誠実にも漱石としての解答をきちんと出したと言えよう。

 その意味で『心』は、『坊っちゃん』以来漱石の中でわだかまっていたものを、(そんなものがあったと仮定しての話だが、)払拭して突き抜けるような、一つの区切りとなる作品であった。であればこそ次回作『道草』は、当時の文壇の大勢力たる自然主義への漱石なりの鎮魂歌・挑戦状・オマージュになったのであり、頂きを極めた漱石が最後に(『明暗』の頃に)「則天去私」などと唐突に言い出した理由も分かるというもの。あれほど人からレッテルを貼られることを嫌った漱石が(文学博士というレッテルさえ貼らせなかった)、「則天去私」というお札を自分のおでこに貼ってしまったのも、『坊っちゃん』から8年を経て、『心』、『道草』と続けて上梓して、もう怖いものはこの世にはないという、いわば太閤殿下のような気持に(正当にも)なってしまったからではないか。

 今回『心』に続いて『坊っちゃん』を取り上げる目的も、ひとつにはこの愛すべき小品が偉大な『心』への遠い起点になっているということ、言い換えると『三四郎』から『行人』までの諸作をすべて飛び越えて、『心』に直結するような要素が、『坊っちゃん』の中にありはしないかということを確認するためでもある。

 

 もうひとつだけ、『心』の書生の私の帰省地であるが、論者は前著(『明暗』に向かって)でその土地を金沢(か長野)と比定した。

 一晩かけての帰省(一晩しかかからない帰省)。兄の赴任先九州を遠い土地と感じている。鎌倉の別荘に呼んでくれた友人が急な事情で中国辺の実家に引き揚げてしまった。奥さんは市ヶ谷と鳥取の合の子。先生の故郷は新潟。「あなたの宅の構は何んな体裁ですか。私の郷里の方とは大分趣が違っていますかね」「こりゃ手織りね。こんな地の好い着物は今まで縫った事がないわ」土産の干椎茸。実家の太織の蒲団。正月に雪の気配がない。・・・

 この場所を長野と断定し切れなかったわけは、先生が高等学校時代に何度か往復したであろう新潟・東京間の鉄路(信越線)が、長野、高崎を経由している事実にある。先生が始めて東京へ出て来た明治27年頃にはおそらく長野のあたりで1泊したのではないか。碓氷峠のトンネルは全通していたにせよ、長野・東京間の移動だけで1日がかりである。長野が新潟から東京へ出るときの通り道であるからには、先生はその私の郷里について何か一言あってしかるべきではないか。先生は私に新潟の出であることを隠していないのであるから、私の方から話題にしてもいいくらいである。

 しかるに先生は私の帰省先に対して(屋根の形以外に)関心を示さない。感想もなければ忌避もしない。私は帰省するたびに先生に挨拶しているが、小説を読む限りでは先生が私の郷里を(通過しただけにせよ)見知っていた形跡は皆無である。

 

 しかし問題は私の郷里がどこであるかということより、漱石がなぜ私の郷里を秘匿したかという点にあるだろう。『心』では(先生と私の郊外の散歩地も地名が書かれなかったが)、たいていの場所は明示されているのである。

 その理由を、論者は漱石が訪れたことのない土地であったからであろうと推量して、それも考慮に加えて金沢を第1候補とした。長野は漱石は夫妻で訪れている。それも『心』の先生の自裁の背景となった御大葬の直前の8月末である。私の郷里が長野であるのはいいとして、漱石はなぜ長野(信州)という地名を隠したのであろうか。

 論者はそこに『破戒』の痕跡を見る。前著でも述べたが、名刺交換を断られた当時の文壇のもう一方の雄、島崎藤村に気を置いて、漱石は信州という名を『心』に書き込むことが出来なかった。

 その『破戒』とほとんど時を同じくして、漱石の『坊っちゃん』は世に出た。それ以外に両作品に共通するものは何もないが(主人公が躓いた教師であるという偶然はここでは考えなくてよいと思う)、『心』を生む基いとなったという意味で、『坊っちゃん』と『破戒』には不思議な因縁があるということである。

 

漱石「最後の挨拶」心篇 30 - 明石吟平の漱石ブログ

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217.『心』志賀直哉の場合(承前)――神経戦ガチンコ勝負