明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」門篇 19

105.『門』人物一覧(1)――『門』目次第1章~第6章


 さて最後は例によって目次の作成である。『門』全104回は23の章に分かたれている。前2作に比べ章分けがやや細かくなっているのはどういう理由によるものか。
 それもあって今回はまず最初に、登場人物のみ掲げてみる。『門』では叙述の主体は基本的には宗助であるが、御米、小六と遷ることもあり、そもそも宗助がまったく登場しない章もある。それが物語の進行にどんな影響を与えているのか、漱石は何のために主格を変更しているのか、もちろんそれが自然であると漱石は主張するに決まっているが、そのまま受け取っていては何事も解明されない。
 それで主格になりうる宗助・御米・小六については、連載回ごとに登場の有無を必ず明記することとし、主格の人物は太字で示すことにする。複数になるかも知れないし、該当がないかも知れない。またカレンダーを付記しておく。先の論考を引いて、回想の京大入学は明治35年、手文庫事件は仮に11月26日としておく。

第1章 宗助手紙を書く
    明治42年10月31日(日)
1回 宗助御米・――
2回 宗助・御米・――
3回 ――・御米小六

 第1章は『門』(の叙述法)を象徴する章である。叙述は夫婦から宗助、御米に移り、そして最後は御米に小六が加わる。
 平和な日常を写すだけの、平穏な記述のはずであるが、漱石は早くも主役の3人を、それぞれに寄り添いつつ描き分けるという、手の込んだ登場をさせている。

 漱石は『三四郎』『それから』と書いてきて、体調のこともあり、明らかに新聞連載の1回分を想定して、その枠組みの下に『門』を書き進めている。この回は宗助のいない回である、とも漱石は分かって書いているのだろう。
 本になった(初版本の)『門』を、おそらく漱石は詳しくは読んでいまいが、ざっと目を通しても、章分けだけでは不足であると感じたのであろう。
 そのため『彼岸過迄』からの3部作では、「短編形式」にして主格の混在の問題を回避し(少なくとも漱石本人のつもりでは)、同時に新聞の掲載回をはっきり活かすことにした。
 そして『道草』『明暗』では掲載回の表示のみという最後のルールに(やっと)到達した。『明暗』での主役の交代はまた別の問題であるが、漱石としては『門』を(章分けせずに)のべつに書いたという意識で、『明暗』を書いたのだろう。『門』で宗助と御米を描いた、その同じ描き方で、津田とお延を描いたつもりだったのだろう。

第2章 宗助散歩をする
    明治42年10月31日(日)
1回 宗助・――・――
2回 宗助・――・――・風船ダルマの男
3回 宗助・御米・小六・清

 第2章で改めてこの小説が宗助の物語であることが分かる。漱石は宗助の主観に基づいて叙述の筆を進めている。

第3章 ごちそう
    明治42年10月31日(日)
1回 宗助御米小六
2回 宗助御米小六
3回 宗助御米小六・清

 ところが第3章では漱石の筆はふたたび御米や小六に降りて来る。3人はほぼ公平に描き分けられる。厳密に言うと中心はやはり宗助であるが、外観は区別しづらい。

第4章 宗助の過去
    明治42年11月2日(火)~11月4日(木)
1回 宗助・御米・――
   明治42年11月2日(火)
2回 宗助・御米・小六
   明治42年11月4日(木)
3回 宗助・――・小六・父・佐伯
   回想(明治35年~37年)
4回 宗助・御米・――・佐伯
   回想(明治38年~39年)
5回 宗助・御米・――・杉原
   回想(明治39年~40年)
6回 宗助・御米・小六・佐伯・叔母
   回想(明治40年)
7回 宗助・御米・――・佐伯・叔母
   回想(明治40年~42年)
8回 宗助・――・小六・叔母
   明治42年8月・9月
9回 宗助・御米・――・叔母
   明治42年9月
10回 宗助・――・――・叔母・安之助
    明治42年9月
11回 宗助・御米・――・叔母
    明治42年9月
12回 宗助・御米・小六
    明治42年9月
13回 宗助・御米・小六・安之助
    明治42年9月
14回 宗助御米・小六
    明治42年10月~11月2日

 第4章は(第14章と並んで)昔話が挿入されるので最長となったが、前半が前フリから宗助の過去。後半が物語の発端たる小六の学資打切り事件の前後の経緯である。物語のカレンダーは末尾で章の先頭に戻って来る。この長い章を分割しなかった所以である。ではなぜ、秋のとある日曜日の平凡な風景に過ぎない、冒頭の3章が統合されていないのか。漱石が書きながら(その先の展開を)考えるタイプなのは疑いないが、読者として合理的な解釈はしづらい。漱石は悩みながら書き始めたのか。ただ体調がすぐれなかったのか。
 まあふつうに考えれば、舞台の場景が変わったので章分けをしたのだろうと想像されるが、この原則は小説では記憶されることはなかった。

第5章 歯医者
    明治42年11月6日(土)
1回 ――・御米・――・叔母
2回 宗助・御米・――・歯医者
3回 宗助・――・――・歯医者
4回 宗助・御米・――

 第5章は土曜日の出来事である。末尾で御米は「勉強?もう御休みなさらなくって」と誘う。宗助は「うん、もう寝よう」と素直に肯う。『門』では宗助は御米の言うことには逆らわないが、漱石作品では稀有の例であるとは先に述べたところ。

第6章 屏風事件
    明治42年11月後半の1週間
1回 宗助・御米・――
2回 宗助・御米・――
3回 宗助御米・――
4回 ――・御米・――・道具屋
5回 宗助・御米・――・道具屋

 第6章の頭で何も知らない宗助は「御米、御前子供が出来たんじゃないか」とはしゃぐ。これは前章末尾の夫婦の会話を直接受けたものではないにせよ、御米の涙につながる哀しい誤解であった。そのためかどうか分からないが、この章の(1週間以上に亘る)カレンダーの書きぶりには少しヘンなところがある。

①「翌日宗助が眼を覚ますと」外は雨である。宗助は穴の開いた靴で出勤する。
②「午過に帰って来て見ると」御米が6畳の雨漏りの手当をしている。
③「明る日も亦同じ様に雨が降った。夫婦も亦同じ様に同じ事を繰り返した。その明る日もまだ晴れなかった。三日目の朝になって……
④「幸に其日は十一時頃からからりと晴れて、垣に雀の鳴く小春日和になった。宗助が帰った時、御米は例(いつも)より冴えざえしい顔色をして」抱一の屏風を売る提案をする。(以上6ノ3回)

 ②で読者はその日が土曜であると当然思う。しかし③の記述を信じると、日曜日はどこかへ行ってしまっているようである。失踪癖は宗助や小六だけでなかった。この「失われた休日」は後篇でも(まるで強迫観念のように)登場する。