明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 13

309.『草枕』あぶない小説(4)――『一夜』の脚本


(前項の)3人の生涯は余計な話(小説的に空想した無駄話)であるが、難解な『一夜』を少しでも分かりやすくするため、ここで最後に本文を脚本ふうにリライトしてみよう。本文は引用と同じ青色で示すが、赤色文字は詩(うた)としての発声を表現したつもり。

漱石しき多くの人の、美しき多くの夢を……
保治「描けども成らず、描けども成らず……描けども、描けども、夢なれば、描けども、成りがたし……ハハハ」と女の方を見る。
楠緒「画家ならば絵にもしましょ。女ならば絹を枠に張って、縫いにとりましょ」白い浴衣から崩した足が座布団を滑る。
漱石美しき多くの人の、美しき多くの夢を……
楠緒「縫いにやとらん。縫いとらば誰に贈らん。贈らん誰に」莞爾としながら団扇の柄で頬にかかる黒髪を払う。香油の薫がひろがる。
保治「我に贈れ」またからからと笑う。女の頬には笑みとともに微かに朱が差す。
漱石縫えば如何な色で
楠緒「絹買えば白き絹、糸買えば銀の糸、金の糸、消えなんとする虹の糸、夜と昼との界なる夕暮の糸、恋の色、恨みの色は無論ありましょ
 女の黒い眼は愁いを含んでなお涼しげである。

 五月雨がまた降り出す。
保治「あの木立は枝を卸した事がないと見える。梅雨も大分続いた。よう飽きもせずに降るの」と言いながら自分の膝頭を敲く。「脚気かな、脚気かな
漱石「女の夢は男の夢よりも美しかろう」
楠緒「せめて夢にでも美しい国へ行かないと、救われません」
漱石「世の中が古くなって、汚れたとでも言うのかい」
楠緒「よごれました」
漱石「古き壺には古き酒があるはず、味わってみるのもいい」
楠緒「そんな……。古き世に酔える人は仕合せです」
保治「脚気かな、脚気かな」と言いつつ、「しっ」と二人を制する。杜鵑が裏の禅寺の方へ飛ぶ。
漱石「あの声がほととぎすか」
保治「あちらだ」鉄牛寺の上で杜鵑がククッと鳴く。
漱石一声でほととぎすだと覚る。二声で好い声だと思うた
楠緒「ひと目見てすぐ惚れるのも、そんな事(古き世のこと)でしょうか」平気な顔で言う。
保治「あの声は胸がすくよだが、惚れたら胸は痞えるだろ。惚れぬ事。惚れぬ事……どうも脚気らしい」向う脛をしきりに気にしている。
漱石九仞の上に一簣を加える。加えぬと足らぬ、加えると危うい。思う人には逢わぬがましだろ……然し鉄片が磁石に逢うたら?」
保治「はじめて逢うても会釈はなかろ」
漱石「見た事も聞いた事もないに、是だなと認識するのが不思議だ。わしは歌麻呂のかいた美人を認識したが、なんと画を活す工夫はなかろうか」とまた女の方を向く。
楠緒「私には(分かりません)……認識した御本人でなくては」
漱石「夢にすれば、すぐに活きる」
楠緒「どうして?」
漱石「わしのは斯うじゃ……」
 蚊遣火が消えた。
楠緒「灰が湿って居るのか知らん」と女が蚊遣筒を引き寄せて蓋を取る。
 隣で琴と尺八の音がよく聞える。明け放った座敷の灯が見える。
保治「どうかな」
漱石「人並じゃ」

漱石「わしのは斯うじゃ」
楠緒「今度はつきました」蚊遣の烟が上がる。
保治「荼毘だ、荼毘だ」
楠緒「蚊の世界も楽じゃありません」
 元へ戻りかけた話も蚊遣火と共に吹き散らされた。話しかけた男は別に語り続けようともしない。
楠緒「御夢の物語りは」
漱石「こう湿気てはたまらん」詩集を膝に置いている。
楠緒「じめじめする事……。香でも焚きましょうか」
 香炉の蓋を取る。香炉の隣には蓮の花が挿してある。
楠緒「あら蜘蛛が。……蓮の葉に蜘蛛下りけり香を焚く
漱石蠰蛸懸不揺、篆烟遶竹梁」(蠰蛸しようしよう懸ってうごかず、篆烟てんえん竹梁ちくりようめぐ
保治「夢の話を蜘蛛も聞きに来たのだろう」
漱石「そうじゃ夢に画を活かす話じゃ。聞きたくば蜘蛛も聞け」と膝の上なる詩集を読むともなしに開く。
漱石百二十間の廻廊があって、百二十個の燈籠をつける。百二十間の廻廊に春の潮が寄せて、百二十個の燈籠が春風にまたたく、朧の中、海の中には大きな華表が浮かばれぬ巨人の化物の如くに立つ。……」
 戸鈴の響がして何者か門口をあける。話し手ははたと話をやめる。
保治「隣だ」
 蛇の目を開く音がして「また明晩」と若い女の声。「必ず」と男。三人は無言のまま顔を見合せて微かに笑う。
保治「あれは画じゃない、活きている」
漱石「あれを平面につづめればやはり画だ」
保治「しかしあの声は?」
漱石「女は藤紫」
保治「男は?」
漱石「そうさ」何と言ってよいか分からない。女の方を向く。
楠緒「緋」と賤しむ如く答える。
漱石百二十間の廻廊に二百三十五枚の額が懸って、其二百三十二枚目の額に画いてある美人の……」
楠緒「声は黄色ですか茶色ですか」
漱石「そんな単調な声じゃない。色には直せぬ声じゃ。強しいて云えば、ま、あなたの様な声かな」
楠緒「難有う」
 女の眼の中には憂をこめて笑の光が漲みなぎる。
 この時どこからか二疋の蟻が這出して一疋は女の膝の上に攀上る。女は白い指で軽く払い落す。落された蟻は菓子皿へ向かう。
保治「八畳の座敷があって、三人の客が坐わる。一人の女の膝へ一疋の蟻が上る。一疋の蟻が上った美人の手は……」
漱石「白い。蟻は黒い」三人が斉しく笑う。
楠緒「其画にかいた美人が?」と又話を戻す。
漱石波さえ音もなき朧月夜に、ふと影がさしたと思えばいつの間にか動き出す。長く連なる廻廊を飛ぶにもあらず、踏むにもあらず、只影の儘にて動く
保治「顔は」と尋ねる。

 隣の合奏がまた聞え出す。あまり旨くはない。
漱石「蜜を含んで針を吹く」皮肉な評語。
保治「ビステキの化石を食わせられているみたいだな」こちらは直球である。
楠緒「造り花なら蘭麝でも焚き込めなければ……」女の評が一番辛辣かも知れない。
漱石珊瑚の枝は海の底、薬を飲んで毒を吐く軽薄の児。……それそれ。合奏より夢の続きが肝心じゃ。――画から抜けだした女の顔は……」
保治「描けども成らず、描けども成らず」と調子を取って軽く菓子椀を叩く。蟻は菓子椀の中を右左へ馳け廻る。
楠緒「蟻の夢が醒めました」
漱石「蟻の夢は葛餅か」と笑う。
保治「抜け出ぬか、抜け出ぬか
楠緒「画から女が抜け出るより、あなたが画になる方が、やさしう御座んしょ」
漱石「それは気がつかなんだ、今度からは、こちらが画になろうか」
保治「蟻も葛餅にさえなれば、こんなに狼狽えんでも済む事を」と葉巻をふかしながら、伸びて軒に迫る女竹の、風に揺れて椽に緑の雫を垂らす様子を眺めて、「あすこに画がある」
漱石「ここにも画が出来る」床の間の若冲を振り返る。ほの暗いので古い軸と区別がつかない。

 女は洗える儘の黒髪を肩に流して、丸張りの絹団扇を軽く揺がせば、折々は鬢のあたりに、そよと乱るる雲の影、収まれば淡き眉の常よりも猶晴れやかに見える。桜の花を砕いて織り込める頬の色に、春の夜の星を宿せる眼を涼しく見張りて「私も画になりましょか」と云う。はきと分らねど白地に葛の葉を一面に崩して染め抜きたる浴衣の襟をここぞと正せば、暖かき大理石にて刻める如き頸筋が際立ちて男の心を惹く。
漱石「其儘、其儘、其儘が名画じゃ」
保治「動くと画が崩れます」
楠緒「画になるのも矢張り骨が折れます」
 女は膝に乗せた右手をいきなり後ろへ廻わして体をどうと斜めに反らす。丈長き黒髪がきらりと灯を受けて、さらさらと青畳に障る音さえ聞える。
漱石「南無三、好事魔多し」
保治「刹那に千金を惜しまず」と葉巻の飲み殻を庭へ抛きつける。
 隣の合奏はいつしかやんで、樋を伝う雨点の音のみが高く響く。蚊遣火はいつの間まにやら消えた。
保治「夜もだいぶ更ふけた」
漱石「ほととぎすも鳴かぬ」
楠緒「寝ましょか」

 彼らは凡てを忘れ尽したる後漸く太平に入る。女はわがうつくしき眼と、うつくしき髪の主である事を忘れた。一人の男は髯のある事を忘れた。他の一人は髯のない事を忘れた。彼等は益々太平である。
 昔阿修羅が帝釈天と戦って敗れたときは、八万四千の眷属を領して藕糸孔中に入って蔵れたとある。維摩が方丈の室に法を聴ける大衆は千か万か其数を忘れた。胡桃の裏に潜んで、われを尽大千世界の王とも思わんとはハムレットの述懐と記憶する。粟粒芥顆のうちに蒼天もある、大地もある。一生師に問うて云う、分子は箸でつまめるものですかと。分子は暫く措く。天下は箸の端にかかるのみならず、一たび掛け得れば、いつでも胃の中に収まるべきものである。
 又思う百年は一年の如く、一年は一刻の如し。一刻を知れば正に人生を知る。日は東より出でて必ず西に入る。月は盈つればかくる。徒らに指を屈して白頭に到るものは、徒らに茫々たる時に身神を限らるるを恨むに過ぎぬ。日月は欺くとも己れを欺くは智者とは云われまい。一刻に一刻を加うれば二刻と殖えるのみじゃ。蜀川十様の錦、花を添えて、いくばくの色をか変ぜん。
(『一夜』脚本 畢)

 この「一刻を知れば正に人生を知る」は、本ブログ坊っちゃん篇で紹介したヴィトゲンシュタインの「現在を生きる者は永遠に生きる」のことであろう。それはまた「刹那に千金を惜しまず」にも通ずる。

 永遠を終わりのない無限に続く時間の連続としてでなく、「非時間」と解するなら、現在を生きる者は永遠に生きる。(ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』6-4311)

 そして『一夜』は、作者の宣言めいた次の一文で締め括られる。

 八畳の座敷に髯のある人と、髯のない人と、涼しき眼の女が会して、斯くの如く一夜を過した。彼等の一夜を描いたのは彼等の生涯を描いたのである。(『一夜』末尾近く/再掲)

 読者はこの詩的コントから、作者の言う通り、例えば漱石・保治・楠緒の生涯を感じ取ることが出来るだろうか。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 12

308.『草枕』あぶない小説(3)――『一夜』3つの嘘


 さて『草枕』の話に戻らねばならないが、その前に、『草枕』のプロローグたる『一夜』について、もう少し詳しく見てみよう。
 前述したが『一夜』はよく分からない作品である。その上作者の漱石が(『猫』で)主意の説明を放棄している。『一夜』はどういう小説か。

 八畳の座敷に①髯のある人と、②髯のない人と、③涼しき眼の女が会して、斯の如く一夜を過した。彼等の一夜を描いたのは④彼等の生涯を描いたのである。
 何故三人が落ち合った? ⑤それは知らぬ。三人は如何なる身分と素性と性格を有する? ⑥それも分らぬ。三人の言語動作を通じて一貫した事件が発展せぬ? ⑦人生を書いたので小説をかいたのでないから仕方がない。なぜ三人とも一時に寝た? ⑧三人とも一時に眠くなったからである。(『一夜』末尾)

 漱石は『一夜』で嘘を3つ吐いている。最大の嘘は登場人物について何も知らないととぼけたことである(⑤と⑥)。漱石はものを聞かれて知らないと言ったことのない男である。漱石は明らかにこの3人の人物をよく知っている。知らないと書いたのは、知っているが書きたくないということであろう。漱石は基本的には噓の吐けない性格である。よほど書くのが憚られたのだろうか。漱石はその言い訳さえ試みている(④と⑦)。『一夜』は小説でないと言う。小説でないのはいいが、3人の人生・生涯を書いたというのであれば、⑤と⑥は嘘である。理屈を言うようだが、何も分からないで3人の人生・生涯が書けるわけがない。
 したがってここは読み手の方で勝手に、漱石のよく知っている人物を当て嵌めることにする。便宜上『一夜』を『坊っちゃん』『草枕』へと続く小説と見做し、
イ 髭ある男=漱石
ロ 髭なき男=保治
ハ 涼しき眼の女=楠緒
 として考察を進める。
 時は明治27年頃(漱石が松山へ行ったのは明治28年4月)、場所は東京近郊の温泉宿。伊香保と想像するのは自由だが、その1室縁側付き8畳間での1夜の話である。五月雨の時期というのは本文にある。温泉宿が(『坊っちゃん』『草枕』のように)四国九州であっても、それはそれで構わない。

 髭のある人を漱石と比定する理由については、まず次の3点が挙げられよう。(前述したが『一夜』は「髭」と書くべきところを「髯」と書いている。これが小さいけれども2つ目の嘘である。)

 床柱を背負っていること。

 上座に坐って動かないのは、塩原の跡取り坊っちゃんたる漱石の習性である。漱石は座敷から一度だけ縁側近くに移動する。(一度も見たことのない)ホトトギスを見るためである。好奇心は人一倍強いのである。現実の漱石はまた時折尻の軽さも見せるが、これは夏目家の末っ子の血がそうさせるのであろう。
 対する保治は縁側に腰掛けて、足を庭の方へ降ろしてぶらぶらさせている。いつでも動けるように、行動的で始めから腰が軽い。結婚したとき夫人の姓を名乗ったくらいだから、長男ではないのだろう。
 楠緒は座敷の真ん中に座っている。

 膏手であること。

「御夢の物語りは」とややありて女が聞く。男は傍らにある羊皮の表紙に朱で書名を入れた詩集をとりあげて膝の上に置く。読みさした所に象牙を薄く削った紙小刀が挟んである。巻に余って長く外へ食み出した所丈は細かい汗をかいて居る。指の尖で触ると、ぬらりとあやしい字が出来る。「こう湿気てはたまらん」と眉をひそめる。女も「じめじめする事」と片手に袂の先を握って見て、「香でも焚きましょか」と立つ。夢の話しは又延びる。(『一夜』)

 おれは、控所へ這入るや否や返そうと思って、うちを出る時から、湯銭の様に手の平へ入れて一銭五厘、学校迄握って来た。おれは膏っ手だから、開けてみると一銭五厘が汗をかいて居る。汗をかいてる銭を返しちゃ、山嵐が何とか云うだろうと思ったから、机の上へ置いてふうふう吹いて又握った。(『坊っちゃん』6章)

 ふつうはこんなことは書かない。漱石新聞小説作家になってからは、原則として品のないことは書かなくなった。鼻毛であれ、後架先生であれ、サベジチーであれ、『坊っちゃん』の全篇を覆うエピソード群であれ、くだらない( funny )ことはすべて初期作品に尽くしてしまった。
 新聞読者を意識した行き方であることに違いないが、ふつうは芸術家の王道ではないとされる。読み手によって書き方が変わるのであれば、自分が真に書きたいものが何であるか、誰にも分からなくなるからである。
 しかしどの芸術家の作品よりも文豪漱石の残したものの方が長命であるとすれば、文豪はそんなことは超越してしまっているのか。

 画工であること。

 『一夜』での漱石はどう見ても画工(えかき)である。妙に文人くさい画工である。これは『草枕』の主人公にそのまま一致している。『草枕』の主人公にのみ・・一致しているといってよい。
 保治もそれに近いが、根っからのボヘミアンではなさそうである。美学者かその卵といったところであろう。

 次に彼らは何をしているのか。単に温泉旅行をしているだけとも思えないが、彼等の旅行の目的は何か。
 それははっきりしない。小説でないのだからと作者は言うが、やはり端的に書きたくないから書かないのだろう。
 書かれた範囲だけで判断すると、まず画工は活きた美人画を描きたがっている。そのモデルは同宿の女に求めているようにも読める。しかし画工の描こうとする美人画には何か足りないものがある。女の関心もそこにあるようである。必ずしも(那美さんのように)自分を描いてほしいわけでもない。画家でない友人は誰が描かれようが気にならない。画よりも女本人の方に関心がある。
 小説は画工と女の会話が中心となる。友人は聞き役である。その認識は3人とも共通しているようである。
 画工と女のせめぎ合い。これはまさに『草枕』の世界に他ならない。

 そして一番肝心なこと。④「彼等の生涯を描いた」と言うが、その生涯とはいかなるものになるのか。それは直接には書かれない。書かれるくらいなら『一夜』に謎はない。
 作者は描いたつもりなのだろう。彼らの行く末を知っているからである。知っているから、描かなくても、描いたつもりになったのであろう。

 なぜ三人とも寝た? ⑧三人とも一時に眠くなったからである。(『一夜』末尾再掲)

 これは明らかに作者の(3つ目の)大嘘である。嘘というより、作者は分かって書いている。読んだ誰もが信じないだろうということを、ちゃんと分かって書いているから、これは嘘とはまた別の技法であるかも知れない。
 では何が起こったのか。読者は想像するしかない。その書かれない彼らの人生とは次のようなものである。

 漱石と楠緒が一致して共通の目標に向かっているように見えたが、結果は保治と楠緒が結婚した。漱石は傷ついた。

 なぜこんなことになってしまったのか。その解明は『明暗』まで続いたが、結論は出なかった。幻の最終作品で漱石は一定の決着を付けるつもりだったのだろうか。

 『一夜』に限って考えてみると、保治は楠緒に惚れていなかったのに比べ、漱石は楠緒に惚れていたことが、最大の原因ではないか。(『一夜』の)楠緒は(『一夜』の)保治の方が安心出来た。なぜなら女に惚れている(『一夜』の)漱石の方が、それがゆえに心が揺れ動いて不安定に見えるからである。女は安心を買うのである。安心出来ない生活に甘んじるくらいなら、いっそ崖から飛び降りる方がいい。

 ちなみに現実の小説家漱石の書く女が皆勁いのは、それだけ女の不安の度合いが男に比べて勝っているからであろう。この不安は社会の仕組みが多少変わったからといって軽減されるものでもないし、何かを学んだり教わったりして解消する類いのものでもない。だからどうだというわけではないが、少なくとも漱石の文学がいつまでも読まれる理由の1つではあるだろう。女性を常にそのような視点からのみ描き続ける作家というのは案外少ないのである。

 さて「想像」を続けるなら、翌る年の春に楠緒は保治と結婚する。同時に失意の漱石は松山に逃避する。1年後さらに熊本へ。『坊っちゃん』の世界は忿怒に充ちているが、『草枕』の世界もまた負けていない。それをカモフラージュするために、『坊っちゃん』ではユーモアに逃げ、『草枕』では非人情などという意味不明の造語まで行なった。
 『草枕』はまた愚痴の小説である。しかし画工の愚痴は那美さんには同情されない。当然である。『一夜』の楠緒もまた、画工に同情することはない。楠緒は画工の弟子であるかも知れないが、同情されたいのはむしろ楠緒の方である。
 画工はその後10年の歳月を経て小説家として立つ。著名になって『三四郎』に続き『それから』を書く。『それから』は一旦友に譲った女を改めて取り戻す話である。楠緒はなぜかショックを受けて寝込んでしまい、ほどなくその短い生涯を閉じる。小説家になった元画工は楠緒に対する興味はとっくに失っていた。画を描かなくなったからである。その前にそもそも人の細君に関心を寄せる元画工ではなかった。『草枕』でも那美さんを注視していたのは、あくまでも絵画の成就のためであった。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 11

307.『草枕』あぶない小説(2)――女王は3回初登場する


 全13回の登場シーンを有つ那美さんであるが、その那美さんは贅沢にも初登場シーンが3回ある。それはあたかも漱石の処女作が『猫』・『坊っちゃん』・『倫敦塔』(あるいは『草枕』)と3つあることをなぞっているようでもある。前項に掲げた13回のうち、第3章に書き下ろされた最初の3回が、いずれも初登場シーンと言えるものである。

初回 宿へ着いた最初の夜、1時10分。庭かその先の渡り廊下で誰か歌を歌っている。
2回目 さらに深更。床で半分夢の中にいると、誰か部屋に侵入してきた。押入れから何かを取り出したようだ。
3回目 翌朝。風呂へ入って、濡れたまま風呂場の戸を開けると、出会い頭に始めてのセリフ付きで、正式なご対面。

 つまり歌声と影法師だけの初回。肉の感じはあるがひょっとすると夢かも知れない2回目。これに対して3回目は、セリフも所作も伴なう正式な初登場である。その前の夜の登場が夢でなかったことは、翌日の午後の、「昨夕は御迷惑で御座んしたろう。何返も御邪魔をして」(第4章)という那美さん自身の言葉によって裏打ちされる。
 読者はただちに『三四郎』の美禰子の初登場シーンを思い出す。この場合も3度目の正直ならぬ3度目の正式初登場という描き方がなされた。

美禰子初回 有名な池の女のシーン。年上の看護婦と一緒に。(『三四郎』2章)
美禰子2回目 よし子を見舞った病院の玄関で、やはりよし子の病室へ向かう池の女と遭遇する。(同3章)
美禰子3回目 広田先生の引越する下宿の庭先で正式な対面と自己紹介。ボアのような白い雲。(同4章)

 美禰子も堂々たる女王であるが、那美さんはその先鞭を着けるという意味で、こちらも貫禄さえ漂う女王ぶりである。何より出帰りであるということに加え、地元の銀行家に嫁ぐ前に京都に好いた男がいたという設定が(真偽は定かではないが)、美禰子以下の遠く及ばないところであろう。
 この女王然とした那美さんに対し、画工は少しもへこたれるところがない。(こともないが、まあ強気に突っ張って不自然でないように見える。)漱石の男は例外なく女に対して愚図愚図である。『猫』の寒月、『坊っちゃん』のうらなりに始まり、漱石作品にこの「愚図愚図」の書かれなかった試しはない。『道草』でも御縫さんに関するくだりは、明らかに少年期の懐かしいエピソードの範囲を越えているし、そういう話頭とは無縁と思われる『坑夫』にさえ、主人公には艶子・澄江の2少女が附着していた。
 ひとり『草枕』の画工だけがグズグズでない主人公であるようだ。それが何に由来するかはさておいて、初登場シーンが出たついでに、『三四郎』美禰子についても、その(4回目以降の)登場シーンをまとめてみよう。

美禰子4回目 菊人形。皆とはぐれたランデヴー。ストレイシープ。(『三四郎』5章)
美禰子5回目 運動会。「あんな所に」(同6章)
美禰子6回目 「とうとう入らしった」~丹青会の午後。「野々宮さん。ね、ね」(同8章)
美禰子7回目 洋品店。四丁目の夕日。ヘリオトロープ。(同9章)
美禰子8回目 原口のアトリエ。「御金は、彼所じゃ頂けないのよ」「大学の小川さん」(同10章)
美禰子9回目 協会での別れ。「我が罪は常に我が前に在り」(同12章)
美禰子10回目 森の女。「森の女と云う題が悪い」(同13章)

 那美さん13回に対し美禰子は10回である。10回というのは異論があるかも知れない。4回目(菊人形の第5章)は、広田先生の下宿~菊人形会場~千駄木の奥の(漱石は田端と書いている)小川、明らかにシーンは3ヶ所変遷している。6回目(丹青会の第8章)も、美禰子の自宅~丹青会会場~上野の森(雨宿り)の3ヶ所が数えられる。8回目、美禰子の婚約者が現われる驚きの章は、原口のアトリエと本郷教会前の2シーンである。那美さんを13回と言うのなら美禰子は15回ということになる。
 これは『草枕』の頃の(那美さんを「豆腐のぶつ切れ」のように書いた)書き方に比べて、『三四郎』では1つの章の中でヒロインの描き方が切れ目なく繋がっていることによるものであろうか。漱石は熟練したのか。それとも1人称と3人称という書き方のせいに過ぎないのか。
 論者は漱石の作家生活の11年間で、その技量は一定であるとする意見の方に組する。そして何人称で書こうが漱石の語り口は変わらないと思うクチであるから、この場合は単に那美さんが神出鬼没であるというだけのことであろう。人の想像を逸脱して行為に及ぶ。人は仮にそれをキ印と呼ぶ。
 それで不足の3回分は野々宮よし子が、(美禰子とは別に)単独で登場している回に一致する。

 

よし子初回 入院中の病室にて母親と初登場。(『三四郎』3章)
よし子2回目 自宅で水彩画を描く。(同5章)
よし子3回目 インフルエンザの三四郎を見舞う。(同12章)

 ちなみによし子が美禰子と一緒に登場するのは、上記美禰子の4回目(5章)・5回目(6章)・7回目(9章)の3回である。よし子は『三四郎』では6回登場する。美禰子のきっちり半分以下に抑えられている。
 では『それから』の三千代はどうなっているか。

三千代初回 代助宅。始めての来訪。500円借金申込み。(『それから』4章)
三千代2回目 平岡宅。引越の日。(5章)
三千代3回目 平岡宅。久しぶりに酒を酌み交わす。(6章)
三千代4回目 平岡宅。200円届ける。(5章)
三千代5回目 代助宅。2度目の来訪。鈴蘭の水鉢。(10章)
三千代6回目 平岡宅。消えた指輪。財布の金を渡す。(12章)
三千代7回目 平岡宅。戻った指輪。(13章)
三千代8回目 代助宅。3度目の来訪。告白。(14章)
三千代9回目 平岡宅。三千代の落着きと代助の不安。(15章)
三千代10回目 代助宅。4度目の来訪。代助を叱る。(16章)

 美禰子と三千代の登場回数の平仄は、故意か偶然か合っている。こうして見てくると、『草枕』-『三四郎』-『それから』(那美さん-美禰子・よし子-三千代)の各章ごとの扱い方の変遷は興味深いものであるが、名人芸・同一手法を嫌った漱石は、『門』以降自分の小説を章分けしなくなった。中期3部作では中身をタイトルまで付けて分離し、『道草』『明暗』では連載回のみの明示でのべつに書くというやり方になった。
 余談だが毎日の掲載回ごとに小さい山を設ける、次回以降に繋げる小さい謎も残す、という(志賀直哉を辟易させた)通俗小説的手法は、漱石の小説にとっては幸いした。漱石の謂う小さい山というのは、たいていは印象深い1行か2行の文章に集約されて描かれるのであるが、それが小説を味わい深いものにしていると言えるだろう。
 したがって市販の文庫等に見られるような、新聞の連載回を表示しない本文では、新聞小説としての漱石の魅力は何割か減殺されてしまう。かろうじてそれが許されるのは、新聞小説処女作たる『虞美人草』だけであろうか。とくに『三四郎』『それから』『門』の3部作は、もし回数別けされていない編集になっているのであれば、ただちに版を改めるべきであろう。その効果は通読しただけですぐ分かるはずである。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 10

306.『草枕』あぶない小説(1)――始めて描かれたヒロイン


 『草枕』の最大の特長は那美さんというヒロインの造形であろう。ヒロインとしては金田富子、マドンナに次いで3番目の登場であるが、前2者はほとんどセリフがない。那美さんが始めて生きて自分の意思でしゃべるヒロインとなった。

「始めて」という言い方には疑義があるかも知れない。『猫』には三毛子、苦沙弥の細君、雪江さんも登場する。短篇では『琴のそら音』の宇野露子、『趣味の遺伝』の小野田の令嬢、『一夜』の涼しき眼の女もいる。
 しかし三毛子は所詮三毛猫であるし、雪江さんは女学生、苦沙弥の細君は20代であるが3人の子供のいる、どう考えても一般家庭の母である。露子さんや寂光院も、3言以上はしゃべっていない。
 その意味で那美さんのプロトタイプは、(『草枕』の1年前に書かれた)『一夜』の女であろうか。この女も寡黙ではない。『一夜』の女はどんな女か。

①男2人を前にして、ふつうの若い女のように恥ずかしがることがない。
②怖がることもない。
③玄人みたいなところがある。

 図々しいまでに落ち着いている、というのは長野二郎によるお直の評であるが(『塵労』6回)、漱石の女には皆通ずるところがある。那美さんはその典型にして元祖であろう。

 そしてこれが一番特徴的かも知れないが、

④文芸に趣味がある。

 ということが(『一夜』の女と)那美さんの存在を独自なものにしていると言える。
 漱石は小説を書き始めた頃は、女性が詩や小説を読むことを忌避しなかった。『草枕』と『虞美人草』がその双璧であるが、『猫』でも女性は新体詩を捧げられたり付け文を貰う存在であるとされていた。
 ターニングポイントは『三四郎』と『それから』であろうか。美禰子は煤煙事件がきっかけに生れたにせよ、小説の中でも多分に才女的に描かれている。へたをするとコントの1つくらい書きかねない勢いである。しかし『それから』以降漱石は女に読書を禁じた。まるで長女(筆子)の成長に合わせるかのように、文芸に興味を持つ女性を作品から放逐した。
 しかしそんなことにあまり影響を受けなかったのが、漱石文学の女の描かれ方である。美禰子までのヒロインと三千代以降のヒロインに本質的変化は見られない。そこが漱石の公正たる所以であるが、言い方を変えると、那美さんの文芸趣味は那美さんの魅力を、増やしも減らしもしなかったということか。

 もう1つ挙げれば、

⑤あぶなっかしいまでに乱暴なところがある。

 というところであろうか。『一夜』の女も詳しくは書かれないものの、十分に乱暴なところはあるようだ。那美さん以降のヒロインも、⑤については全員が該当しよう。漱石の女で乱暴なところのない女はいない。皆思い切りがよくて度胸がある。崖があったらすぐ飛び込みそうである。例外があるとすれば、『虞美人草』の井上孤堂の1人娘小夜子くらいだろう。しかし小夜子にしても(父親に従ってではあるが)はるばる関西から未知の地東京へやって来ており、いざとなれば芯の勁さを見せるのかも知れない。とは言え前述したように、『虞美人草』はとうに漱石の書棚から消えていた(勿論象徴的な意味においてであるが)。
 あぶない女のチャンピオンは那美さんであろうが、『草枕』における那美さんのもう1つのユニークな特長として、少し論旨の毛色は異なるが、

⑥小説に登場するたび、その登場の仕方がいちいち芝居がかっている。

 というのがある。

「あの女は家のなかで、常住芝居をしている。しかも芝居をしているとは気がつかん。自然天然に芝居をしている」(『草枕』12章)

 小説の中でそのたびに印象的な登場の仕方をするのは、やはり『三四郎』(美禰子)にそのまま受け継がれ、『それから』の三千代にその片鱗を残しつつ、『門』以降ではせいぜい初登場シーンくらいに抑制されるようになった。しかし女の登場シーンに力が入るのは漱石の伝統といえよう。漱石といえども、どうしても意識(緊張)してしまうのかも知れない。

 それで那美さんの登場シーンであるが、『草枕』では全部で13回に分けて描かれる。

1回 初登場は宿へ着いた最初の夜。1時10分。庭かその先の渡り廊下で歌を歌っていた。(3章)
2回 さらに深更。床で半分夢の中にいると、部屋に侵入してきた。押入れから小袖か何かを取り出したようだ。(3章)
3回 朝。風呂場に行って5分間の入浴。濡れたまま風呂場の戸を開けると、「御早う。昨夕はよく寝られましたか」待ち構えていたように着物をさっと肩にかけてくれた。(3章)
4回 昼前。遅い朝食。膳を引く下女が襖を開けると、中庭を隔てた向こう2階の欄干に頬杖をついて下を見ていた。(4章)
5回 改めて正式なご挨拶。「御退屈だろうと思って、御茶を入れに来ました」青磁の皿に盛られた青い練羊羹。(4章)
6回 座敷で詩作にふけっていると、向こう2階の椽側を振袖姿で歩いている。黙ったまま何度も往復しているようである。何をしているのか。(6章)
7回 湯泉に浸かっていると突然風呂場に入って来た。有名な全裸の浴場シーン。最後に高い笑い声。気が狂っているのか。(7章)
8回 座敷で個人レッスン。西洋の小説を読み聞かせる。地震。非人情の世界。この章全体が画工と那美さんの記念すべき章となった。(9章)
9回 鏡が池でイーゼルを立てて写生をしていると、高い岩の上に立っているのが見える。ひらりと身をひねった。びっくりしたが、岩の向う側へ着地したようだ。(10章)
10回 写生に出かけようと襖を開けると、向こう2階に白鞘の短刀を持って佇んでいる。何だか危ない。(12章)
11回 村を出て山へ写生に行く。路で那美さんと野武士が向き合っている。那美さんの懐には短刀が。しかし那美さんは男に金を渡す。(12章)
12回 男と別れた那美さんに見つかった。野武士は那美さんの亭主であった。食い詰めて満洲へ渡るという。帰りしな那美さんは、出征する従兄弟の久一に短刀を渡す。短刀は餞別であった。(12章)
13回 鉄道駅に久一を見送る。「死んで御出で」列車の最後尾に野武士の顔が。「それだ!それだ!それが出れば画になりますよ」(13章)

 全13章のうち那美さんの登場しない章も5つある。残り8章で13回。そもそも各回の登場シーンばかりでなく、那美さんはその一挙手一投足が芝居がかっているとされているのである。有り体に言うと尋常な女ではないということだ。村人の中には狂人扱いする者さえある。しかし主人公と作者だけが、かろうじて露骨にはその断を下してはいない。モデルたる前田某女が怒りまくったという話を聞かないのは、そのためだろうか。
 そうではなく、これは作品をちゃんと読んでいなかっただけと思われるが、もう縁者も誰もこの世にはおるまいから、これ以上揉める心配はないのであるが、当時よく問題にならなかったと感心させられる。
「触れなば落ちん」というふうに書かれることは、これは仕方ないことかも知れない。男の側のせいでもある。しかし明らかに精神状態に問題があるように書かれたのでは、(しかも代々の血筋がそうであるように書かれたのでは、)モデルにされた女性とその係累はたまったものではあるまい。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 9

305.『草枕』幻の最終作品(3)――もうひとつの『明暗』と『迷路』


 漱石の手帳(メモ)を再度引用する。

〇二人して一人の女を思う。一人は消極、sad, noble, shy, religious, 一人は active, social. 後者遂に女を得。前者女を得られて急に淋しさを強く感ずる。居たたまれなくなる。life の meaning を疑う。遂に女を口説く。女(実は其人をひそかに愛している事を発見して戦慄しながら)時期後れたるを諭す。男聴かず。生活の真の意義を論ず。女は姦通か。自殺か。男を排斥するかの三方法を有つ。女自殺すると仮定す。男惘然として自殺せんとして能わず。僧になる。又還俗す。或所で彼女の夫と会す。(岩波書店漱石全集第20巻『日記・断片下』大正5年断片71B末尾再掲)

 この最後の「彼女の夫との出逢い」こそが、作品のもう1つのテーマと言うべきか。
 運命とも偶然ともつかぬ、例えば大いなる自然の姿に首(こうべ)を垂れるような、大地の懐に抱かれるようなしみじみとした感慨。あるいは何代かを経て安息の地に帰るような、すべてはあらかじめ用意されていたような、また例えば死に行く際に人が感じるかも知れない、奇妙な既視感・臨場感、そしてある種の納得感。
 こういうことであったのか。主人公は思い出の地、あるいは草に枕する旅の地で、運命の定めに恐懼しながらも、旧友と会うことによって却って、なつかしさ・やすらぎを覚える。恩讐は互いにもうとっくに消え去っている。主人公は一炊の夢たる己の生も含め、すべてをそのままに受け入れることに喜びさえ感じる。人も景色も、過去の女の死すら、すべてのものを了解するのである。善悪も正邪もない世界。これを則天去私と言わずして何と言おうか。

 そして作品のタイトルとしては、(『道草』『明暗』に続くのであるから)平易な漢字2文字になるのは想定できるとして、とりあえずはMの音で始まる『迷路』あたりが候補になろうか。もちろん無理を承知で言うのであるが、野上弥生子といえば『明暗』の例もある。

明治39年4月 『坊っちゃん
明治39年8月 『猫』完結。
明治39年9月 『草枕
明治39年10月 『二百十日
明治39年12月 野上弥生子習作『明暗』執筆。
明治40年1月 『野分』
明治40年1月17日(木曜) 漱石野上弥生子宛に巻紙5メートルに及ぶ『明暗』の感想(批評)を述べた手紙を書く。子規以外に漱石からこんな長い私簡を貰った人はいない。
明治40年2月 野上弥生子処女作『縁』漱石の推挽により「ホトトギス」巻頭に掲載。
 ・ ・ ・
大正5年 『明暗』
昭和11年 野上弥生子『黒い行列』(『迷路』プロトタイプ)
昭和12年~31年 野上弥生子『迷路』
昭和60年 野上弥生子没。

 漱石野上弥生子宛書簡は、おそらく木曜会の折に、返却原稿と一緒に野上豊一郎に託されたものと思われる。仮に切手を貼って投函されたものだとすると、野上弥生子の性格上、また当時の婦人(や文人)の習慣からしても、封筒を保存していないということは考えられないからである。
 野上弥生子の習作『明暗』から漱石『明暗』までが10ヶ年。漱石『明暗』(漱石没年)から野上弥生子『黒い行列』までがその倍の20年。これだけの期間があれば野上弥生子も『迷路』以外に『迷路』にふさわしいタイトルを思いつくのではないか。(『夜明け前S10』『暗夜行路S12』『細雪S23』に匹敵するような。)
 野上弥生子の『迷路』執筆期間がやはり20年。『迷路』完結から没年(百歳)までが30年。それから今日まで既に37年を数える。歳月のスケールだけはとても漱石の比ではない。

 ところで漱石の小説のタイトルというのは、3部作ごとに一定の取り決めが存在するもののようである。青春3部作においては、『三四郎』という題は当然ながら独自であるが、『それから』『門』は一般にもよく使われる、漱石を離れれば普通の文字・言葉である。次の中期3部作では『彼岸過迄』『心』がやはり言葉としてありふれており、『行人』だけがユニークな趣きをもつ。晩期3部作はすでに『道草』『明暗』というシンプルでなじみやすい言葉が使用されており、『迷路』に匹敵する、あるいは『迷路』に代わる候補は他にないだろうか。
 主張のない言葉、これ見よがしでない単語でかつ詩にもなりうる言葉。それでいて漱石だけが付け得るような独自の響きを有つ小説の題名。仮にそれを、いくつもない漱石漢詩文の中から探ってそのヒントとするなら、ここで論者の提案する候補は、『横雲』であろうか。
 雲は漱石の好きな字であり、どのような場面にも使える便利な言葉である。そこから『夏雲』『行雲』『巻雲』なども思いつく――。

「春の夜の夢の浮橋とだえして嶺にわかるる横雲の空」(定家)

 まあ漱石は(子規同様)新古今など意に介さないだろうが、それはまた別の話である。

幻の最終作品目録
一 初恋の人との出会いと別れ
二 未練そして再会
三 最初で最後の告白
四 驚き同時に喜ぶ女
五 始めて自分の力で勝ち取った至福
六 運命による復讐と女の死
七 贖罪の日
八 友との邂逅と最後の会話
九 救いと復活(があるかないか)

 前の項で述べた9つの交響曲ではないが、まるで9つの楽章を持つオラトリオのように奏されるであろう漱石最後の作品を以って「則天去私3部作」は完成される(はずであった)、というのが論者の考えである。


漱石「最後の挨拶」草枕篇 8

304.『草枕』幻の最終作品(2)――主人公は芸術家


 『三四郎』以降の新聞小説を3部作のセットとして捉え、そのため『道草』『明暗』に続く「幻の最終作品」が構想されていた筈である、というのが前著(『明暗』に向かって)の主張の1つである。さてその幻の最終作品であるが、漱石の最晩年に使っていた手帳にこんな記述がある。

〇二人して一人の女を思う。一人は消極、sad, noble, shy, religious, 一人は active, social. 後者遂に女を得。前者女を得られて急に淋しさを強く感ずる。居たたまれなくなる。① life の meaning を疑う。②遂に女を口説く。女(実は其人をひそかに愛している事を発見して戦慄しながら)時期後れたるを諭す。男聴かず。生活の真の意義を論ず。女は姦通か。自殺か。男を排斥するかの三方法を有つ。③女自殺すると仮定す。男惘然として自殺せんとして能わず。④僧になる。又還俗す。⑤或所で彼女の夫と会す。(岩波書店漱石全集第20巻『日記・断片下』大正5年断片71B末尾)

 これが自作(次作)の構想であるという保証はないが、則天去私3部作の最終作に関するメモであると仮想しておかしくはない。その根拠は3つ。

 作品のテーマとして臆面もなく未練を追求していること。(①に代表されるメモ全文)

 未練の追求は晩期3部作(『道草』『明暗』『(本作)』)の共通テーマでもある。これまで社会的体面を気にして露骨には示さなかった漱石であるが、もう自分の人生が晩年に差し掛かっている自覚はある。自分の寿命は自分では決められない。これが則天去私の悟りである。漱石の主人公は(作者の手綱を離れて)自分の信ずるままに行動する。
 この場合の未練の対象は、『道草』では養子に出された自身の幼少期における存在意義、と漱石ファンなら考えるであろうが、作品が(明にせよ暗にせよに)直接語っているのは「金」である。『明暗』では「結婚」という社会儀式になる。いずれも対象物自体はある種興醒めなアイテムでもあろう。最終作品における未練の相手も、「女」と言ってしまえばそれまでであるが、「愛」と言っても「初恋」と言っても要は同じことであろう。もちろん漱石の主目的は対象そのものにあるわけではない。

 漱石作品最初で最後のプロポーズが企図されていること。(②)

 シチュエーションは『それから』に似ていないこともない。先に代助は三千代にプロポーズしているではないかと言われそうである。しかし『それから』と決定的に異なるのは、女が自分の意志で(ライヴァルの)男を撰んでいることと、主人公が最初から女を愛していたことである。
「僕の存在には貴女が必要だ」というのは、厳密に言うとプロポーズの言葉ではない。( I love you. ではない。)
「仕方がない、覚悟を決めましょう」というのも許諾の言葉ではない(三千代は love you, too と言っているのではない、と思う)。
 代助も三千代も自分の意思というよりは、漱石の拵えた運命に従っただけという気がする。ひろく言えば始めから則天去私であるが、「私」を(登場人物でなく)作者漱石と解すれば、『それから』は則天去「私」ではない。
 結論だけ言えば、この最終作はいわば『三四郎』『それから』『門』の3部作を「綜合」して「進化」させたような作品になるのではないか。

 『心』に次いで当事者の死が描かれること。(③)

 そもそも漱石作品に人の死はつきものである。死神が登場しない作は皆無である。それが『明暗』の主人公の根強い死亡説に繋がっているが、もしかすると『明暗』が最初で最後の、人の死なない作品になるのかも知れない。現行の小説では、清子の流産と、もう1つ(看護婦が薬を間違えたために患者が死んだとかで)、その看護婦を殴らせろと迫った男の一口話が紹介されているのみである。
 『明暗』の話は置くとしても、中期3部作の最終作『心』で、始めての犠牲者が出た。Kと先生である。晩期3部作の最終作では、漱石作品で始めてヒロインの犠牲者が出ることになる。「始めて」という言葉は『虞美人草』藤尾の手前ふさわしくないかも知れないが、少なくともこの「9階建」においては始めてのことになる。藤尾は邪心の女神である。藤尾は最初から作者が鉄槌を下すべく登場させている。最終作品の女の自死(退場)は、懊悩の果ての自然の選択である。もしかするとそのシーンは、『心』の先生のように、直接には描かれないかも知れない。

 そしてもう1つ探求すべきは主人公の「職業」であろうか。

三四郎』小川三四郎(文科大学生)・野々宮宗八(理学者)
『それから』長井代助(高等遊民
『門』野中宗助(小官吏)

彼岸過迄』田川敬太郎(就職口を探す学士)・須永市蔵(同左もしくは高等遊民予備軍)
『行人』長野二郎(なりたての設計技師)・長野一郎(大学教師)
『心』先生(高等遊民)・私(大学生もしくは学士)

『道草』健三(大学教師/文学者)
『明暗』津田由雄(会社員)

 この流れからいくと、幻の最終作品の主人公は、大学生、高等遊民の可能性は残しながらも、勤め人ではない・・と推測される。なぜならそれは、『門』・『行人』・『明暗』でそれぞれ「使用済」であるから――。
 他の3部作も見てみると、

『猫』苦沙弥(中学英語教師/元高等学校教師か)・寒月(理学者)・迷亭(美学者)
坊っちゃん坊っちゃん(中学数学教師/鉄道技手)
草枕』余(画工)

『琴のそら音』津田真方(心理学者)・余(出仕したての法学士)
『趣味の遺伝』河上浩一(戦死した歩兵中尉)・余(文学者)
二百十日』圭さん・碌さん(不明だが五高教師か)。

『野分』白井道也(中学教師/文学者)・高柳周作(貧しい文学士)
虞美人草』小野清三(文学者)・甲野欽吾(高等遊民
『坑夫』自分(坑夫見習)

 特筆すべきは『草枕』であろうか。主人公に芸術家(職業作家・画家・音楽家)を配した小説は『草枕』を措いて他にない。職業で食えるか食えないかは別として、主人公の(無名の)画工は実質高等遊民文人であり、半分漱石である。つまり他の主人公と変わるところはないと言えなくもないが、それでも文学者(多くは大学に奉職)を標榜する他の多くの主人公と一線を劃すものではある。
 そして当然ながら漱石の主人公の職業といっても、医者や株式仲買人であるべくもないのだから、結局は上に挙げた範疇に収まると見ていい。それで幻の最終作品の主人公の職業については、『草枕』(あるいは『一夜』)のような若い芸術家を、つい考えてしまうが、漱石は最後の最後にずばり小説家(創作家)を持って来るのではないか。④のいったん僧籍に入るということからしても、やはり思想・文章の道を志す者という気がする。少なくとも(教師等の)定職に就く者ではなかろうという気がする。

 それで最後の⑤(或所で彼女の夫と会す)であるが、この運命論的な収束方法については、次回改めて述べてみよう。


漱石「最後の挨拶」草枕篇 7

303.『草枕』幻の最終作品(1)――3部作の秘密


 さて本ブログは、

 青春3部作(『三四郎M41』『それからM42』『門M43』)
 中期3部作(『彼岸過迄M45』『行人T2』『心T3』)

 を順に取扱ったあと、最後の作品群に移る前に、『坊っちゃん』『草枕』(おそらく『野分』も)という初期作品に寄り道したくなったのであるが、これらはすべて、『明暗』の未完成部分の追求のためのものである。
 それ以外に漱石作品を論ずる意味合いはない(論者にとっては)。そしてそれは、より大きな枠組みとして、

 晩期3部作(『道草T4』『明暗T5』『〇〇――T6またはT7』)

 の存在を前提とすることによって、より目標に近づく(かも知れない)というのが論者の基本的な考え方である。

 建築家を志望した時期もあったという漱石は、自分の書いた小説を、(自分の子供にも見立てていたが、)建築物のように考えていたフシがある。つまりの青春3部作が1階~3階部分にあたるとすれば、次のが4階~6階、そして最後の3部作が7階~9階というわけである。漱石は晩く小説家になった代りに、自分の到達点もまた早くから見据えていたのではないか。
 そして漱石の3部作は、この3フロアずつに区切られた建物のように、3部作ごとの使用目的(建築目的)のようなものが想定されていたように思われる。例えば1階~3階が店舗、4階~6階が事務所、7階~9階が住宅というように。
 漱石は3部作ごとに一定の創作方針を設けていたのではないか。

 は言うまでもなくプロポーズし損ねて一旦は逃げられた女を後日強引に奪ったとして、その後の運命や如何にという3題噺のような連作である。
 は複雑だが先の項でこの3部作の諱をいくつか挙げている。曰く「短編形式3部作」「善行3部作」「不思議3部作」「括弧書3部作」「自画自讃3部作」「謀略3部作」「一人称3部作」「鎌倉3部作」「ヒロイン途中退場3部作」
 この諱の多い3部作のハイライトは、(『心』における)先生とKの死であろう。漱石の9階建の建物に男の死がここだけ(6階部分)であることは請け合ってよい。
 そしてはとりあえず「則天去私3部作」という呼び名が参考になるだろう。

 頂上は9階部分である。漱石の究極の目的は9階フロア(論者の謂う幻の最終作品『〇〇』)の完成であったと言える。この9階建てのビルから、ベートーヴェンシューベルトドヴォルザーク、あるいはブルックナーマーラー交響曲に想いをはせることは許されるだろう。ちなみにグスタフマーラーは自身の9番目の交響曲に「Symphonie」という名をよう付けなかった。( Erde のこと)。

 もちろん建物は9階建てに限らない。

①処女3部作(『猫M37』『坊っちゃんM39』『草枕M39』)
②初期短篇3部作(『琴のそら音M38』『趣味の遺伝M38』『二百十日M39』)
③試作3部作あるいは失敗3部作(『野分M39』『虞美人草M40』『坑夫M41』)
④随筆3部作(『永日小品M42』『思い出す事などM43』『硝子戸の中T4』)
⑤紀行3部作(『満韓ところどころM42』『点頭録(未完)T5』『幻の最終エッセイ(おそらくT8もしくはT9)』

 ⑤は少し変則であるが、中絶した『点頭録』は、社会に対する自分の物の見方を、ヴィトゲンシュタインを彷彿させる宇宙観に基づいて披露したもので、完成すれば自己の思想紀行のようなものになった筈である。『明暗』完結後には続篇が書かれたのではないか。『点頭録』は漱石には珍しく時事問題も扱っているが、1年経過しても(否100年経っても)その哲学的批評遍歴は少しも陳腐化することがない。漱石は自信たっぷりに続きを書いたと推測される。
 そして幻の最終作品発表後、新聞小説の世界から足を洗おうとした漱石に対し、朝日が漱石(夫妻)に最後の国内旅行を押し付けて、その紀行的エッセイを求めることは大いにありうることである。誠実な漱石はそこに『明暗』から最終作品に至るまでの思考的道筋を、読者に分りやすく開示するのではないか。

 さらにこんなものまで、探せばある。

⑥講演3部作(『創作家の態度M41』『道楽と職業M44』『私の個人主義T3』)

 ここに作品名の挙がらなかったもののうち、『一夜』は前述のように『草枕』に、『文鳥』は『永日小品』に組み込んで可であろうが、『夢十夜』の始末に困る。先に『夢十夜』を『三四郎』との兼ね合いで考えるべきと述べたが、『夢十夜』は困ったシロモノである。(漱石も同意見であろう。)しかしここは、

⑦ファンタジィ3部作(『一夜M38』『文鳥M41』『夢十夜M41』)

 として3部作の組み換えを行なう考え方もある。

 『猫』は別格ではないかという意見もあろう。自分で言うのも何だが、我ながらそんな気もする。トスカニーニが(モーツァルトについて)、「ト短調交響曲)だけは別だよ。あれは単に器楽の合奏を超えた、1つの偉大な悲劇だ」( Mortimer.H.Franck による)と言ったように、『猫』だけは別物とする解釈には抗しがたい。『猫』は漱石の3部作の範疇を超えた作品である。否あらゆる国文学の伝統から逸脱した芸術品である。あえて『猫』をこの列に加えるなら、『猫』だけ独立させて、

◎『吾輩は猫である』3部作(『猫』上篇M37・『猫』中篇M38・『猫』下篇M39)

 とすべきであろうか。
 その場合は「処女3部作」は「明治39年3部作」とでも名前を変えて、『坊っちゃん』『草枕』『野分』とし、「試作3部作」は『二百十日』『虞美人草』『坑夫』、「初期短篇3部作」は「心霊現象3部作」という名前にして『琴のそら音』『趣味の遺伝』『夢十夜』とする。(そして繰り返すが『一夜』は『草枕』に、『文鳥』は『永日小品』の一部と見做して構わないのである。)

 いずれにせよ「9階建」が集合施設であることは間違いないのであるから、『猫』(あるいは『坊っちゃん』『草枕』)がそれらと独立した「戸建のマイホーム」なり「別荘」であるとする見方は不自然ではないだろう。(どちらが好きかは別にして)用途が違うというわけである。