明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 18

314.『草枕』目次(5)第3章(つづき)――女王は3回初登場する(実践篇)


第3章 夜おそく那古井の宿へ到着(全4回)(承前)

2回 歌う女
(P30-13/そこで眼が醒めた。腋の下から汗が出ている。妙に雅俗混淆な夢を見たものだと思った。昔し宋の大慧禅師と云う人は、悟道の後、何事も意の如くに出来ん事はないが、只夢の中では俗念が出て困ると、長い間これを苦にされたそうだが、成程尤もだ。)
誰か小声で歌をうたっている~長良の乙女の歌か~海堂を背に月影に浮かぶすらりとした女~深更那美さん初登場~芸術家と常人の違い

 そしていよいよ女王那美さんの登場。那美さんの「初登場」には、女王らしくご丁寧にも伏線というか露払いが3つ用意されてある。

A 那古井の嬢様についての噂話と、連想される長良の乙女の伝説を茶店の婆から聞く。(第2章)
B 給仕の女中に、「近頃は客がないので、ほかの座敷は掃除がしてないから、普段使っている部屋(那美さんの部屋だった)で我慢してくれ」と言われた。(第3章――論者の謂う第1回)
C 宿に人の気配がない。変な気持ちになる。こんなことがかつて1度あった。寝付くとすぐ長良の乙女の夢を見た。(同上)

 Aの那美さんの噂話はさらに3つの入れ子になっている。(いずれも第2章)
A-a 那古井の嬢様は花嫁姿で馬に乗って峠を越えた。
A-b 那古井の嬢様の現在の健康状態は困ったものである。
A-c 那古井の嬢様の花嫁姿は頼めば今でも着て見せてくれるだろう。

 ここまで勿体を付けられた登場人物は他にいない。まさに破格の取扱いであるが、これは『草枕』に『一夜』が覆い被さっているがゆえの破格であるというのが論者の意見である。
 那美さんはこの回では歌声と影法師だけの紹介である。しかし画工は早くも影法師の主がこの宿の嬢様かと疑う。小説はいきなり核心を衝くのである。短篇ゆえの直截か。それとも『草枕』はその短兵急ゆえに漱石の長く愛する作品とはならなかったのか。

 怖いものも只怖いもの其儘の姿と見れば詩になる。凄い事も、己れを離れて、只単独に凄いのだと思えば画になる。失恋が芸術の題目となるのも全くその通りである。失恋の苦しみを忘れて、其やさしい所やら、同情の宿る所やら、憂のこもる所やら、一歩進めて云えば失恋の苦しみ其物の溢るる所やらを、単に客観的に眼前に思い浮べるから文学美術の材料になる。世には有りもせぬ失恋を製造して、自から強いて煩悶して、愉快を貪ぼるものがある。常人は之を評して愚だと云う、気違だと云う。然し自から不幸の輪廓を描いて好んで其中に起臥するのは、自から烏有の山水を刻画して壺中の天地に歓喜すると、その芸術的の立脚地を得たる点に於て全く等しいと云わねばならぬ。この点に於て世上幾多の芸術家は(日常の人としてはいざ知らず)芸術家として常人よりも愚である、気違である。われわれは草鞋旅行をする間、朝から晩迄苦しい、苦しいと不平を鳴らしつづけて居るが、人に向って曾遊を説く時分には、不平らしい様子は少しも見せぬ。面白かった事、愉快であった事は無論、昔の不平をさえ得意に喋々して、したり顔である。これは敢て自ら欺くの、人を偽わるのと云う了見ではない。旅行をする間は常人の心持ちで、曾遊を語るときは既に詩人の態度にあるから、こんな矛盾が起る。して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう

 これは幻の最終作品に通じる記述でもあり、『一夜』から『草枕』への架け橋にもなる話である。単に画工の芸術論と見てしまえば、興味は半減する。

3回 侵入者
(P34-9/余が今見た影法師も、只それ限りの現象とすれば、誰れが見ても、誰に聞かしても饒に詩趣を帯びて居る。――孤村の温泉、――春宵の花影、――月前の低誦、――朧夜の姿――どれも是も芸術家の好題目である。此好題目が眼前にありながら、余は入らざる詮義立てをして、余計な探ぐりを投げ込んで居る。)
余計な詮議は非人情の妨げ~詩人になる簡便法とは~入口の唐紙から女の影が~深夜の侵入者

 海棠の露をふるふや物狂い
 正一位女に化けて朧月

 画工もまた地元の人に負けず那古井の嬢様をまともに扱っていないような句を詠む。歌声と影法師だけでここまで感化されるものだろうか。よほど露払いが効いたのか。加えて那美さん2度目の登場シーンがそれを後押しする。おそらく部屋に入って来た女を画工が襲っても、女は声さえ立てまい。しかしそれでは島崎藤村のような自然主義の小説になってしまう。(藤村の名を出すことが不適当であれば川上宗薫でもよい。)しかし周知のように次回(第4回)の3度目の登場シーンを見ても、女は恥ずかしがることなく素裸の画工に正対し、それから後ろへ廻り込んで着る物を着せかけるのである。

4回 不意討ち
(P38-8/浴衣の儘、風呂場へ下りて、五分ばかり偶然と湯壺のなかで顔を浮かして居た。洗う気にも、出る気にもならない。第一昨夕はどうしてあんな心持ちになったのだろう。昼と夜を界にこう天地が、でんぐり返るのは妙だ。)
ゆっくりめの朝風呂~風呂場の戸口での遭遇~那美さんの初セリフ~見たことのない表情~画にしたら美しかろう~不仕合せな女に違いない

 それだから軽侮の裏に、何となく人に縋りたい景色が見える。人を馬鹿にした様子の底に慎み深い分別がほのめいている。才に任せ、気を負えば百人の男子を物の数とも思わぬ勢の下から温和しい情けが吾知らず湧いて出る。どうしても表情に一致がない。悟りと迷が一軒の家に喧嘩をしながらも同居している体だ。此女の顔に統一の感じのないのは、心に統一のない証拠で、心に統一がないのは、此女の世界に統一がなかったのだろう。不幸に圧しつけられながら、其不幸に打ち勝とうとして居る顔だ。不仕合な女に違ない。

 精神的に不安定な女を不仕合せに違いないと断言する。これが漱石の健全な倫理性である。ここで(興味本位に)女の精神世界に迷い込むようでは、その作品に百年の命は宿るまい。漱石は基本的に女の悩みや精神構造に関心はないのである。あくまでも自分に即して、自分の人生・運命、あるいは美意識に直接働きかけて来る、女(女体)そのものに関心があったのである。これが作中女性の神の如き造形・描写につながり、また身勝手・冷酷と評される遠因ともなる。