明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 20

316.『草枕』目次(7)第4章(つづき)――画工の疑似恋愛


第4章 スケッチブックの中の詩人 (全4回)(承前)

3回 青磁の羊羹
(P49-2/余は又ごろりと寝ころんだ。忽ち心に浮んだのは、 Sadder than is the moon's lost light,    Lost ere the kindling of dawn, To travellers journeying on, The shutting of thy fair face from my sight. と云う句であった。もし余があの銀杏返しに懸想して、身を砕いても逢わんと思う矢先に、今の様な一瞥の別れを、魂消る迄に、嬉しとも、口惜しとも感じたら、余は必ずこんな意味をこんな詩に作るだろう。)
メレディスの詩~那美さん羊羹を持って部屋に来る~源兵衛と婆さんは那美さんの情報源

 Sadder than is the moon's lost light,
  Lost ere the kindling of dawn,
  To travellers journeying on,
 The shutting of thy fair face from my sight.
 ・・・
 Might I look on thee in death,
 With bliss I would yield my breath.

(非人情訳)

"夜明け前に月が落ち
 途方に暮れた旅人と
 そのわたくしの悲しい眼に
 あなたの面影さえ断ち切れる
 ・・・
 黄泉の世界であなたを見た
 今歓んでこの息を絶つ"

(オルタネイトの意訳)

"夜の白む前に月の明かりが消えてしまった
 おそろしさに心を亡くした旅人の
 その畏れよりもさらに大きな悲しみが
 あなたの清やかな面(おもて)に別れた私を襲う
 ・・・
 死んであなたに逢えるというのなら
 歓んでこの息を絶って見せようものを"

 漱石和文に直す必要を認めなかった。冒頭(第1章)のシェリーの詩にまずい(と漱石は思ったに違いない)訳を附けたので、もうこれ以上恥をかきたくないと思ったのか。漱石は読者がこのメレディスのたぶん気取った英文を理解するかしないかに関心がなかった。それより下手に上田敏調の訳詞にしなかったところが漱石らしい。(上田敏が百年の生命を保つなら、漱石は千年をめざしているのである。)
 詩中の男女を画工と那美さんに喩えたのは、画工の余裕か強がりか、それとも願望か。漱石は画工の心が剝き出しになるのを避けるために、あえて訳さなかったのかも知れない。でももう110年以上経って、誰に気を遣うこともないのであるから、論者もここで恥を忍んで、それこそ不味い「非人情」の訳を晒してみた。無駄と言えば無駄であるが、少しでも画工の心に近づきたいがためであり、それが画工の参考にならないとすれば、『一夜』の髭のある男に接近するためである。

 そして前回(4回)突飛な見せ方をした那美さんの5回目の登場は、それを償うかのように至って平穏な場景となった。那美さんは始めて普通の女のように話す。なぜ急変したのか。
 それは簡単である。画工がメレディスの詩の解釈のためとはいえ、那美さんと恋仲になったなら、と仮想したからである。(想像上ではあるが)画工と那美さんはただの温泉宿と客の間柄ではなくなった。それがなぜ那美さんに伝わったのかという野暮を言ってはいけない漱石も魂魄の感応という習作を無駄に書いていたわけでもあるまい。ただ那美さんも人が変わったわけではない。前述したように、

「また寝て入らっしゃるか、昨夕は御迷惑で御座んしたろう。何返も御邪魔をして、ほほほほ」

 と先制攻撃することだけは忘れない。常に(漱石に似て)人の意外に出るのである。

4回 スケッチブックの中に入ってみる
(P52-10/茶と聞いて少し辟易した。世間に茶人程勿体振った風流人はない。広い詩界をわざとらしく窮屈に縄張りをして、極めて自尊的に、極めてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに鞠躬如として、あぶくを飲んで結構がるものは所謂茶人である。)
茶道は商人のやること~始めての会話は身上調書~長良の乙女の話の出所は那美さん~ささだ男もささべ男も両方男妾にするばかり

「・・・時にあなたの言葉は田舎じゃない
「人間は田舎なんですか」
人間は田舎の方がいいのです
「それじゃ幅が利きます」
「然し東京に居た事がありましょう
「ええ、居ました、京都にも居ました。渡りものですから、方々に居ました」
「ここと都と、どっちがいいですか」
「同じ事ですわ」

 画工と那美さん、親しく会話するのはいいことであるが、この「東京に居た事がありましょう」という1句は不思議である。京都にいたことがあるのは茶店の婆さんによって読者も知らされているが(第2章)、那美さんが東京にいたとは初耳である。おそらく言葉のイントネーションでそう感じたと言いたいのであろうが、少し無理があるようだ。それとも婆さんは小説に書かれたこと以外にも那美さんの秘密をしゃべったのか。
 これもやはり『一夜』を前提としたセリフと解した方が分かりやすい。『一夜』の登場人物は『猫』でのやりとりを見なくても、ふつうに考えて全員東京か東京に近いところに住む人たちであろう。

 それより「渡りもの」については、『坊っちゃん』でも丁々されていた。

 ある日の事赤シャツが一寸君に話があるから、僕のうち迄来てくれと云うから、惜しいと思ったが温泉行きを欠勤して四時頃出掛けて行った。赤シャツは一人ものだが、教頭丈に下宿はとくの昔に引き払って立派な玄関を構えて居る。家賃は九円五拾銭だそうだ。田舎へ来て九円五拾銭払えばこんな家へ這入れるなら、おれも一つ奮発して、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやろうと思った位な玄関だ。頼むと云ったら、赤シャツの弟が取次に出て来た。此弟は学校で、おれに代数と算術を教わる至って出来のわるい子だ。其癖渡りものだから、生れ付いての田舎者よりも人が悪るい。(『坊っちゃん』第8章)

 この書き方だと赤シャツはそうでもないが、赤シャツの弟だけが渡りものでたちが悪いと取れる。論者は本ブログ坊っちゃん篇で赤シャツは半分以上漱石であると断じたが、漱石はこんなところでも、目立たないように赤シャツをかばっているようである。

 画工と那美さんのガチンコ対決第1ラウンド。これが延々と続くのが『明暗』であり、新体詩ふうに煙に巻くと『一夜』になる。男女の会話はそれなりに面白い。しかし漱石はその方面の専門家でもない。自然主義の作家を1本参らせるわけにもいかないし、またそのつもりもない。
「人の世が嫌なら画の中の世界へ入れ」「2次元の世界は窮屈で人が住めそうにない」
 会話はまるで『一夜』の続きであるが、『草枕』はそれだけで終わらないのが人気の所以である。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 19

315.『草枕』目次(6)第4章――那美さんのラヴレター


第4章 スケッチブックの中の詩人 (全4回)

1回 添削もしくは付け文
(P41-9/ぽかんと部屋へ帰ると、成程奇麗に掃除がしてある。一寸気がかりだから、念の為め戸棚をあけて見る。下には小さな用箪笥が見える。上から友禅の扱帯が半分垂れかかって、居るのは、誰か衣類でも取り出して急いで、出て行ったものと解釈が出来る。)
写生帖に落書~発句に付け句か添削か~縁側のある部屋~やっと落ち着いて宿からの景色を見る

 前項の晩い朝の入浴は僅か5分間であったと書かれる。洗い場からの戸口で那美さんのお出迎えさえある。それでいて部屋は掃除がしてあり、句帖には俳句の添削までしてあった。思うに那美さんは下女と一緒に画工の泊った部屋へ行き、掃除だけは(いつものように)下女がしたのであろう。

 海棠の露をふるふや物狂い ⇒ 海棠の露をふるふや朝烏
 正一位女に化けて朧月 ⇒ 御曹司女に化けて朧月

 付け句に見せかけて、那美さんは自分は異常でないと訂正している。おまけに正一位(狐)を御曹司(画工)に結び付けて、しっかりお返しまでしている。これは一種のラヴレターではないかとは先に述べたところ。

 山が尽きて、岡となり、岡が尽きて、幅三丁程の平地となり、其平地が尽きて、海の底へもぐり込んで、十七里向うへ行って又隆然と起き上がって、周囲六里の摩耶島となる。是が那古井の地勢である。温泉場は岡の麓を出来る丈崖へさしかけて、岨の景色を半分庭へ囲い込んだ一構であるから、前面は二階でも、後ろは平屋になる。椽から足をぶらさげれば、すぐと踵は苔に着く。道理こそ昨夕は楷子段を無暗に上ったり、下ったり、異な仕掛の家と思った筈だ。

 入口の襖をあけて椽へ出ると、欄干が四角に曲って、方角から云えば海の見ゆべき筈の所に、中庭を隔てて、表二階の一間がある。わが住む部屋も、欄干に倚ればやはり同じ高さの二階なのには興が催おされる。湯壺は地の下にあるのだから、入湯と云う点から云えば、余は三層楼上に起臥する訳になる

 読者は『一夜』の丸顔の(髭のない)男が、温泉宿の部屋で「椽より両足をぶら下げて居る」のを思い出す。男の詩に女が付け句するのも『一夜』の独壇場である。
 そして温泉宿の造りと地下をさらに下がる風呂場の位置は、前述したが『明暗』にそのまま受け継がれる。湯河原の温泉宿もそういう造りであったことは想像に難くないが、よほど漱石に訴えるものがあったのだろう。漱石は(3階建てとかの)建築物(構造体)に関心があるのである。

2回 晩い朝食もしくは聴き取り調査
(P44-12/やがて、廊下に足音がして、段々下から誰か上ってくる。近づくのを聞いていると、二人らしい。それが部屋の前でとまったなと思ったら、一人は何にも云わず、元の方へ引き返す。襖があいたから、今朝の人と思ったら、矢張り昨夜の小女郎である。何だか物足らぬ。)
那美さんが引き返した理由~「うちに若い女の人がいるだろう」「へえ」「ありゃ何だい」「若い奥様で御座んす」~「和尚様の所へ行きます」「大徹様の所へ行きます」~向う二階の欄干に頬杖を突いて佇む

 やがて、廊下に足音がして、段々下から誰か上ってくる。近づくのを聞いていると、二人らしい。それが部屋の前でとまったなと思ったら、一人は何にも云わず、元の方へ引き返す。襖があいたから、今朝の人と思ったら、矢張り昨夜の小女郎である。何だか物足らぬ

 那美さんが引き返した理由は難解である。昨夜は女中が1人で応待した。那美さんは夜中にこっそり侵入するが、それは誰も知らない。朝になって画工がゆっくり起きて風呂へ行く。那美さんと女中が一緒に画工の部屋を訪れたのが前回のこと。女中は床を上げて、那美さんはいたずら書きをした。今回那美さんだけなぜ引き返したのか。配膳が大変なので部屋の入口まで手伝ったのでないことは、昨夜のケースからも明らかである。
 改めて挨拶しようと女中と連れ立ってやって来たが、女中の前で画工と口を利きたくないと急に思い直して引き返した。那美さんは画工とのおしゃべりを女中ごときに聞かせたくなかった。それでいて他意はないという素振りで部屋まで一緒に行き、その行きしなに昨夜の画工の様子を事情聴取したのかも知れない。女中は客とはほとんど口を利かなかったが、自分の見たことだけは女主人に話した。それで那美さんは画工が若い女に決して冷淡でないことを察知して、急に画工の気を惹きたくなって、これ見よがしに足音だけは響かせて踵を返したのか。

 論者の解は、那美さんはやはり先刻の写生帖への落書が気になって、部屋の前まで様子を伺いに来たというもの。画工が癇性で癇癪持ちであることは想像に難くない。大切な写生帖を汚されたと怒りまくっていないか、それとなく探りを入れたかった。
 作者がそこまで斟酌するのであれば、画工が入浴している5分足らずの間に、那美さんが付け句をして、かつ着物(どてら)を持って画工を待ち構えることが、時間的に窮屈過ぎることにも、想いを致すべきではなかったか。

 さて理由はともかく那美さんは去ったが、これは平和の兆しか、それとも風雲急を告げる何らかの前触れであろうか。
 部屋では今度は画工による聴取調査である。女中の口は軽いのか堅いのか、限りなく曖昧である。漱石ファンには気にならなくても、一部の評家にはそういうところが不満なのであろう。

「御寺詣りをするのかい」
「いいえ、和尚様の所へ行きます
「和尚さんが三味線でも習うのかい」
「いいえ」
「じゃ何をしに行くのだい」
大徹様の所へ行きます

 これも解釈は難しい。女中は答弁を拒否しているようでさえある。「大徹和尚」という名を明かせば、部屋に掛かっている額の字からも、三味の類いの出る幕はないと言いたげであるが、この女中に果してそんなテクニックが駆使できるだろうか。結句女中は後で連発するように、「知りません」つまり立場上言うことは出来ないと言うだけである。口にすることが憚られることがある。読者は興味を惹かれずにはいられない。これは漱石らしい話の運び方であろうか。それとも漱石らしくないあざとさであろうか。

「知りません」
 会話は是で切れる。飯は漸く了る。膳を引くとき、小女郎が入口の襖を開たら、中庭の栽込みを隔てて、向う二階の欄干に銀杏返しが頬杖を突いて、開化した楊柳観音の様に下を見詰めて居た。今朝に引き替えて、甚だ静かな姿である。俯向いて、瞳の働きが、こちらへ通わないから、相好に斯程な変化を来たしたものであろうか。昔の人は人に存するもの眸子より良きはなしと云ったそうだが、成程人焉んぞ廋(かく)さんや、人間のうちで眼程活きて居る道具はない。寂然と倚る亜字欄の下から、蝶々が二羽寄りつ離れつ舞い上がる。途端にわが部屋の襖はあいたのである。襖の音に、女は卒然と蝶から眼を余の方に転じた。視線は毒矢の如く空を貫いて、会釈もなく余が眉間に落ちる。はっと思う間に、小女郎が、又はたと襖を立て切った。あとは至極呑気な春となる

 初登場の3回のシーンを経て、4回目は部屋の前で引き返したので空振り。仕切り直しの4回目は篇中最も迫力のある、攻撃的な顔見せとなった。しかも「小女郎」との共同作業である。第4章のこの回だけ、女中は小女でも下女でもなく、「小女郎」と呼ばれる。この回の冒頭で那美さんだけ引き返したという設定が、残った小女郎の働きとともに、こんなところまで来て恐ろしい効果を発揮している。並の男ではとうてい太刀打ち出来ない。その那美さんの瞳は間違いなく画工の眼を貫いたのである。
 それにしても「開化した楊柳観音」とはよく言ったものである。明治になって高座でこんなことを言う人がいたのかも知れないが、小さん的ユーモアの一典型であろう。

 草枕』目次。引用は岩波書店『定本漱石全集第3巻』(2017年3月初版)を新仮名遣いに改めたもの。回数分けは論者の恣意だが、その箇所の頁行番号ならびに本文を、ガイドとして少しく附す。(各回共通)

漱石「最後の挨拶」草枕篇 18

314.『草枕』目次(5)第3章(つづき)――女王は3回初登場する(実践篇)


第3章 夜おそく那古井の宿へ到着(全4回)(承前)

2回 歌う女
(P30-13/そこで眼が醒めた。腋の下から汗が出ている。妙に雅俗混淆な夢を見たものだと思った。昔し宋の大慧禅師と云う人は、悟道の後、何事も意の如くに出来ん事はないが、只夢の中では俗念が出て困ると、長い間これを苦にされたそうだが、成程尤もだ。)
誰か小声で歌をうたっている~長良の乙女の歌か~海堂を背に月影に浮かぶすらりとした女~深更那美さん初登場~芸術家と常人の違い

 そしていよいよ女王那美さんの登場。那美さんの「初登場」には、女王らしくご丁寧にも伏線というか露払いが3つ用意されてある。

A 那古井の嬢様についての噂話と、連想される長良の乙女の伝説を茶店の婆から聞く。(第2章)
B 給仕の女中に、「近頃は客がないので、ほかの座敷は掃除がしてないから、普段使っている部屋(那美さんの部屋だった)で我慢してくれ」と言われた。(第3章――論者の謂う第1回)
C 宿に人の気配がない。変な気持ちになる。こんなことがかつて1度あった。寝付くとすぐ長良の乙女の夢を見た。(同上)

 Aの那美さんの噂話はさらに3つの入れ子になっている。(いずれも第2章)
A-a 那古井の嬢様は花嫁姿で馬に乗って峠を越えた。
A-b 那古井の嬢様の現在の健康状態は困ったものである。
A-c 那古井の嬢様の花嫁姿は頼めば今でも着て見せてくれるだろう。

 ここまで勿体を付けられた登場人物は他にいない。まさに破格の取扱いであるが、これは『草枕』に『一夜』が覆い被さっているがゆえの破格であるというのが論者の意見である。
 那美さんはこの回では歌声と影法師だけの紹介である。しかし画工は早くも影法師の主がこの宿の嬢様かと疑う。小説はいきなり核心を衝くのである。短篇ゆえの直截か。それとも『草枕』はその短兵急ゆえに漱石の長く愛する作品とはならなかったのか。

 怖いものも只怖いもの其儘の姿と見れば詩になる。凄い事も、己れを離れて、只単独に凄いのだと思えば画になる。失恋が芸術の題目となるのも全くその通りである。失恋の苦しみを忘れて、其やさしい所やら、同情の宿る所やら、憂のこもる所やら、一歩進めて云えば失恋の苦しみ其物の溢るる所やらを、単に客観的に眼前に思い浮べるから文学美術の材料になる。世には有りもせぬ失恋を製造して、自から強いて煩悶して、愉快を貪ぼるものがある。常人は之を評して愚だと云う、気違だと云う。然し自から不幸の輪廓を描いて好んで其中に起臥するのは、自から烏有の山水を刻画して壺中の天地に歓喜すると、その芸術的の立脚地を得たる点に於て全く等しいと云わねばならぬ。この点に於て世上幾多の芸術家は(日常の人としてはいざ知らず)芸術家として常人よりも愚である、気違である。われわれは草鞋旅行をする間、朝から晩迄苦しい、苦しいと不平を鳴らしつづけて居るが、人に向って曾遊を説く時分には、不平らしい様子は少しも見せぬ。面白かった事、愉快であった事は無論、昔の不平をさえ得意に喋々して、したり顔である。これは敢て自ら欺くの、人を偽わるのと云う了見ではない。旅行をする間は常人の心持ちで、曾遊を語るときは既に詩人の態度にあるから、こんな矛盾が起る。して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう

 これは幻の最終作品に通じる記述でもあり、『一夜』から『草枕』への架け橋にもなる話である。単に画工の芸術論と見てしまえば、興味は半減する。

3回 侵入者
(P34-9/余が今見た影法師も、只それ限りの現象とすれば、誰れが見ても、誰に聞かしても饒に詩趣を帯びて居る。――孤村の温泉、――春宵の花影、――月前の低誦、――朧夜の姿――どれも是も芸術家の好題目である。此好題目が眼前にありながら、余は入らざる詮義立てをして、余計な探ぐりを投げ込んで居る。)
余計な詮議は非人情の妨げ~詩人になる簡便法とは~入口の唐紙から女の影が~深夜の侵入者

 海棠の露をふるふや物狂い
 正一位女に化けて朧月

 画工もまた地元の人に負けず那古井の嬢様をまともに扱っていないような句を詠む。歌声と影法師だけでここまで感化されるものだろうか。よほど露払いが効いたのか。加えて那美さん2度目の登場シーンがそれを後押しする。おそらく部屋に入って来た女を画工が襲っても、女は声さえ立てまい。しかしそれでは島崎藤村のような自然主義の小説になってしまう。(藤村の名を出すことが不適当であれば川上宗薫でもよい。)しかし周知のように次回(第4回)の3度目の登場シーンを見ても、女は恥ずかしがることなく素裸の画工に正対し、それから後ろへ廻り込んで着る物を着せかけるのである。

4回 不意討ち
(P38-8/浴衣の儘、風呂場へ下りて、五分ばかり偶然と湯壺のなかで顔を浮かして居た。洗う気にも、出る気にもならない。第一昨夕はどうしてあんな心持ちになったのだろう。昼と夜を界にこう天地が、でんぐり返るのは妙だ。)
ゆっくりめの朝風呂~風呂場の戸口での遭遇~那美さんの初セリフ~見たことのない表情~画にしたら美しかろう~不仕合せな女に違いない

 それだから軽侮の裏に、何となく人に縋りたい景色が見える。人を馬鹿にした様子の底に慎み深い分別がほのめいている。才に任せ、気を負えば百人の男子を物の数とも思わぬ勢の下から温和しい情けが吾知らず湧いて出る。どうしても表情に一致がない。悟りと迷が一軒の家に喧嘩をしながらも同居している体だ。此女の顔に統一の感じのないのは、心に統一のない証拠で、心に統一がないのは、此女の世界に統一がなかったのだろう。不幸に圧しつけられながら、其不幸に打ち勝とうとして居る顔だ。不仕合な女に違ない。

 精神的に不安定な女を不仕合せに違いないと断言する。これが漱石の健全な倫理性である。ここで(興味本位に)女の精神世界に迷い込むようでは、その作品に百年の命は宿るまい。漱石は基本的に女の悩みや精神構造に関心はないのである。あくまでも自分に即して、自分の人生・運命、あるいは美意識に直接働きかけて来る、女(女体)そのものに関心があったのである。これが作中女性の神の如き造形・描写につながり、また身勝手・冷酷と評される遠因ともなる。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 17

313.『草枕』目次(4)第3章――那古井は2度目というけれど


第3章 夜おそく那古井の宿へ到着(全4回)

1回 春の夜の夢
(P27-10/昨夕は妙な気持ちがした。宿へ着いたのは夜の八時頃であったから、家の具合庭の作り方は無論、東西の区別さえわからなかった。何だか廻廊の様な所をしきりに引き廻されて、仕舞に六畳程の小さな座敷へ入れられた。昔し来た時とは丸で見当が違う。)
夜8時の到着~晩い夕食と入浴~女中1人の怪~房州旅行の思い出~長良の乙女とオフェリアの夢

 昨夕は妙な気持ちがした。
 宿へ着いたのは夜の八時頃であったから、家の具合庭の作り方は無論、東西の区別さえわからなかった。何だか①廻廊の様な所をしきりに引き廻されて、仕舞に六畳程の小さな座敷へ入れられた。②昔し来た時とは丸で見当が違う。晩餐を済まして、湯に入って、室へ帰って茶を飲んで居ると、小女が来て床を延べよかと云う。
 不思議に思ったのは、③宿へ着いた時の案内も、晩食の給仕も、湯壺への案内も、床を敷く面倒も悉く此小女一人で弁じて居る。それで口は滅多にきかぬ。と云うて、田舎染みても居らぬ。赤い帯を色気なく結んで、古風な紙燭をつけて、④廊下の様な、梯子段の様な所をぐるぐる廻わらされた時、同じ帯の同じ紙燭で、⑤同じ廊下とも階段ともつかぬ所を、何度も降りて、湯壺へ連れて行かれた時は、既に自分ながら、カンヴァスの中を往来して居る様な気がした。

 温泉宿の込み入った造作の模様①④⑤は、10年後に『明暗』で再現された。温泉宿なんてどこもあんなもの、と言う勿れ。『草枕』と『明暗』だけが漱石によってそう書かれている。主人公が何の根拠もなくその温泉地を訪れるのが2度目であるとされるのも、なぜか共通している。ところが互いに再訪して宿の造りも似ているにもかかわらず、今回の旅枕の宿の女中の様子が大きく異なっていた。(前著で述べたように)津田の泊った湯河原の女中がABCDの4名を数えたのに比べ、今回の那古井の宿は1人の女中で切り盛りしていたという(③)。
 漱石は自家に派遣されて来た女中の存在は歯牙にもかけなかったが(厳密に言うと知らん顔していたのではなくて、鏡子の手先として攻撃対象と見ていた)、旅先の直接自分の人生と関係しない女中のことは気になるのである。これもまた「外面は好い」ということに属する話であろうか。

 ここで画工が想い出すのが房州旅行である。漱石ファンにはおなじみの房州旅行の初出となる。

生れてから、こんな経験はただ一度しかない。昔し房州を館山から向うへ突き抜けて、上総から銚子迄浜伝いに歩行た事がある。其時ある晩、ある所へ宿た。ある所と云うより外に言い様がない。今では土地の名も宿の名も、丸で忘れて仕舞った。第一宿屋へとまったのかが問題である。棟の高い大きな家に女がたった二人居た。余がとめるかと聞いたとき、年を取った方がはいと云って、若い方が此方へと案内をするから、ついて行くと、荒れ果てた、広い間をいくつも通り越して一番奥の、中二階へ案内をした。三段登って廊下から部屋へ這入ろうとすると、板庇の下に傾きかけて居た一叢の修竹が、そよりと夕風を受けて、余の肩から頭を撫でたので、既にひやりとした。椽板は既に朽ちかかって居る。来年は筍が椽を突き抜いて座敷のなかは竹だらけになろうと云ったら、若い女が何にも云わずににやにやと笑って、出て行った。
 ・ ・ ・
其後旅も色々したが、こんな気持になった事は、今夜この那古井へ宿る迄はかつて無かった

 この引用最後の⑦の独言は、たった1、2頁前の②「昔し来た時とは丸で見当が違う」という述懐がどこかへ飛んで行ってしまったかのようである。弱年時の房州旅行を思い出したのはよしとしよう。まるで鏡花の小説にでも出て来そうな夢のような宿の女たち。たとえそれが⑥のように印象に残るものだったとしても、画工が眼前しているのは、今現在の那古井の宿の景色の筈である。
 くどいようだが例えば今回泊った某ホテルが、びっくりするほど穢なかったとして、たまたま大昔に泊った外国のホテルがえらく穢なかったことを思い出したとする。それはいい。人生2度目の経験である。しかし今回泊った某ホテルには以前来たことがあるのであれば、作者の感想としては、

 感動的なまでにキタナイ外国と日本、2つのホテル。
 以前来たときには穢なくなかったのに、今回は様変わりした日本の某ホテルの不可思議。

 どちらに傾くかは人それぞれであろうが、も均等に思い浮かぶはずである。少なくともだけ述べてを閑却するのはヘンであろう。
 昔の那古井宿はどこへ行ったのだろうか。思うに那古井が2度目であるというのは、漱石の真実であっても、画工の真実ではなかったのではないか。
 もっと分かりやすく言うと、漱石は明らかに女中(女)のみに主眼を置いて論じている。上の(くだらない)譬えでいうと、昔泊った外国のホテルに飛び切りの美人がいた。今回泊った某ホテルにそれと匹敵する超絶美人を発見した。人生2度の経験だ。この場合某ホテルにかつて泊まったことがあるか否かは、たいした問題ではなくなる。漱石は女だけを見ている。

 この一種の(身勝手な)集中力が漱石の魅力であり、また乱暴粗雑なところでもある。
あなた位冷酷な人はありはしない」(『猫』第2篇)と苦沙弥の細君はこぼしたが、昔一度来たことのある那古井の宿にしても、きっと同じ思いであるに違いない。

 それからもう1つ、画工の泊まった部屋の床の間には墨で描かれたらしい若冲の鶴の画がかかっていた。『一夜』の読者は「あの部屋」にも若冲があったことを憶い出す。『一夜』の宿と那古井の2度目の宿にのみ、若冲がかかっていた。那古井に前回来たときはどのような部屋に泊まったのだろう。床には何が掛っていたのだろうか。

 床柱に懸けたる払子の先には焚き残る香の烟りが染み込んで、⑧軸は若冲の蘆雁と見える。雁の数は七十三羽、蘆は固より数え難い。籠ランプの灯を浅く受けて、深さ三尺の床なれば、古き画のそれと見分けの付かぬ所に、あからさまならぬ趣がある。「ここにも画が出来る」と柱に靠れる人が振り向きながら眺める。
 女は洗える儘の黒髪を肩に流して、丸張りの絹団扇を軽く揺がせば、折々は鬢のあたりに、そよと乱るる雲の影、収まれば淡き眉の常よりは猶晴れやかに見える。桜の花を砕いて織り込める頬の色に、春の夜の星を宿せる眼を涼しく見張りて「私も画になりましょか」と云う。はきと分らねど白地に葛の葉を一面に崩して染め抜きたる浴衣の襟をここぞと正せば、暖かき大理石にて刻める如き頸筋が際立ちて男の心を惹く。
「其儘、其儘、其儘が名画じゃ」と一人が云うと
「動くと画が崩れます」と一人が注意する。

「画になるのも矢張り骨が折れます」と女は二人の眼を嬉しがらしょうともせず、膝に乗せた右手をいきなり後ろへ廻わして体をどうと斜めに反らす。丈長き黒髪がきらりと灯を受けて、さらさらと青畳に障る音さえ聞える。(『一夜』終盤近く)

 『一夜』の宿に若冲があったのはいいとして、漱石はなぜこのような書き方をしたのであろうか(⑧)。「73(羽)」は素数であるが、どこから来た数字であるか。漱石はおそらく実際に蘆雁の数を数えたには違いなかろうが、ふつうではまず考えられないことである。
 そして最後に、『一夜』に登場する男は2人であるが、⑨の引用部分では男2人は同じことを言っているから、この場合の男を1人と見做すと、このくだりはまさに『草枕』そのものである。

 草枕』目次。引用は岩波書店『定本漱石全集第3巻』(2017年3月初版)を新仮名遣いに改めたもの。回数分けは論者の恣意だが、その箇所の頁行番号ならびに本文を、ガイドとして少しく附す。(各回共通)

漱石「最後の挨拶」草枕篇 16

312.『草枕』目次(3)第2章――画工33歳那美さん25歳


第2章 峠の茶屋で写生と句詠(全4回)

1回 高砂の媼
(P15-3/「おい」と声を掛けたが返事がない。軒下から奥を覗くと煤けた障子が立て切ってある。向う側は見えない。五六足の草鞋が淋しそうに庇から吊されて、屈托気にふらりふらりと揺れる。下に駄菓子の箱が三つ許り並んで、そばに五厘銭と文久銭が散らばって居る。)
茶店の婆さんは高砂の媼にうり二つ~婆さんが美しいのではなく高砂の媼が美しいのだ~婆さんの横顔を写生する

 雨に濡れて頓挫しそうになった非人情の旅であるが、茶屋の囲炉裏の火で立て直して、早速その実例を披露する。

 二三年前宝生の舞台で高砂を見た事がある。その時これはうつくしい活人画だと思った。箒を担いだ爺さんが橋懸りを五六歩来て、そろりと後向になって、婆さんと向い合う。その向い合うた姿勢が今でも眼につく。余の席からは婆さんの顔が殆ど真むきに見えたから、ああうつくしいと思った時に、其表情はぴしゃりと心のカメラへ焼き付いて仕舞った。茶店の婆さんの顔は此写真に血を通わした程似ている。

 茶店の婆さんが美しいなら、それは「人情」である。しかし婆さんは直接愛でられるのではなく、『高砂』の婆さんに瓜二つであるという。高砂の媼は自分の心に残る美しい記憶である。それが甦った。これが脱世間であり非人情であるという。似ているか似ていないかは喜怒哀楽に関係ない、単なる事実である(と漱石は言う)。記憶が呼び覚まされたというのも同じ理屈による。この非人情論はふつうの人には理解されにくいだろう。

2回 那古井の志保田
(P18-7/折りから、竃のうちが、ぱちぱちと鳴って、赤い火が颯と風を起して一尺あまり吹き出す。「さあ、御あたり。嘸御寒かろ」と云う。軒端を見ると青い烟りが、突き当って崩れながらに、微かな痕をまだ板庇にからんで居る。「ああ、好い心持ちだ、御蔭で生き返った」)
さあ御あたり~いい具合に雨も晴れました~ここから那古井迄は一里足らずだったね~宿屋はたった一軒だったね

「宿屋はたった一軒だったね」
「へえ、志保田さんと御聞きになればすぐわかります。村のものもちで、湯治場だか、隠居所だかわかりません」
「じゃ御客がなくても平気な訳だ」
旦那は始めてで
いや、久しい以前一寸行った事がある

 画工はそう言うが、那古井が2度目であることは小説全体からは伝わって来ない。このセリフから推測されることは、(画工でなく)漱石が那古井の温泉に2度行ったことがあるということである。こんな正直な小説があるだろうか。
 何に対して正直か。自分の気持ちに正直というだけで、小説が永遠の生命を保てるとは思えないが、とりあえず漱石の小説が百年経っても読まれ続けていることの、必要条件ではあろう。
 確実に言えることは、主人公が那古井を始めて訪れた設定にするのであれば、Yes にせよ No にせよ、こんな問答は挿入されなかっただろう。根が天邪鬼なのである。

 画工は婆さんに続いて鶏もスケッチする。写生帖の余白に始めて1句披露する。『草枕』はまた俳句小説でもあった。

 春風や惟然が耳に馬の鈴

3回 源さんと馬子唄
(P21-8/只一条の春の路だから、行くも帰るも皆近付きと見える。最前逢うた五六匹のじゃらんじゃらんも悉く此婆さんの腹の中で又誰ぞ来たと思われては山を下り、思われては山を登ったのだろう。)
源さんと婆さんが那古井の御嬢様の噂話をする~嫁入のとき馬でこの峠を越した~ミレーのオフェリア

「・・・御秋さんは善い所へ片付いて仕合せだ。な、御叔母さん」
「難有い事に今日には困りません。まあ仕合せと云うのだろか」
「仕合せとも、御前。あの那古井の嬢さまと比べて御覧」
「本当に御気の毒な。あんな器量を持って。近頃はちっとは具合がいいかい
なあに、相変らずさ
困るなあ」と婆さんが大きな息をつく。
困るよう」と源さんが馬の鼻を撫でる。

 那美さんの健康状態についての第1回目。源さんと婆さんは振袖姿で馬に乗った花嫁の姿を思い出している。画工はまだ何の話か分からない。しかし早くもそこに死の影を感じている。

4回 長良の乙女
(P23-15/「それじゃ、まあ御免」と源さんが挨拶する。「帰りに又御寄り。生憎の降りで七曲りは難義だろ」「はい、少し骨が折れよ」と源さんは歩行出す。源さんの馬も歩行出す。じゃらんじゃらん。「あれは那古井の男かい」)
志保田の嬢様の話~長良の乙女の話~ともに2人の男が祟った~今度の戦争で夫の銀行が倒産

「志保田の嬢様が城下へ御輿入のときに、嬢様を青馬に乗せて、源兵衛が覊絏を牽いて通りました。――月日の立つのは早いもので、もう今年で五年になります」

・・・

「嘸美くしかったろう。見にくればよかった」
「ハハハ今でも御覧になれます。湯治場へ御越しなされば、屹度出て御挨拶をなされましょう」
「はあ、今では里に居るのかい。矢張り裾模様の振袖を着て、高島田に結って居ればいいが」
たのんで御覧なされ。着て見せましょ
 余はまさかと思ったが、婆さんの様子は存外真面目である。非人情の旅にはこんなのが出なくては面白くない。・・・

 那美さんの健康状態についての第2回目。言責は婆さんにある。出帰りの御嬢さんが、5年経って洒落にも花嫁衣裳を着て見せるはずがない。しかしそうとも限らないことを茶店の婆は知っている。

 『草枕』の執筆は明治39年夏であるが、この章では今次の戦争という言葉が出て来て、画工が置いた茶代の10銭銀貨を見ても、この戦争が日露戦役(明治37年2月~明治38年9月)であることが分かる。後章では「日露戦争が済む迄」(13章)とはっきり書かれており、物語の今は明治38年春であろうか。

 それで画工が第1章で、

「世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏の如く、日のあたる所には屹度影がさすと悟った。三十の今日はこう思うて居る。――」(第1章)

 そして第3章で(始めて那美さんに正対して)、

「然し生れて三十余年の今日に至るまで未だかつて、かかる表情を見た事がない。」(第3章)

 と言っているから、画工の年齢はまず32、3歳か。(ある年次の中で、生れて31年経ったと表明出来る人は、数えで32歳の人である。それも自分の誕生月が来ないと、精確に31年経ったとは申せない。30年でなく生れて31年経っていると大威張りで主張できるのは、むしろ正月を以って33歳になった人である。この場合三十余年を最も若い31年と見做して、それでも32歳が下限年齢で、可能性としては33歳の方が高い。)那美さんは5年前の嫁入りが20歳くらいと見て、現在25、6歳といったところだろう。両者お似合いの年頃というのがミソである。

 余談だが画工が明治6年生まれ(明治38年春で33歳)とすると、これは『坊っちゃん』が(日露でなく)日清戦争のころ、つまり漱石と同じ明治28年に松山入りしたという、本ブログ坊っちゃん篇で述べたオルタネイトの坊っちゃんの年齢(生年)に一致する。

 『草枕』目次。引用は岩波書店『定本漱石全集第3巻』(2017年3月初版)を新仮名遣いに改めたもの。回数分けは論者の恣意だが、その箇所の頁行番号ならびに本文を、ガイドとして少しく附す。(各回共通)

漱石「最後の挨拶」草枕篇 15

311.『草枕』目次(2)第1章(つづき)――非人情の旅とは何か


第1章 山路を登りながら考えた(全4回)(承前)

2回 雲雀の詩
(P6-3/忽ち足の下で雲雀の声がし出した。谷を見下したが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。只声だけが明らかに聞える。せっせと忙しく、絶間なく鳴いて居る。方幾里の空気が一面に蚤に刺されて居たたまれない様な気がする。あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない。)
シェリーの詩~雲雀は幸福か、それとも雲の中で死ぬのか~しかし苦しみのないのは何故だろう

We look before and after
 And pine for what is not :
Our sincerest laughter
 With some pain is fraught ;
Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.

「前を見ては、後(しり)へを見ては、物欲しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑といへど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ

 横書きの漱石ブログで唯一いいことがあるとすれば、このシェリーの詩(漱石訳――旧カナのママ)の引用部分であろう。しかしヒバリの鳴き声を聞いてこの詩を思い出したというのは、(文芸的な)ウソだろう。前回で画工は、

「喜びの深きとき憂愈深く、楽みの大いなる程苦しみも大きい。」(1回)

 と、30歳を過ぎた自分が日頃思うていることの1つとして、はっきり宣言している。

 詩人に憂はつきものかも知れないが、あの雲雀を聞く心持になれば微塵の苦もない。菜の花を見ても、只うれしくて胸が躍る許りだ。蒲公英も其通り、桜も――桜はいつか見えなくなった。・・・
 然し苦しみのないのは何故だろう。只此景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むからである。画であり詩である以上は地面を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲けする了見も起らぬ。只此景色が――腹の足しにもならぬ、月給の補いにもならぬ此景色が景色としてのみ余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう。・・・

 芸術と実生活は常に相反目する。道楽は職業にならない。漱石は頑固にそれを主張する。利を産む芸術とは言語の矛盾であるかのように。なるほど貨殖と芸術は交わることの少ない道ではあろう。しかしこだわるほどのこともないという考え方もある。苦しいのはやはりどこかにこだわりが残っているからであろう。
 世は金儲けのための「芸術」で溢れているとしても、漱石といえど金を忘れているわけではない。反対に一瞬たりとも金のことを忘れる時はない。だからこそ(金と無縁の)芸術世界に桃源郷を見るのである。俗垢に浸かっているという懼れないし自覚は漱石の中に常にある。

3回 非人情の旅
(P8-15/恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。然し自身が其局に当れば利害の旋風に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んで仕舞う。従ってどこに詩があるか自身には解しかねる。)
喜怒哀楽・苦怒騒泣は人の世につきもの~芝居や小説もそれを免れぬならそんな世界はまっぴら

 うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。採菊東籬下、悠然見南山。只それぎりの裏に暑苦しい世の中を丸で忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職して居る次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる

 西洋の詩はいくら純粋であっても銭勘定を忘れる暇がない。金のことを一時も忘れることが出来ないのは漱石の方であろうが、必然的に漱石は中国の古文に出世間的な詩味を見出す。それが『草枕』の謂う「非人情」であろう。人事のことを書かざるを得ない小説家は、俗の最たるものであるが、その小説家の極北にあるのが非人情に徹する詩人であるという。
 思うに画工はこのとき小説家でないことは明白であるから、「非人情の旅」を追求する資格もあると言いたいのであろう。しかし書いている漱石が明治39年、すでに創作にどっぷり浸かっているのもまた事実である。理屈が先行するのでは玄人集団にはなかなか受け入れられないだろう。後代の人から見ると、詩人であろうが職業作家であろうが、漱石漱石なのであるが。つまり現在の我々は百年以上前に没している漱石に対し、生活者である(あった)という実感を抱きにくいので、漱石は何をやっても詩人漱石であると思ってしまう。

4回 画工の覚悟
(P11-12/唯、物は見様でどうにもなる。レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子に告げた言に、あの鐘の音を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。一人の男、一人の女も見様次第で如何様とも見立てがつく。どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、其積りで人間を見たら、浮世小路の何軒目に狭苦しく暮した時とは違うだろう。)
旅に出逢うすべての人事を能舞台の出来事と見做すと~すべての人事を画帖に封じ込めたら

 この旅で出逢うすべての人や事物を、大自然の点景として見てみよう。発句の心がけである。心理作用に立ち入ったり葛藤の詮議をしては俗になる。画中の人間が動くと見れば差し支えない。

 ・・・利害に気を奪われないから、全力を挙げて、彼等の動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑑識する事が出来る。

 自分ないし自分の周囲を俯瞰してみて、すぐ損得勘定に結びつけるのが漱石の癖である。「小供の時から損ばかりして居る」とすぐに言ってしまうのが漱石である。
 してみると非人情に徹する旅というのは、写生旅とか俳句旅とかの実用目的ではなく、芸の修業というわけでも勿論なく、物の見方に関する自戒の旅であったことが分かる。しかし旅の始まりに際して宣言する目標というものは、だいたい途中でどこかへ行ってしまうものである。『草枕』の場合はどうであろうか。

 茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭が斜めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも咏まれる。有体なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ。只降る雨の心苦しくて、踏む足の疲れたるを気に掛ける瞬間に、われは既に詩中の人にもあらず、画裡の人にもあらず。依然として市井の一豎子に過ぎぬ。雲煙飛動の趣も眼に入らぬ。落花啼鳥の情けも心に浮ばぬ。蕭々として独り春山を行く吾の、いかに美しきかは猶更に解せぬ。初めは帽を傾けて歩行た。後には唯足の甲のみを見詰めてあるいた。終りには肩をすぼめて、恐る恐る歩行た。雨は満目の樹梢を揺かして四方より孤客に逼る。非人情がちと強過ぎた様だ。(本章末尾)

 小説の書き方、小説における人物の描き方について、日頃の漱石の考えをよく表した一文である。このくだりを読むと、流石に『草枕』の画工が「坊っちゃん」どころでない文章家であることや、「坊っちゃん」とは大きく懸け離れた知識人であることが分かるが、突然降り出した雨によって、非人情の旅は早くも頓挫の危機に瀕した。降る雨に頭と着物が濡れると泣くのは人情である。先が思いやられると作者自身も後悔しているのか、それとも高みの見物で余裕をかましているのか。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 14

310.『草枕』目次(1)第1章――真の詩人は坊っちゃん


 回り道をしたが、ここで『草枕』にも目次を付けてみる。引用はいつも通り『定本漱石全集第3巻』(2017年3月初版)。ただし新仮名遣いに改めている。回数分けは論者の恣意であるが、ガイドとしてその箇所の頁行番号ならびに本文を少しく附すのは、坊っちゃん篇と同様。

第1章 山路を登りながら考えた(全4回)

1回 店子の論理
(P3-2/山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。)
俗世間の住みにくさと芸術の効用~主人公は30歳余~大きな石を迂回して旅を続ける

 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に①人の世は住みにくい
 住みにくさが高じると、②安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行く許りだ。③人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう

 あまりにも有名な冒頭の一句では、住みにくいとされた「人の世」で、ふつうなら人のいない所へ行きたくなるものだが、漱石の理屈では、人のいない所はなおさら住みにくいだろうから、結論として「安い所」に住みたくなると言う。これは変則的な三段論法(①-③-②)である。
 しかしなぜ「安い所」なのか。これを分かりやすく説明出来る人はいないだろう。金銭に恬淡に見える『坊っちゃん』にお金の話・物の値段の話が百箇所書かれるとは先述したところ。それに対し『草枕』ではお金の話は出て来ない。出て来てもほんの小銭で2、3ヶ所である。もちろん那美さんの出帰りの真因が嫁ぎ先の破産であるからには、財政問題は常に物語の底流となっているものの、それらについては主人公もさほど関心を払わない。それでいて冒頭でいきなり、(家賃の)安い所へ行くしかないと言う。
 思うにこれは落語によくある、長屋の大家と店子の話ではないか。「人の世」を長屋の世の中と見れば、住人は八つぁん熊さんであり、僅かでもインテリの血が交配されているのが大家さんである。『草枕』では(噺家漱石=画工は別として)、その構成はどうなっているのであろうか。長屋の世界はこの小説の中で進展するのか、それとも話のそれこそ「枕」で終ってしまうのか。

 落語ということであれば、『猫』の語り口はまさしく落語そのものであるから、『草枕』はそこから生まれて、『虞美人草』への橋渡しをすることによって、役目を終えた作品であると言えなくもない。後年(文芸的高等おしゃべりとしての)『虞美人草』を否定した漱石が、『草枕』をその同類(出発点)のように見做して遠ざけたのも頷けよう。
 『猫』からのもうひとつの派生先である『坊っちゃん』は、基本的には『三四郎』以下に引き継がれ、その後の漱石文学の本流になったと言っていいだろう。落語噺と縁を切った漱石は、構えと気取りを(自分の積りでは)取り去って、厭世とユーモアを登場人物の日々の言動に(目立たぬように)融け込ませて描くことにしたのである。

 世に住むこと④二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。⑤二十五年にして明暗は表裏の如く、日のあたる所には屹度影がさすと悟った。⑥三十の今日はこう思うて居る。――⑦喜びの深きとき憂愈深く、楽みの大いなる程苦しみも大きい。・・・

 ④は、『心』の先生の遺書にある「16、7歳の時、始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した」というくだりが想起されよう。坊っちゃんは23歳であった。松山から引き揚げて迎えた年でやっと24歳である。清が亡くなって25歳になった頃には、坊っちゃんも⑤以下のようなことに充分思いが至るのかも知れない。そして30歳の主人公は自らのインテリジェンスを、冒頭の長屋的感想や⑦のような通俗的言辞にリライトする親切さも持ち合わせるようになっている。

 立ち上がる時に⑧向うを見ると、⑨路から左の方にバケツを伏せた様な峰が聳えて居る。杉か檜か分からないが根元から頂き迄悉く蒼黒い中に、山桜が薄赤くだんだらに棚引いて、続ぎ目が確と見えぬ位靄が濃い。少し手前に禿山が一つ、群をぬきんでて眉に逼る。禿げた側面は巨人の斧で削り去ったか、鋭どき平面をやけに谷の底に埋めて居る。

 ⑧と⑩は、いかにも漱石らしい書き振りである。⑧「向こうを見る」とは、この場合は「遠く(の景色)を見る」であろう。すると視野の⑩「左」側に峰が見えるという。文章の視点が徹頭徹尾(作者でなく)画工にある。『草枕』が「余(画工)」の1人称小説であるがゆえというわけではない。これは漱石の書き癖である。漱石は『猫』から『明暗』まで一貫して同じ書き方をしている。読者はふつう話者(や登場人物)の左右東西がどうなっているのか分からない。もちろん分からなくていいのであるが、この場合は⑨の「路から」という語によって、かろうじて何の「左側」かということは分かる。しかしこれは漱石としてはレアケースに属する。『草枕』は丁寧に書かれている方である。(ふつうは⑨は書かれないことが多い。)
 画工がこのときどこを向いているかは(画工と作者以外)誰にも分からない。引用文冒頭の「立ち上がる時」というのは、その直前に画工の足がもつれて転びそうになり、手近の岩へ尻餅をついたのであるが、そのときも「右足」が石の角で滑ったので「左足」で踏ん張ろうとしたらよろけたと書かれる。それはまあいい。しかしそのとき画工はどちらを向いて岩へ腰掛けてしまったか。路の左方向(⑨⑩)に見えたとあるが、進行方向を向いていたのであれば、右であれ左であれ、バケツを伏せたような峰はとうから画工の目に映っていたはずである。では自分が歩いてきた道の方を振り返るように坐ったのだろうか。
 このようなシーンは漱石に無数にあるが、これをそのまま映像化するには映像作家の想像力が必要になる。翻訳するには翻訳家の想像力が必要になる。映像は映像作家の恣意にまかせられても、翻訳はなかなかそうはいかない。漱石の(平叙文としての)「向こう」は、(「相手側」「反対側」「海外」という意味でない場合は、)本来訳しようがない。英訳本を見ても、せいぜい far away か、始めから訳さないケースが目立つようである。

 ところで画工が立ち上がって見た「向こう」の「左の方」の景色であるが、坊っちゃんが同じように舟上で「向こう側」に見たターナー島の叙景(※)に比べると、詩的感慨ではやや劣るようだ。『草枕』は詩情に徹し『坊っちゃん』は人情に徹しているから、本来勝敗の帰趨は決しているはずである。どうしたわけであろうか。『草枕』は力が入り過ぎたのだろうか。漱石が自分ながら嫌気がさした理由も、こんなところにあるのかも知れない。

 土をならす丈なら左程手間も入るまいが、土の中には大きな石がある。土は平らにしても石は平らにならぬ。石は切り砕いても、岩は始末がつかぬ。掘崩した土の上に悠然と峙(そばだ)って、吾等の為めに道を譲る景色はない。向うで聞かぬ上は乗り越すか、廻らなければならん。巌のない所でさえ歩るきよくはない。左右が高くって、中心が窪んで、丸で一間幅を三角に穿って、其頂点が真中を貫いていると評してもよい。路を行くと云わんより川底を渉ると云う方が適当だ。固より急ぐ旅でないから、ぶらぶらと七曲りへかかる。

 大石の多い西日本の道に漱石は驚いたことだろう。しかし岩は関東にもあった。『明暗』津田の(湯河原への)道行の、夢幻的なシーンに同じような大岩が登場する。大きな岩を迂回して目的地に進む。この道行に瘦せ馬が登場することも共通している。単なる体験譚か、それとも何かの寓話が潜んでいるのか。『明暗』を書いている漱石の頭の中に、『草枕』がよぎることは一瞬たりともあるまいから、主人公が女の「待つ」場所へ向かうときの大岩迂回や馬は、漱石の中に自然に湧いてくる道具立てなのであろう。わざとやると小刀細工であるが、そうでない場合は則天去私ということになる。

(※注) 船頭はゆっくりゆっくり漕いでいるが熟練は恐しいもので、見返えると、浜が小さく見える位もう出ている。高柏寺の五重の塔が森の上へ抜け出して針の様に尖がってる。向側を見ると青島が浮いている。是は人の住まない島だそうだ。よく見ると石と松ばかりだ。成程石と松ばかりじゃ住めっこない。赤シャツは、しきりに眺望していい景色だと云ってる。野だは絶景でげすと云ってる。絶景だか何だか知らないが、いい心持ちには相違ない。ひろびろとした海の上で、潮風に吹かれるのは薬だと思った。いやに腹が減る。「あの松を見給え、幹が真直で、上が傘の様に開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。・・・(『坊っちゃん』第5章1回)

 ・・・青空を見て居ると、日の光が段々弱って来て、少しはひやりとする風が吹き出した。線香の烟の様な雲が、透き徹る底の上を静かに伸して行ったと思ったら、いつしか底の奥に流れ込んで、うすくもやを掛けた様になった。
 もう帰ろうかと赤シャツが思い出した様に云うと、ええ丁度時分ですね。今夜はマドンナの君に御逢いですかと野だが云う。・・・(『坊っちゃん』第5章2回)

 ・・・大分寒くなった。もう秋ですね、浜の方は靄でセピヤ色になった。いい景色だ。おい、吉川君どうだい、あの浜の景色は……」と大きな声を出して野だを呼んだ。なある程こりゃ奇絶ですね。時間があると写生するんだが、惜しいですね、此儘にして置くのはと野だは大にたたく。
 港屋の二階に灯が一つついて、汽車の笛がヒューと鳴るとき、おれの乗って居た舟は磯の砂へざぐりと、舳をつき込んで動かなくなった。御早う御帰りと、かみさんが、浜に立って赤シャツに挨拶する。おれは船端から、やっと掛声をして磯へ飛び下りた。(『坊っちゃん』第5章3回末尾)

 詩人坊っちゃんによるターナー島の章叙景3傑であるが、3例とも赤シャツ・野だが共に描き込まれていることに着目されたい。画家坊っちゃんの目にはターナー島は常に(マドンナや清だけでなく)赤シャツ・野だと共にあったのである。これもまた対照の妙の実例であろう。
 技法的には、書生の坊っちゃんだけが景色を愛でると、坊っちゃん坊っちゃんでなくなる。ここは漱石たる赤シャツが愛でるのが一番ふさわしいのであるが、この小説で赤シャツの心情を描くわけにもいかない。自然赤シャツは多く専門家たる野だに話しかけるという体裁を取らざるを得ない。それをもう1人の漱石たる坊っちゃんが聴き取り描写する。それが『草枕』の本文より美しいのである。『草枕』は『坊っちゃん』に負けているのであろうか。