明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」門篇 18

104.『門』カレンダーの謎(2)――小六の家を出た日はいつか


 それから約三十分程したら御米の眼がひとりでに覚めた。(12ノ2回末尾)

 不思議な文章ではある。語り手漱石による叙述にせよ、宗助の視点から見た叙述にせよ、本来なら「御米の目が開いた」というような言い方になるところだろう。しかしこのときの御米は、漱石なり宗助の観察にかかる御米ではない。漱石の筆はこのときにはすでに、御米に降臨している。御米は確かに(「目が開いた」のではなく)「目が覚めた」のである。
 話が分かりにくいと思われるので、もう一度該当箇所を引用してみよう。

 医者が帰ったあとで、宗助は急に空腹になった。茶の間へ出ると、先刻掛けて置いた鉄瓶がちんちん沸っていた。清を呼んで、膳を出せと命ずると、清は困った顔付をして、まだ何の用意も出来ていないと答えた。成程晩食には少し間があった。宗助は楽々と火鉢の傍に胡坐を掻いて、大根の香の物を噛みながら湯漬を四杯ほどつづけ様に掻き込んだ。それから約三十分程したら御米の眼がひとりでに覚めた。(12ノ2回末尾)

 本当に分かりにくい話で恐縮だが、引用文を宗助の「日記(手記)」と仮定すれば、最後の一文(太字で示した)だけ、「御米の日記(手記)」になっている。
 そもそも誰かの眼が「ひとりでに覚めた」かどうかは、傍からは決して分かりようのない事象である。言ってみればそれは御米しか知らない「秘密の暴露」であろう。
 もちろんそれを叙述している作者漱石にとって、小説の作者を(その小説世界での)全能の神と見れば、御米の秘密は秘密でも何でもない。
 しかし『門』を書いている漱石は決してそのような神として小説世界に君臨しているのではない。宗助と一体化して、宗助と行動を共にしているのであるから、基本的には御米の心は宗助が推測する程度にしか推測されないのである。

 漱石がこのような書き方をした理由は、それこそ推測するしかないのであるが、思うに漱石は一種の巧まざるユーモアとして、例の小さん風の「オチ」として、こんな結び方をしたのではないか。同じ回にその(落語的な)前フリが書かれる。

①医者のセリフ「少し薬が利き過ぎましたね」
②同じ医者の、用さえなければ別に起す必要もあるまい、という言い方。

 問題の最後の一文は、この3番目の「オチ」として語られたのではないか。漱石はオチのために、その直前に宗助から御米に乗り移った。

 それはともかく、御米の目覚めは、象徴的な意味での「覚醒」を示唆したかったのではなくて、彼女が丸一日寝ていた(物語の舞台を欠場していた)という、それまでの宗助・小六の「失踪」に、単にバツを合わせただけであろう。
 それは後半のハイライトたる宗助の参禅という「長期欠席」の、露払いとなるべきエピソードであった。漱石がこんな奇妙なバランスの取り方をするのは(辻褄の合わせ方をするのは)、明らかに体調不良の所為としか思えないが、そのこととは別に『門』後篇における漱石は、喜劇と悲劇を交互に描くという進行方法で、一進一退を続ける胃の痛みと闘っているように見える。

・第13章 甲斐の織屋(喜劇)⇒ 御米の流産(悲劇)
・第14章 宗助・御米・安井の蜜月(喜劇)⇒ 宗助・御米の大風事件(悲劇)
・第15章 大晦日の風景(喜劇)
・第16章 正月の風景(喜劇)坂井との交際(喜劇)⇒ 冒険者(悲劇)
・第17章 安井の幻影(悲劇)宗助の苦悩(悲劇)⇒ 宗助の嘘(喜劇)娘義太夫(喜劇)牛肉店(喜劇)
・第18章~第21章 参禅
・第22章 帰宅(喜劇)坂井の洞窟(喜劇)⇒ 弁慶橋の蛙(悲劇)
・第23章 大団円

 最終章(漱石作品唯一の大団円)では珍しく好いこと尽くめで、それはそれで目出度いのであるが、この喜劇と悲劇の遷移は、小説の結びの一句にも使われた。
 ようやくのこと春になって本当によかった、と言う御米に対して、宗助は、しかしまたじきに冬が来ると答える。当然乍ら御米は時候のことだけを言っているのではない。にもかかわらず宗助は、御米の言葉を額面通りにしか受け取らない。そしてここで始めて、小説の最後の最後になって、細君の意見に異を唱える。漱石もつい手綱を緩めたのだろうか。

 異例の大団円は時間の経過も特別であった。この最終回だけで月が2回も変わっている。カレンダーの1月は、2月から3月の声を聞くまで遷り行き、ウグイスの鳴き声もまた春らしくなってくる。
 10月31日の小説のスタートから、11月、12月、1月、2月。実質約4ヶ月間という物語の期間は『三四郎』『それから』を忠実になぞっており、新聞連載期間とも一致する。
 話は飛ぶが漱石の執筆の呼吸を感じるという観点からも、論者はこの3部作について、とくに連載回の表記を復活させるべきであると、重ねて主張したい。

 ところでカレンダーの謎については、後篇ではやはり先に述べたように、小六の書生に出た時期がどうしても腑に落ちない。宗助は御米を気遣って生活していると、『門』ではさんざん書かれる。では御米と小六の気詰まりな10日間は、宗助にとってさらなるストレスの素にならないか。なぜ宗助は小六を坂井へ出したあとに鎌倉へ行かなかったのか。宗助は鎌倉で独り何を悩んでいたのか。

 漱石の解答は明白である。坂井の書生になった小六は、いつの日か必ず安井に会うだろう。無心の小六は宗助を呼びに来るだろうか。あるいはすべてが明るみに出ることによって、却って静謐が保たれるであろうか。いずれにせよ安井の影に怯える宗助に、安息の日の訪れることはない。漱石はその手前で筆を置いたのである。
 それは漱石の決めることであるが、『門』は整合性を犠牲にしても一時的な平安を択ったということだろう。それとも宗助は暖かくなったら引っ越すつもりでいたのだろうか。