明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 10

223.『心』もうひとつの謎――短篇はいつ長篇になったのか


 ところで御嬢さんはどこで生れた人であったか。父親が鳥取、母親は市ヶ谷の人で、自分は都会と田舎の「合の子」であるという。

 それはある軍人の家族、というよりも寧ろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清戦争の時か何かに死んだのだと上さんが云いました。一年ばかり前までは、市ヶ谷の士官学校の傍とかに住んでいたのだが、厩などがあって、邸が広過ぎるので、其所を売り払って、此所へ引っ越して来たけれども、無人で淋しくって困るから相当の人があったら世話をして呉れと頼まれていたのだそうです。(『先生と遺書』10回)

 佐官クラスにはなっていたであろう父親は、おそらく任地をいくつか回ったあと、夫人の縁故地に邸を構えたのであろう。市ヶ谷には当然ながら夫人の親戚の家もあった。(引用文の記述から、入婿したのではないと思われる。)
 したがって御嬢さんもまた市ヶ谷で生れた可能性もなくはないが、書生の私への語り口から、とくに市ヶ谷に対する思い入れは感じないから、父親の任地のどこかであろうか。あるいは父親が婚姻時に鳥取の生家から分家独立した際に、東京のどこかに本籍地を移した可能性もまた低くない。
 いずれにせよ御嬢さんは(母親同様)結果として随分近所に嫁入ったわけである。奥さんの家系は(長谷川町子みたいな)女系家族ででもあったろうか。市ヶ谷の親戚も「叔母の所」と書かれる。であれば先生はどのみち長くは生きられなかったのか。と書けば話は漱石から大いに逸脱してしまうであろうが。

 逸脱ついでにさらに脱線すると、漱石長谷川町子の共通点は、国民作家・朝日新聞・胃病持ちであること以外に、とくにないと思われがちだが、両者とも源氏の末裔であるという、れっきとした共通点がある。後から振り返ってみてたまたま目に付いたような共通点とは違って、それこそ父母未生以前からの因縁である。
 漱石は松山に1年いて、倫敦ほどではないが、子規の生れ育った処にもかかわらず、二度とこんな街に住みたくないと思った(はずである)。
 神戸以西の山陽道にせよ、多少縁のあった岡山にせよ、漱石は自分の作品に一切登場させていない。1行たりとも書かなかったと言って過言でない。漱石の実際の体験と作品の中の記述を単純に較べてみても、これは驚くべき「不一致」「不均衡」である。
 しかし熊本はそうでもない。この差は何であろうか。単に暮らした年月の長さによるものとは到底思われない。
 九州、なかでも熊本鹿児島大分のあたりが源氏に関係の深い土地であることは、常識のレベルから言ってもまず間違いないところであろう。それに比べると、岡山や愛媛香川の所謂瀬戸内地方は、どうしても平氏と結びつけて語られることの方が多い。
 もちろん論者はこれを人種の問題と関連付けようとは思わない。岡山や愛媛香川の人間の、どちらかと言えばやや乱暴な物言いは、関西弁というよりは明らかに関東の言葉の方に近い。関東はもちろん源氏の本拠地であるから、源氏と平氏とで(運動会の白組と赤組のように)すべてが割り切れるものでもない。

 これも余計な話だが、もうひとつだけ漱石長谷川町子の共通点を捜すと、言いにくいことだが、墓から遺骨が盗まれる事件があったということが思い出される。(志賀直哉にも似たようなことがあったと言われる。)滅多なことは言えないが、こんな不思議なことは日本でしか起こりえない現象ではないか。

 さて本題に戻って、『心』のもうひとつの残された謎、私が先生と知り合った時期と、短篇『心』がいつ長篇『心』に変身したかという、真っ当な謎についてであるが、この2つは実は同じ問題であったと論者には思われる。
 冒頭でも少し触れた、『心――先生の遺書』の第11回の書き出しは次のようなものである。文章のつながりを考えて、第10回末尾から続けて引用してみる。

 私は其うち先生の留守に行って、奥さんと二人差向いで話をする機会に出合った。先生は其日横浜を出帆する汽船に乗って外国へ行くべき友人を新橋へ送りに行って留守であった。・・・先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにと云い残して行った。それで私は座敷へ上って、先生を待つ間、奥さんと話をした。(『先生と私』10回末尾)

 其時の私は既に大学生であった。始めて先生の宅へ来た頃から見るとずっと成人した気でいた。奥さんとも大分懇意になった後であった。私は奥さんに対して何の窮屈も感じなかった。差向いで色々の話をした。然しそれは特色のない唯の談話だから、今では丸で忘れて仕舞った。・・・(同11回冒頭)

 この文章を読めば、私が始めて先生の家に来たときは、まだ高等学校の頃であったのかと、つい思ってしまう。
 しかし騙されてはいけない。何度も述べたように、漱石の文章は構えが大きいのである。私が初めて先生に会ったとき、そのときの私はすでに大学生だった。第5項の年表によると、24歳から25歳、26歳へ向かう頃である。この1年~2年の月日の経過に対して、「よりいっそう成人した」という評価を自身に与えているのである。漱石自身に引き比べると、子規とだんだん親しくなり、房州旅行の後の嫂登世の死、井上眼科事件、岡山松山関西旅行の頃である。「成長した気分になった」というのは、本人の偽らざる実感であった。

 もし高等学校説に従えば、私に鎌倉の別荘を提供した友人は、
①国元を離れて寄宿舎での高等学校生活。
②高等学校の生徒でありながら、意に染まぬ結婚をさせられそうになる。
 まるで先生の高等学校生活の先取りであり(実際は先生の方が大先輩であるが)、自分の友人が①②を同時に満たすような人物といえば、「私」とKだけである。とすると私が先生に惹かれたのは、見えない糸によってあらかじめ結ばれていたのかも知れないという、漱石の最も忌むストーリーになりかねない。
彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた」(『先生と私』1回)という一文も、大学説の24歳に対し高等学校説では22歳が想定されるに過ぎないから、つまりは五十歩百歩である。
 もう1つ難点を挙げれば、大学入学前からの交際では、私と先生の関係は余りにも濃密で、保証人はおろか、先生のいやがる実家とのおつきあいも避けられないそうにない情勢になってしまう。ただでさえ先生一辺倒のきらいのある私であるが、高等学校時代からそれが続くとすれば、一種の変質狂と見られないか。

 それはともかく、この第11回冒頭の「其時の私は既に大学生であった」という、唐突で場違いな、挿入された意味のよく分からない、開き直ったような一文こそ、短篇の予定で10回分書いてきて、もうこれでは後戻り出来なくなったと気付いた漱石による、方向転換の宣言であった。
 このあと「ずっと成人した気でいた」私に対して、

・「若い時はあんな人じゃなかったんですよ」という奥さんの告白。(11回)
・「君は恋をした事がありますか」「恋をしたくはありませんか」(12回)
・「君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」「とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」(13回)
・「かつては其人の膝の前に跪ずいたという記憶が、今度は其人の頭の上に足を載せさせようとするのです」(14回)

 先生の話は次第にややこしくなって行く。遺書はどんどん遠ざかってゆくのである。