明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 26

282.『坊っちゃん』1日1回(4)――赤シャツも漱石も宿直免除


第4章 宿直事件 (全3回)
(明治38年9月25日月曜~9月26日火曜)

1回 宿直が無暗に出てあるくなんて不都合じゃないか
(9月25日月曜)
(P280-3/学校には宿直があって、職員が代る代る之をつとめる。但し狸と赤シャツは例外である。何で此両人が当然の義務を免かれるのかと聞いて見たら、奏任待遇だからと云う。面白くもない。月給は沢山とる、時間は少ない、夫で宿直を逃がれるなんて不公平があるものか。勝手な規則をこしらえて、それが当り前だと云う様な顔をしている。よくまああんなに図迂図迂しく出来るものだ。これに就ては大分不平であるが、山嵐の説によると、いくら一人で不平を並べたって通るものじゃないそうだ。一人だって二人だって正しい事なら通りそうなものだ。)
 ・ ・ ・ 
(「些とも不都合なもんか、出てあるかない方が不都合だ」と威張って見せた。「君のずぼらにも困るな、校長か教頭に出逢うと面倒だぜ」と山嵐に似合わない事を云うから「校長にはたった今逢った。暑い時には散歩でもしないと宿直も骨でしょうと校長が、おれの散歩をほめたよ」と云って、面倒臭いから、さっさと学校へ帰って来た。)

宿直当番の夕~汽車で温泉へ行く~なるべくゆっくり時間を潰す~停車場で狸と会う~横丁で山嵐と会う

 一体疳性だから夜具蒲団抔は自分のものへ楽に寝ないと寝た様な心持ちがしない。小供の時から、友達のうちへ泊った事は殆どない位だ。友達のうちでさえ厭なら学校の宿直は猶更厭だ。

 『三四郎』冒頭の汽車の女同宿事件へ直結する話である。しかし坊っちゃんならそれを通すことも出来ようが、三四郎は野々宮宗八の宿所に泊まったりもした。思うに三四郎の言う他人の蒲団というのは、人が寝ている蒲団に一緒に寝るのが鬱陶しくて厭だということであろう。人が気になってしようがないので、何でもひとりの方がいいというわけである。睡眠の話に限らない。これを他人を気遣う優しさと見るか、自分のことばかり考える身勝手と見るかは、見る人による。

2回 そりゃイナゴぞなもし
(9月25日月曜)
(P282-11/夫から日はすぐくれる。くれてから二時間許りは小使を宿直部屋へ呼んで話をしたが、夫も飽きたから、寝られない迄も床へ這入ろうと思って、寝巻に着換えて、蚊帳を捲くって、赤い毛布を跳ねのけて、頓と尻持を突いて、仰向けになった。おれが寝るときに頓と尻持をつくのは小供の時からの癖だ。わるい癖だと云って小川町の下宿に居た時分、二階下に居た法律学校の書生が苦情を持ち込んだ事がある。)
 ・ ・ ・ 
(今迄まではあんなに世話になって別段難有いとも思わなかったが、こうして、一人で遠国へ来て見ると、始めてあの親切がわかる。越後の笹飴が食いたければ、わざわざ越後迄買いに行って食わしてやっても、食わせる丈の価値は充分ある。清はおれの事を欲がなくって、真直な気性だと云って、ほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。何だか清に逢いたくなった。)

バッタ事件~詰問~イナゴのせいにして白を切る生徒~清の有難味がよく分かる

 おれが寝るときに頓と尻持をつくのは小供の時からの癖だ。わるい癖だと云って小川町の下宿に居た時分、二階下に居た法律学校の書生が苦情を持ち込んだ事がある。法律の書生なんてものは弱い癖に、やに口が達者なもので、愚な事を長たらしく述べ立てるから、寝る時にどんどん音がするのはおれの尻がわるいのじゃない下宿の建築が粗末なんだ。掛け合うなら下宿へ掛け合えと凹ましてやった。

 これは漱石の悪い癖である。自分は悪くないと主張するのはいいが、これでは人はついて来ない。こんな理屈が通るなら警察も裁判所もいらないわけである。生徒が自分の悪行をバッタのせいにするのと同じである。漱石はわざと書いているのであろうが、実生活でもそういうところがなくはない(飼い犬が人を咬んだ事件等)。漱石と(鷗外とも)論争するものではないとは以前述べたことがある。

「馬鹿あ云え。バッタが一人で御這入りになるなんて――バッタに御這入りになられてたまるもんか。――さあなぜこんないたずらをしたか云え

 生徒が悪いのは明白であるし坊っちゃんの怒るのも尤もであるが、こんな言い方では謝罪のしようもない。これは『猫』の泥棒事件のコミカルな夫婦の会話を思い出す。

 主人は筆硯を座敷の真中へ持ち出して、細君を前に呼びつけ「是から盗難告訴をかくから、盗られたものを一々云え。さあ云え」と恰も喧嘩でもする様な口調で云う。
「あら厭だ、さあ云えだなんて、そんな権柄ずくで誰が云うもんですか」と細帯を巻き付けた儘どっかと腰を据える。(『猫』第5篇)

 『猫』のこのくだりが書かれたのも、泥棒事件の実話のあったのも、同じ明治38年のことである。1年くらい前のことであるから漱石も忘れてはいない。分かって『坊っちゃん』を書いているのである。苦沙弥先生には細君という防波堤があったが、坊っちゃんには誰もいない。自然坊っちゃんは内省的にならざるを得ない。その分怒りは増す。『猫』の方は全き喜劇であろう。(論者は落語家が『猫』のこのくだりを高座でそのまま語っているのを耳にしたことがある。)

3回 世の中に正直が勝たないで外に勝つものがあるか
(9月25日月曜~9月26日火曜)
(P287-10/清の事を考えながら、のつそつして居ると、突然おれの頭の上で、数で云ったら三四十人もあろうか、二階が落っこちる程どん、どん、どんと拍子を取って床板を踏みならす音がした。すると足音に比例した大きな鬨の声が起った。おれは何事が持ち上がったのかと驚ろいて飛び起きた。飛び起きる途端に、ははあさっきの意趣返しに生徒があばれるのだなと気がついた。手前のわるい事は悪るかったと言って仕舞わないうちは罪は消えないもんだ。わるい事は、手前達に覚があるだろう。本来なら寝てから後悔してあしたの朝でもあやまりに来るのが本筋だ。)
 ・ ・ ・ 
(校長は何と思ったものか、暫くおれの顔を見詰めて居たが、然し顔が大分はれて居ますよと注意した。成程何だか少々重たい気がする。其上べた一面痒い。蚊が余っ程刺したに相違ない。おれは顔中ぼりぼり掻きながら、顔はいくら膨れたって、口は慥かにきけますから、授業には差し支えませんと答えた。校長は笑いながら、大分元気ですねと賞めた。実を云うと賞めたんじゃあるまい、ひやかしたんだろう。)

咄喊事件~夢ではない~2階へ突撃~罠で向う脛を負傷~籠城覚悟~つい寝てしまう~詰問Ⅱ~校長登場~蚊に食われ顔中腫れる

 ただのドタバタ喜劇に終わらないのが『坊っちゃん』であるが、この第3章の宿直事件も校長まで登場して、単なる子供のいたずらでは済まなくなってしまった。そこで坊っちゃんの被害調書が必要になってくる。

①バッタ事件。(第4章2回)
②咄喊事件。(第4章3回)
③障害物の仕掛けで向う脛を負傷出血。(第4章3回)
④監視のための籠城による睡眠不足。(第4章3回)
⑤蚊に食われて顔中腫れ上がる。(第4章3回)

 坊っちゃんだけが一方的な被害者にも見えるが、坊っちゃんサイドに瑕疵・失敗はないのか。

①宿直なのに汽車に乗って温泉へ行った。なるべくゆっくり1時間以上過ごしもした。(第4章1回)
②寝るときトンと尻餅をつく癖。宿直室は1階なので心置きなくトンとやった。(第4章2回)
③「なもした何だ。菜飯は田楽の時より外に食うもんじゃない」駄洒落の啖呵を切る。(第4章2回)
④「さあ言え」権柄ずくの詰問。(第4章2回)
⑤蚊を追い出すため蚊帳ごと振るったら、蚊帳の環で手の甲をいやというほど撲った。(第4章2回)
⑥寝呆ける癖がある。子供の頃のダイヤモンドを拾った夢。家中の笑い者になる。(第4章3回)
⑦度胸はあるが知恵が足りない。臨機応変に対処できない。融通が利かない。(第4章3回)
⑧「旗本の元は清和源氏で多田の満仲の後裔だ。こんな土百姓とは生れからして違う」(第4章3回)
⑨徹夜で見張るつもりがつい寝てしまった。(第4章3回)
⑩授業のため生徒を放免した校長に対し、自分なら全員放校処分にすると怒った。(第4章3回)

 このバランス感覚が坊っちゃんの怒りをさらに増幅し、滑稽なものにしている。読者の主人公に対する親しみもまた同じように増してゆくのである。
 ちなみに坊っちゃんがこの宿直事件で出血したり顔が腫れ上がったりするのは、言うまでもなく後日もっと大きな事件として反芻されることになる。漱石は伏線を張ったというよりは、何度も書くように、後段で丁寧に裏を返したと言うべきであろう。

 余談だが『坊っちゃん』の映像化(舞台化)にあたっては、この反復のユーモアという常道はきちんと踏襲されるべきである。宿直事件のケガと祝勝会余興事件のケガが相互に関連付けられて始めて滑稽味を生む。ケガの部位なり絆創膏のメーカーやデザイン・大きさなり、観客に想像(連想)させて笑わせることが大切である。野だもしかり。送別会とラストの天誅事件、野だは坊っちゃんたちに2度暴行を受けている。例えば人が骨折してもおかしくも何ともないが、同じ箇所をもう一度骨折させると、そこには悲劇を超えた喜劇が生まれることがあるのである。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 25

281.『坊っちゃん』1日1回(3)――記念すべき最初の松山弁


第3章 教室 (全3回)
(明治38年9月7日木曜~9月24日日曜)

1回 まちっとゆるゆる遣っておくれんかなもし
(9月7日木曜)
(P270-13/愈学校へ出た。初めて教場へ這入って高い所へ乗った時は、何だか変だった。講釈をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思った。生徒は八釜しい。時々図抜けた大きな声で先生と云う。先生には答えた。今迄物理学校で毎日先生先生と呼びつけて居たが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥の差だ。何だか足の裏がむずむずする。おれは卑怯な人間ではない、臆病な男でもないが、惜しい事に胆力が欠けて居る。先生と大きな声をされると、腹の減った時に丸の内で午砲を聞いた様な気がする。)
 ・ ・ ・ 
(実はゆうべ茶を買ってくれと頼んで置いたのだが、こんな苦い濃い茶はいやだ。一杯飲むと胃に答える様な気がする。今度からもっと苦くないのを買ってくれと云ったら、かしこまりましたと又一杯しぼって飲んだ。人の茶だと思って無暗に飲む奴だ。主人が引き下がってから、あしたの下読をしてすぐ寝て仕舞った。)

最初の授業~あまり早くて分からんけれ~出来ん出来ん~お茶を淹れに来る宿の主人

最初の1時限
 控所へ帰って来たら、山嵐がどうだいと聞いた。うんと単簡に返事をしたら山嵐は安心したらしかった。

 山嵐坊っちゃんも無駄口を叩かない。しかし物語が佳境に入ると、そうでもないことが分かる。会津山嵐はなかなか雄弁家である。江戸っ子坊っちゃんはべらんめいである。無口な小説家というのは言語の矛盾である。小説家は基本的におしゃべりである(川端康成といえども、あるいは大西巨人といえども)。おしゃべりだから小説を書くのである。

2時限目
 箆棒め、先生だって、出来ないのは当り前だ。出来ないのを出来ないと云うのに不思議があるもんか。そんなものが出来る位なら四十円でこんな田舎へくるもんかと控所へ帰って来た。今度はどうだと又山嵐が聞いた。うんと云ったが、うん丈では気が済まなかったから、此学校の生徒は分らずやだなと云ってやった。山嵐妙な顔をして居た

「妙な顔をする」「変な顔をする」というのは漱石のよく使う言い回しである。相手の言うことが理解できない、「?」という意味に過ぎないのであるが、その人物の心の中に踏み込んで書くわけにも行かず、といって漱石の性格から、相手の反応を書かないわけにも行かない。
 顔の表情だけではない。この回にはいか銀のこんな記述もある。

 おれはそんな呑気な隠居のやる様な事は嫌だと云ったら、亭主はへへへへと笑いながら、いえ始めから好きなものは、どなたも御座いませんが、一反此道に這入ると中々出られませんと一人で茶を注いで妙な手付をして飲んで居る。

 ここまで読んで来た第1章と第2章にも、この書き方は目立っている。

 余り気の毒だから「行く事は行くがじき帰る。来年の夏休みには屹度帰る」と慰めてやった。夫でも妙な顔をして居るから「何を見やげに買って来てやろう、何が欲しい」と聞いてみたら「越後の笹飴が食べたい」と云った。(第1章5回)

 門口へ立ったなり中学校を教えろと云ったら、中学校は是から汽車で二里許り行かなくっちゃいけないと聞いて、猶上がるのがいやになった。おれは、筒っぽうを着た男から、おれの革鞄を二つ引きたくって、のそのそあるき出した。宿屋のものは変な顔をして居た。(第2章1回)

 飯を済ましてからにしようと思って居たが、癪に障ったから、中途で五円札を一枚出して、あとで是を帳場へ持って行けと云ったら、下女は変な顔をして居た。夫から飯を済ましてすぐ学校へ出懸けた。(第2章1回)

 ここで先の小説の記述を引用するのは気が引けるが、『坊っちゃん』全体ではいくつもないので、ついでに挙げてみる。

 然し逃げられても何ですね。浮と睨めくらをしている連中よりはましですね。丁度歯どめがなくっちゃ自転車へ乗れないのと同程度ですからねと野だは妙な事ばかり喋舌る。よっぽど撲りつけてやろうかと思った。(第5章2回)

 あんまり腹が立ったから「マドンナに逢うのも精神的娯楽ですか」と聞いてやった。すると今度は誰も笑わない。妙な顔をして互に眼と眼を見合せている。赤シャツ自身は苦しそうに下を向いた。(第6章5回)

 漱石以外の作家ならたいてい省略するか、あるいは別の種類の描写を試みるところであろう。漱石は自分の喋ったことが相手にどう伝わるか気になるのである。気にするのは作者自身や主人公に限らない。

「道理で妾が話したら変な顔をしていましたよ。貴方もよくないじゃありませんか。平生あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは」(『心/先生と遺書』47回)

 奥さんはKの心の中を知るべくもないのであるから、下手な想像をして自滅するよりは、この書き方が「正しい」わけである。これほどまでに気を遣う漱石にして、時として作中人物に憑依することがあるのはどうしたわけであろう。本ブログ三四郎篇でも述べた美禰子についての、「三四郎は自分の方を見ていない。」という記述を、読者は困惑を以って受け止めざるを得ない。漱石はわざと書いているのだろうか。《本ブログ三四郎篇4.幽体離脱の秘儀(1)三四郎は自分の方を見ていない――欄外にリンク》

2回 おい天麩羅を持って来い
(9月8日金曜~9月14日木曜)
(P274-5/それから毎日毎日学校へ出ては規則通り働く、毎日毎日帰って来ると主人が御茶を入れましょうと出てくる。一週間許りしたら学校の様子も一と通りは飲み込めたし、宿の夫婦の人物も大概は分った。ほかの教師に聞いて見ると辞令を受けて一週間から一ヶ月位の間は自分の評番がいいだろうか、悪るいだろうか非常に気に掛かるそうであるが、おれは一向そんな感じはなかった。教場で折々しくじると其時丈はやな心持だが三十分許り立つと奇麗に消えて仕舞う。おれは何事によらず長く心配しようと思っても心配が出来ない男だ。)
 ・ ・ ・ 
(おい天麩羅を持ってこいと大きな声を出した。すると此時迄隅の方に三人かたまって、何かつるつる、ちゆちゆ食ってた連中が、ひとしくおれの方を見た。部屋が暗いので、一寸気がつかなかったが顔を合せると、みんな学校の生徒である。先方で挨拶をしたから、おれも挨拶をした。其晩は久し振に蕎麦を食ったので、旨かったから天麩羅を四杯平げた。)

骨董責め~其うち学校もいやになった~散歩中に蕎麦屋を見つけた~天麩羅蕎麦4杯

 いか銀の骨董責め3連発。3発目で坊っちゃんは、「此男は馬鹿に相違ない」と引導を渡している。

印材。まとめて3円なら安い買い物。
②ナントカ崋山。15円。
③端渓。30円。

「其うち学校もいやになった」の独立性については前述したが、要するに学校が嫌になったのと、大町を散歩したこと・蕎麦屋を見つけたこと・好物の天麩羅蕎麦を食ったことは直接関係ないと、漱石は釈明したかったわけである。

3回 住田温泉には遊郭も公園も団子屋もある
(9月15日金曜~9月24日日曜)
(P276-13/翌日何の気もなく教場へ這入ると、黒板一杯位な大きな字で、天麩羅先生とかいてある。おれの顔を見てみんなわあと笑った。おれは馬鹿馬鹿しいから、天麩羅を食っちゃ可笑しいかと聞いた。すると生徒の一人が、然し四杯は過ぎるぞな、もし、と云った。四杯食おうが五杯食おうがおれの銭でおれが食うのに文句があるもんかと、さっさと講義を済まして控所へ帰って来た。十分立って次の教場へ出ると一つ天麩羅四杯也。但し笑う可らず。と黒板にかいてある。さっきは別に腹も立たなかったが今度は癪に障った。)
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(泳ぐのは断念したが、学校へ出て見ると、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるには驚ろいた。何だか生徒全体がおれ一人を探偵して居る様に思われた。くさくさした。生徒が何を云ったって、やろうと思った事をやめる様なおれではないが、何でこんな狭苦しい鼻の先がつかえる様な所へ来たのかと思うと情なくなった。それでうちへ帰ると相変らず骨董責である。)

天麩羅先生~天麩羅四杯但不可笑~天麩羅を食うと減らず口が~遊郭の団子~赤手拭~湯の中で泳ぐべからず

 田舎者は此呼吸が分からないから、どこ迄押して行っても構わないと云う了見だろう。一時間あるくと見物する町もない様な狭い都に住んで、外に何にも芸がないから、天麩羅事件を日露戦争のように触れちらかすんだろう。憐れな奴等だ。小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねっこびた、植木鉢の楓見た様な小人が出来るんだ。無邪気なら一所に笑ってもいいが、こりゃなんだ。小供の癖に乙に毒気を持ってる。

 天麩羅蕎麦で早くも坊っちゃんは本気で怒っている。辞めてもう東京へ帰ってもいいと確信したかのようである。坊っちゃんの怒りはホットである。とても10年前の昔話をしているようには見えない。(リアルタイムの)日露戦争が飛び出して不思議でない。ところが別の章で、やはりリアルタイムで家族や清のことを語っている筈の箇所(決して昔話をしているのではない箇所)では、坊っちゃんは怒りを忘れて10年前を懐かしむような様子を見せる。いったいどちらが本当の「坊っちゃん」であるか。
 ところでこの楓の鉢植えは後年、『明暗』で吉川夫人が津田の入院見舞いに持参したことがあった。してみると吉川夫人も津田も、ひねこびた了見の狭い田舎者として造型されたのではないか。『明暗』の結末に救済の道が闢かれることはないのではないか。

 それはともかく、住田の温泉は十五畳敷の大きさで、ここで早くも山城屋で坊っちゃんが2日目に通された大座敷(十五畳敷)の裏が返されるとは先の項で述べたところ。あらゆるパーツが使い捨てられることなく、互いに共振し合うようにその存在を主張する。音楽的な書き方というのであろうか、絵画的な書き方というのであろうか、モチーフや旋律が繰り返されて、その都度新鮮である。だから(絵や音楽のように)読んで飽きないのである。

漱石「最後の挨拶」三四郎篇 4 - 明石吟平の漱石ブログ

三四郎幽体離脱の秘儀(1)―― 三四郎は自分の方を見ていない

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 24

280.『坊っちゃん』1日1回(2)――芋が剥き出しになっている


第2章 到着 (全3回)
(明治38年9月4日月曜~9月5日火曜)

1回 松山初日に清の夢を見た
(9月4日月曜~9月5日火曜)
(P261-6/ぶうと云って汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。尤も此熱さでは着物はきられまい。日が強いので水がやに光る。見詰めて居ても眼がくらむ。事務員に聞いて見るとおれは此所へ降りるのだそうだ。見た所では大森位な漁村だ。人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。威勢よく一番に飛び込んだ。続づいて五六人は乗ったろう。外に大きな箱を四つ許り積み込んで赤ふんは岸へ漕ぎ戻して来た。)
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(失敬な奴だ。顔のなかを御祭りでも通りゃしまいし。是でも此下女の面より余っ程上等だ。飯を済ましてからにしようと思っていたが、癪に障ったから、中途で五円札を一枚出して、あとで是を帳場へ持って行けと云ったら、下女は変な顔をして居た。夫から飯を済ましてすぐ学校へ出懸た。靴は磨いてなかった。)

港屋で中学校の行き方を尋く~山城屋~港の鼻たれ小僧や宿の客引きや女中にも馬鹿にされる~階段下の部屋で1泊目

 坊っちゃんが上がりそうになって上がらなかった「港屋」は、ターナー島の章でちらと参照されたあと、最終章で山嵐の臨時のベースキャンプとして蘇ることになる。坊っちゃんが実際に泊まった宿は、勘太郎の家と同じ「山城屋」であった。思うに漱石は『坊っちゃん』を短篇小説と位置付けていたので、読者の記憶力にも頼むところがあったのであろう。同じ名前、言い回しが登場することの視覚的(聴覚的)効果を期待していたと思われる。
 前述したが屋号だけでなく、例えばこの回に登場する様々なアイテムは、他の章にも書かれて互いに参照・共鳴し合って、独特のリズムを生む基となっている。

①マッチ箱のような所謂坊っちゃん列車――第7章マドンナ登場へ。
②中学校の宿直教員――第4章宿直事件へ。
③清が笹飴を食う夢を見た――第1章の清の越後の笹飴は、第4章バッタ事件でも触れられた。
④田舎者と見くびられたズックの革鞄(第1章見送りのとき清が歯ブラシ等を入れてくれた)――小説の大尾にもちゃんと書かれた。
⑤下女が顔を見てにやにや笑うので江戸前の啖呵を切った――第11章教員仲間に顔を見られて笑われたとき同じような啖呵を切った。

 『明暗』の頃の漱石は自作の展開を芋掘りに譬えたが、『坊っちゃん』ではその芋は地中に埋められているというよりは、畠(原稿紙というフィールド)の上へそのまま並べられていると言っていい。漱石は愉しみながらそれを収穫しているようでさえある。

2回 教員控所で1人ずつ辞令を見せた
(9月5日火曜)
(P264-4/学校は昨日車で乗りつけたから、大概の見当は分って居る。四つ角を二三度曲がったらすぐ門の前へ出た。門から玄関迄は御影石で敷きつめてある。きのう此敷石の上を車でがらがらと通った時は、無暗に仰山な音がするので少し弱った。途中から小倉の制服を着た生徒に沢山逢ったが、みんな此門を這入って行く。中にはおれより背が高くって強そうなのが居る。あんな奴を教えるのかと思ったら何だか気味が悪るくなった。名刺を出したら校長室へ通した。校長は薄髯のある、色の黒い、目の大きな狸のような男である。)
 ・ ・ ・ 
(画学の教師は全く芸人風だ。べらべらした透綾の羽織を着て、扇子をぱちつかせて、御国はどちらでげす、え?東京?夫りゃ嬉しい、御仲間が出来て……私もこれで江戸っ子ですと云った。こんなのが江戸っ子なら江戸には生れたくないもんだと心中に考えた。其ほか一人一人に就てこんな事を書けばいくらでもある。然し際限がないからやめる。)

校長にいきなり辞令返上~全員に渾名を付けて遣った~狸・赤シャツ・うらなり・山嵐・漢学の爺さん・野だいこ

 漢学の爺さんだけ渾名が付けられなかったのは、江戸の人漱石による中国への遠慮であろうか。徳川期の人にとって明朝(大明国)は親会社みたいなものであるから(藤三娘とまでは言わないにせよ、荻生徂徠も物徂徠と中華風に署名していた)、たとえ李杜韓白や王陽明に私淑していなくても、昔の中国の文字を教える先生に、結句そこから派生したであろう言葉による渾名を付けるのは、漱石といえども憚られたのであろう。その漱石にして「日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろう」と暴言を吐かしめているのは、(酒席であることを考慮しても)漱石もまた明治の人であったということか。(ちゃんちゃんという「蔑称」は清朝を指し明治期に始まったとされるようだが、それよりもっと以前、例えば秀吉の対明出兵の頃には既に使われていたのではないか。)
 それを気にしたのか坊っちゃんの渾名ツアーのラストは、野だに対する、「こんなのが江戸っ子なら江戸には生まれたくないもんだと心中に考えた」で締め括られた。つまり中国・漢学に対する遠慮を、丸ごと(江戸ごと)吹き飛ばそうとしたのである。

3回 早速清へ手紙を書く
(9月5日火曜)
(P268-1/挨拶が一通り済んだら、校長が今日はもう引き取ってもいい、尤も授業上の事は数学の主任と打ち合せをして置いて、明後日から課業を始めてくれと云った。数学の主任は誰かと聞いて見たら例の山嵐であった。忌々しい、こいつの下に働くのかおやおやと失望した。山嵐は「おい君どこに宿ってるか、山城屋か、うん、今に行って相談する」と云い残して白墨を持って教場へ出て行った。主任の癖に向から来て相談するなんて不見識な男だ。然し呼び付けるよりは感心だ。)
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(ヰッチだって人の女房だから構わない。とうとう明日から引き移る事にした。帰りに山嵐は通町で氷水を一杯奢った。学校で逢った時はやに横風な失敬な奴だと思ったが、こんなに色々世話をしてくれる所を見ると、わるい男でもなさそうだ。只おれと同じ様にせっかちで肝癪持らしい。あとで聞いたら此男が一番生徒に人望があるのだそうだ。)

授業は明後日から~階段下の部屋から大座敷へ~清への手紙~山嵐の急襲~いか銀へ宿替え~女房はウィッチに似ている

 この部屋かいと大きな声がするので眼が覚めたら、山嵐が這入って来た。最前は失敬、君の受持ちは……と人が起き上がるや否や談判を開かれたので大に狼狽した。

 坊っちゃんの部屋を訪れた山嵐は、(『それから』の)代助の家を急襲した平岡を彷彿させる。山嵐と平岡の共通点は世間話をしないということだろうか。坊っちゃんの書き振りに似て無駄話を一切しない。書生流と言ってしまえば身も蓋もないが、代助も坊っちゃん山嵐みたいに、平岡と心を通じ合う友だったこともある。その代助が平岡とまったく別世界の人間として小説の中で描かれているのは、坊っちゃん山嵐と絶交するという先例に倣ったのだろう。人は裏切り得るのである。

 幸いにも山嵐の来る前に坊っちゃんは、茶代を5円はずんだおかげで15畳敷の広い座敷に移っていた。その(生まれて始めての)快適な座敷で坊っちゃんは清に「150字」の手紙を書く。早速清が笹飴を笹ごと食う夢を見たと、「笹飴」を再登場させている。学校の職員仲間に全員渾名を付けてやった、と余計なことまで書く。この埋められた芋たちはこれから先どこで掘り返されるのか。というより無造作に置かれた芋は、どこで拾われるのだろうか。
 清からは第7章で返事が来る。禁欲的にも手紙はこの2通だけである。『坊っちゃん』のボリュームからこれが精一杯と漱石は判断したのだろう。漱石作品に手紙は付き物である。長篇短篇合わせて手紙の登場しない小説は皆無と言ってよい。(『二百十日』と『坑夫』がそれに該当するかも知れないが、それは度外視して、)唯一の例外とおぼしきは『草枕』であるが、全体が絵手紙とも言える『草枕』の中から敢えて探せば、画工が写生帖に書き連ねた発句に、那美さんがこっそりいたずらで付け句をしている。これは変則的なラヴレターであろうか。

 ストイックなのは手紙だけでなかった。『坊っちゃん』という小説の長さ(短かさ)が何よりもまずストイックである。安物の松屋製(24✕24)全150枚。先にも引用した虚子宛書簡、

「新作小説存外長いものになり、事件が段々発展只今百〇九枚の所です。もう山を二つ三つ書けば千秋楽になります。趣味の遺伝で時間がなくて急ぎすぎたから今度はゆるゆるやる積です。もしうまく自然に大尾に至れば名作、然らずんば失敗、ここが肝心の急所ですからしばらく待って頂戴。」(明治39年3月23日付高浜虚子宛書簡)

 これは物語のエンディングのまとめ方を言っているのではなく、小説のボリュームのことを言っているのではないか。現在109枚である。これが「150枚」にまとまれば成功、でなければ失敗。先の項で漱石が15に異様にこだわるように見える書き方をしたが、坊っちゃんの「150文字」の手紙を(概要でなく)わざわざ全文、小説に記したということは、漱石は慥かにカウントしたのではないか。漱石はある信念を以って真面目にそれを数えていた。縁起を「担いだ」わけでない。鏡子夫人が貼り付けた(伸六だかの)虫下しのお札を、怒って塵芥箱に叩き込んだのも、漱石にはそういう信念があって、それで本気に怒ったのだと思われる。自分の細君がたわいもない迷信に頼ったからといって、ふつう夫はそこまで腹を立てない。漱石には漱石の信じる「宗派」が(そのときだけ)あったのである。

 とまれやって来た山嵐に紹介されて、坊っちゃんはいか銀の下宿へ移ることになる。前述したが、帰りに奢られた「氷水(1銭5厘)」という語が、(その場限りのものでなく)今後幾度となく繰り返されるのを、ほとんどの読者はもう知っていることだろう。
 そのいか銀では主人が出しゃばるが女房はウィッチに似ているとしか描かれない。坊っちゃんが次に引き移った萩野の下宿はその反対で、謡を唸る隠居老人の主人は引っ込んで婆さんの独り舞台である。前述したがこの婆さんはシェイクスピア劇に出て来る魔女的な役目を帯びていて、観客に作者の舞台設定を「解説」してくれる。思うに漱石は倫敦の下宿での体験をそのまま書くわけにはいかないので、いか銀(外見)と萩野(実質)、2人の下宿屋の女房に魔女役を振り分けたのであろう。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 23

279.『坊っちゃん』1日1回(1)――勘太郎ふたたび


 恒例により『坊っちゃん』に目次を付けてみる。幸いにも『坊っちゃん』は11に章分けされている。これは『三四郎』13、『それから』17、『門』23に比べてどうか。1章あたりのページ数という観点から、バランス的には『門』がもっとも近いようであるが、『門』は新聞連載では全104回である。してみると『坊っちゃん』を新聞連載すると50回くらいになるのだろうか。
 本ブログでも再三引き合いに出している、『坊っちゃん』と似たような分量の3作品、『彼岸過迄/須永の話+松本の話』全47回、『行人/塵労』全52回、『心/先生と遺書』全56回と比べてみても、『坊っちゃん』50回というのは妥当と言えるが、実際には『坊っちゃん』は一気呵成に書かれたから、後年の諸作品の書き振りが参考になるか、疑問ではある。まずは『坊っちゃん』を始めから読んで行くしかない。
 回数分けは無論仮定であるが、その箇所の参考として附したページ表記は、定本漱石全集(第2巻)のページと行番号である。目安として該当行の書出しと、回の末尾を数行ずつ付け加えた。言うまでもないが章や回のタイトル・カレンダーは、あくまでガイドのつもりで勝手に付けてある。

第1章 坊っちゃん (全5回)
(明治16年~明治38年/明治38年8月31日木曜~9月2日土曜)

1回 親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る
(明治16年1歳~明治28年13歳)
(P249-5/親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出して居たら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、此次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。)
 ・ ・ ・ 
(太い孟宗の節を抜いて、深く埋めた中から水が湧き出て、そこいらの稲に水がかかる仕掛であった。其時分はどんな仕掛か知らぬから、石や棒ちぎれをぎうぎう井戸の中へ挿し込んで、水が出なくなったのを見届けて、うちへ帰って飯を食って居たら、古川が真赤になって怒鳴り込んで来た。慥か罰金を出して済んだ様である。)

飛降事件~刃傷事件~勘太郎事件~人参畠事件~井戸埋立事件

 さて先にもくだくだしく述べた勘太郎退治事件であるが、実はこの事件にはもうひとつの解がある。勘太郎が一方的に悪いのではないという、坊っちゃんにとっては芳しくない展開であるが、漱石にとっては他のいたずら事件と整合性が取れるということで、あながち等閑視できない見方である。

 庭を東へ二十歩に行き尽すと、南上がりに①聊か許りの菜園があって、真中に栗の木が一本立って居る。是は命より大事な栗だ。実の熟する時分は起き抜けに背戸を出て落ちた奴を拾ってきて、学校で食う。菜園の西側が山城屋と云う質屋の庭続きで、此質屋に勘太郎という十三四の倅が居た。勘太郎は無論弱虫である。弱虫の癖に四つ目垣を乗りこえて、②栗を盗みにくる。・・・山城屋の地面は菜園より六尺がた低い。勘太郎は四つ目垣を半分崩して、自分の領分へ真逆様に落ちて、ぐうと云った。

 この①でいう「菜園」が、坊っちゃんの家の菜園であるとはどこにも書いてない。もちろん山城屋の持ち物でもない。菜園の西側は、書かれてある通り坊っちゃんの家の庭であろうが、それに接して南側はずっと菜園まで山城屋の土地である。勘太郎は自分の敷地(だけ)を歩いて、南側から崖と四つ目垣をよじ登って第三者所有の菜園に侵入した。菜園の中に立つ栗の木は、坊っちゃんが大切にしている宝物であるから、勘太郎は②のように盗人扱いされるが、もともと誰のものでもない。勘太郎坊っちゃんに退治される謂われはないのである。これだと母親が山城屋に詫びに行ったのもよく理解できるだろう。

2回 こいつはどうせ碌なものにはならない
(明治29年14歳~明治30年15歳)
(P251-6/おやじは些ともおれを可愛がって呉れなかった。母は兄許り贔屓にして居た。此兄はやに色が白くって、芝居の真似をして女形になるのが好きだった。おれを見る度にこいつはどうせ碌なものにはならないと、おやじが云った。乱暴で乱暴で行く先が案じられると母が云った。成程碌なものにはならない。御覧の通りの始末である。行く先が案じられたのも無理はない。只懲役に行かないで生きて居る許りである。)
 ・ ・ ・ 
(清がこんな事を云う度におれは御世辞は嫌いだと答えるのが常であった。すると婆さんは夫だから好い御気性ですと云っては、嬉しそうにおれの顔を眺めて居る。自分の力でおれを製造して誇ってる様に見える。少々気味がわるかった。)

家族の誰からも愛されない~母の死に目に会えず~下女清の登場~勘当事件(飛車投擲事件)~清だけが可愛がってくれる

 漱石の不幸の始まりは、前述した実家と養家の2種類の親であったが、坊っちゃんは幸いにも親は1組しかいなかった。しかし両親から相手にされないのでは、いないのと同じである。否もっとたちが悪いかもしれない。清はそれを察知して坊っちゃんを可愛がったが、それは結局金之助が養家に不必要に甘やかされ、実家からは居候のように扱われたことと同じ不幸である。
 坊っちゃんには『道草』で謂う島田夫婦の代りに清がいた。それで帝大ではなく物理学校へ行った。坊っちゃん漱石の違いはそれだけである。それが何を意味するかは俄かには断じがたいが、坊っちゃんもまた極端に偏った愛情によって2方向に引き裂かれたことだけは慥かである。これを悲劇と言わずして何を悲劇と言おうか。

3回 母が死んでから清は愈おれを可愛がった
(明治31年16歳~明治34年19歳)
(P253-7/母が死んでから清は愈おれを可愛がった。時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思った。つまらない、廃せばいいのにと思った。気の毒だと思った。夫でも清は可愛がる。折々は自分の小遣で金鍔や紅梅焼を買ってくれる。寒い夜などはひそかに蕎麦粉を仕入れて置いて、いつの間にか寝て居る枕元へ蕎麦湯を持って来てくれる。時には鍋焼饂飩さえ買ってくれた。只食い物許りではない。靴足袋ももらった、鉛筆も貰った。帳面も貰った。是はずっと後の事であるが金を三円許り借してくれた事さえある。)
 ・ ・ ・ 
(ほかの小供も一概にこんなものだろうと思っていた。只清が何かにつけて、あなたは御可哀想だ、不仕合だと無暗に云うものだから、それじゃ可哀想で不仕合せなんだろうと思った。其外に苦になる事は少しもなかった。只おやじが小使を呉れないには閉口した。)

父と兄と男だけの味気ない生活~清の同情と異様な溺愛~3円借金事件

 おれは何が嫌だと云って人に隠れて自分丈得をする程嫌な事はない。兄とは無論仲がよくないけれども、兄に隠して清から菓子や色鉛筆を貰いたくはない。なぜ、おれ一人に呉れて、兄さんには遣らないのかと清に聞く事がある。すると清は澄したもので御兄様は御父様が買って御上げなさるから構いませんと云う。是は不公平である。おやじは頑固だけれども、そんな依怙贔負はせぬ男だ。然し清の眼から見るとそう見えるのだろう。全く愛に溺れて居たに違ない。元は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。

 坊っちゃんは間違いは糺す性分である。清の主張は正しくない。父は依怙贔屓しない(父は跡取りの長男と余計者の次男を正当に区別したに過ぎない)と、他ならぬ坊っちゃんが断言している。では清のくれた諸々の小間物は兄と折半すべきであろう。しかし坊っちゃんは清の愛情のせいにする。そしてその愛情のそもそもの由来は、坊っちゃんの存在にあるのではなく、清の教育のなさにあるというのである。

 ある時抔は清にどんなものになるだろうと聞いて見た事がある。所が清にも別段の考もなかった様だ。只手車へ乗って、立派な玄関のある家をこしらえるに相違ないと云った。

 これはなかなか抒情的なシーンであるが、同時に坊っちゃん漱石)の哀しい記憶でもある。家というものの中に家族のイメジがない。人がいない。ただ玄関があるだけである。坊っちゃんにとって家とは何か。清の意見に紛らせているが、坊っちゃんの頭の中にある家には、肝心の家族がいないのである。これでは立派な玄関があろうがなかろうが、何の役にも立たないではないか。ちょうど漱石の生家の玄関が何のおまじないにもならなかったように。

4回 六百円の使用法に就て寝ながら考えた
(明治35年20歳)
(P256-4/母が死んでから六年目の正月におやじも卒中で亡くなった。其年の四月におれはある私立の中学校を卒業する。六月に兄は商業学校を卒業した。兄は何とか会社の九州の支店に口があって行かなければならん。おれは東京でまだ学問をしなければならない。兄は家を売って財産を片付けて任地へ出立すると云い出した。おれはどうでもするが宜かろうと返事をした。どうせ兄の厄介になる気はない。世話をしてくれるにした所で、喧嘩をするから向でも何とか云い出すに極って居る。)
 ・ ・ ・ 
(どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理学校の前を通り掛ったら生徒募集の広告が出て居たから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続をして仕舞った。今考えると是も親譲りの無鉄砲から起った失策だ。)

父の死~財産整理~兄に600円貰う~清は50円貰う~兄との別れ~物理学校入学

 とはいえ坊っちゃんに母の死は相当こたえたようである。

母が死んでからは、おやじと兄と三人で暮して居た。(第1章2回)
母が死んでから清は愈おれを可愛がった。(第1章3回)
母が死んでから五六年の間は此状態で暮して居た。(第1章3回)

 文節の書出しに「母が死んでから」を繰り返しているが、この回の冒頭にも、さらにそれが繰り返される。つい勢いで書いてしまったのだろうが、珍しいことではある。

母が死んでから六年目の正月に⑤おやじも卒中で亡くなった(第1章4回)

 父の死は⑤の1行だけである。父親は頑固だが依怙贔屓しなかった。坊っちゃんも頑固であるが、父と母の(死の)扱いには格差を設けているようである。それより前項で気になった母の死亡時の坊っちゃんの年齢について、④に続く文章は、「其年の四月におれはある私立の中学校を卒業する。六月に兄は商業学校を卒業した。」である。母の死んだ年が14歳とすると、④にあるようにそれから6年目の、父の亡くなった正月は20歳。それから物理学校に3年、卒業して今23歳で松山に来ている。三四郎は物理学校でなく五高に3年行って、それから大学に入るときに宿帳に23年と書いている。「おれは清から三円借りている。其三円は五年経った今日までまだ返さない」(第6章)というのは18歳、中学4年のときのことである。母が亡くなって6年間、14歳から20歳まで(現代でいえば中学高校の6年間)、坊っちゃんは父から小遣いを貰えなかった。これがどんなに辛いことだったかは想像するに余りある。では坊っちゃんは(小説だから)14歳でいいとして、『硝子戸の中』の「13、4歳」はどう解釈すればいいのか。『硝子戸の中』は『道草』の頃に書いた随筆である。漱石はわざと間違えたのだろうか。それともそこには何か理由があるのだろうか。

 おれは六百円の使用法に就て寝ながら考えた。

 漱石は元来自然体を旨とし、文章に技巧を凝らす作家(芥川龍之介のように)ではない。しかしこの自然に出て来るような、味のある言い回しを技巧と捉えれば、とてつもない技巧派と言えよう。「寝ながら考えた」の「寝ながら」を取り除いて読んでみると分かる。もちろん他のどんな言葉にも置き換わらない。1つの言葉がそれに続く10行の記述に効果を及ぼし続ける。ふつうの作家が書くと、わざとらしくなってしまうことが多い言い回しであるが、前後の文章とのつながりもあり、真似しようとして簡単に出来るものでもない。

 六百円を三に割って一年に二百円宛使えば三年間は勉強が出来る。三年間一生懸命にやれば何か出来る。夫から⑥どこの学校へ這入ろうと考えたが、⑦学問は生来どれもこれも好きでない。ことに⑧語学とか文学とか云うものは真平御免だ。⑨新体詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない

 坊っちゃんは物理学校(たぶん数学科)に入るのだから、漱石坊っちゃんを自分と正反対の途を歩ませたと思われがちだが、坊っちゃんの学業に対する姿勢・考え方は漱石そっくりである。
 学校を頻繁に替える(⑥)。目的がはっきりしない(⑦)。二松学舎に学んだこともあるが、漱石は漢文国文には嵌り込まなかった。文学にしても英語にしても、そこに自己の目指すべきゴールを見つけたとは言えまい。事実漱石は、真平御免と思いながら英文学の講義を続けていたのだし(⑧)、新体詩の価値を認めていなかったこともまた否定できない(⑨)。坊っちゃんにかこつけて、漱石は自分の嗜好をちゃっかり主張している。坊っちゃん漱石の歩んだ通りを「寝ながら」主張している。

5回 もう御別れになるかも知れません
(明治35年20歳~明治38年23歳/明治38年8月31日木曜~9月2日土曜)
(P258-11/三年間まあ人並みに勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。然し不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業して仕舞った。自分でも可笑しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業して置いた。卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何の用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師が入る。月給は四十円だが、行ってはどうだと云う相談である。)
 ・ ・ ・ 
(愈約束が極まって、もう立つと云う三日前に清を尋ねたら、北向きの三畳に風邪を引いて寝て居た。おれの来たのを見て、起き直るが早いか、坊っちゃん何時家を御持ちなさいますと聞いた。卒業さえすれば金が自然とポッケットの中に湧いて来ると思って居る。そんなにえらい人をつらまえて、まだ坊っちゃんと呼ぶのは愈馬鹿気て居る。おれは単簡に当分うちは持たない。田舎へ行くんだと云ったら、非常に失望した容子で、胡麻塩の鬢の乱れをしきりに撫でた。余り気の毒だから「行く事は行くがじき帰る。来年の夏休みには屹度帰る」と慰めてやった。夫でも妙な顔をして居るから「何か見やげを買って来てやろう、何が欲しい」と聞いて見たら「越後の笹飴が食べたい」と云った。越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角が違う。「おれの行く田舎には笹飴はなさそうだ」と云って聞かしたら「そんなら、どっちの見当です」と聞き返した。「西の方だよ」と云うと「箱根のさきですか手前ですか」と問う。随分持てあました。出立の日には朝から来て、色々世話をやいた。来る途中小間物屋で買って来た歯磨と楊子と手拭をズックの革鞄に入れて呉れた。そんな者は入らないと云っても中々承知しない。車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの顔を昵と見て「もう御別れになるかも知れません。随分御機嫌よう」と小さな声で云った。目に涙が一杯たまって居る。おれは泣かなかった。然しもう少しで泣く所であった。汽車が余っ程動き出してから、もう大丈夫だろうと思って、窓から首を出して、振り向いたら、矢っ張り立って居た。何だか大変小さく見えた。)

卒業~校長の呼び出し~中学校教師の口~清との別れ

 この回(全40行くらい)もすべて、先の「寝ながら考えた」が霞んでしまうくらいの見事な文章である。おそらく『坊っちゃん』の第1章の終わりの20行くらいが、文章としてはこの小説の白眉であろう(そのためガイドの引用行を特別に増やしてある)。この第1章最終回の、前半の20行くらいが3年間の話である。後半の(白眉の)20行は3日間である。それが限りなく自然に融け合って、大人も子供も腑に落ちる。それでいて小説全体の、一部分としての機能もちゃんと果たしている。永遠の名作たる所以である。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 22

278.『坊っちゃん』怒りの日々(5)――カレンダーは破綻するのか


 漱石に日曜日という語の出て来ない小説は無いと言えるが、その例外の代表格たる『草枕』は、全体が課業休暇中(春休み)のような小説である。
 ところが『坊っちゃん』でも、主人公が中学校教師をしているのでつい見過ごしがちであるが、曜日についての記述は一切ない。坊っちゃんは休日なしで働いていたかのようである。
 これは(意図しないにせよ)漱石の皮肉でもあろう。坊っちゃんは休むにはあまりにも初心である。神はまだ(坊っちゃんの)世界を建築途中である。休みたいならいっそ辞めてしまえ、という乱暴さは漱石の中に常にある。

 小説のカレンダーや曜日におかしなところのあるのは、『三四郎』以来の漱石の常套であるが、では曜日の一切書かれない『坊っちゃん』のカレンダーは、破綻を免れているのか。ここで改めておさらいしてみよう。検証すべき箇所はいくらもない。坊っちゃんが中学教師として暮らした2ヶ月あまりの期間のうちの、最初の1ヶ月について見てみる。
 まず到着の日であるが、学期(第2学期)はもう始まっていた。港に着くと艀の船頭は真っ裸に赤褌である。

尤も此熱さでは着物はきられまい

 坊っちゃんは山城屋で階段下の狭い部屋に通されたときも、

熱くって居られやしない

 と言っているから、到着の日が9月であればその初旬であることは疑いを容れない。

①1日目。午後、松山上陸。山城屋へ投宿。
中学校へ来たら、もう放課後で誰も居ない。宿直は一寸用達に出たと小使が教えた

②2日目。初出勤。挨拶。午後は清に手紙を書く。
学校は昨日車で乗りつけたから、大概の見当は分って居る
今日はもう引き取ってもいい、明後日から課業を始めてくれ」(狸)
此位の事なら、明後日は愚、明日から始めろと云ったって驚ろかない
今日見て、あす移って、あさってから学校へ行けばいい」(山嵐

③3日目。山城屋からいか銀へ移る。

④4日目。初授業。宿へ帰ると主人がお茶を淹れに来る。
あしたの下読をしてすぐ寝る」(以上第2章)

⑤5日目。(授業がある。したがってこの日も日曜でない。)

 上記のように最初の5日間は連続したウィークデイである。つまり1日目は常識的には月曜日、ぎりぎり火曜日であろう。
 坊っちゃんの課業が始まって、問題の宿直の順番も廻って来る。
早く顔を洗って、朝飯を食わないと時間に間に合わないから、早くしろ」(第4章)(狸)

⑥宿直(バッタ事件)の日は平日である。

⑦その翌日も授業がある。

 その宿直(バッタ事件)の同じ週か次の週くらいに職員会議があり、その前日はターナー島での沖釣りである。釣りは夕方までかかった。

早速伝授しましょう。御ひまなら、今日どうです」(第5章)

ターナー島の日は平日である。

⑨翌日の職員会議も平日である。(おそらく土曜日か)

 そしてバッタ事件の生徒処分案の職員会議で山嵐が、

⑩「未だ生徒に接せられてから二十日に満たぬ」(第6章)
 と言っている。赴任時の挨拶が15人という記述からも、坊っちゃんの宿直の順番が正しく廻って来たことが分かる。

 これらを勘案して明治38年のカレンダーにあてはめてみると、

9月4日月曜 到着。
9月5日火曜 挨拶。清に手紙。
9月6日水曜 いか銀へ引越。
9月7日木曜 初授業。
9月8日金曜 授業2日目。
 ・ ・ ・
9月24日日曜 秋季皇霊祭。
9月25日月曜 宿直(バッタ事件)。(9月7日から19日目。)
9月26日火曜 宿直明け(狸の仲裁)。
9月29日金曜 ターナー島。
9月30日土曜 職員会議。

 一応辻褄は合う。職員会議の日の朝、坊っちゃん山嵐に下宿を出てくれと言われて、その夜には萩野の家へ移っている。いか銀は9月末日で終了、萩野は10月1日(日曜)スタートで、こちらのタイミングも合っている。そして10月第1週、遅くとも10月上旬にまでには、お待ちかねの清の手紙が(符箋だらけで)届く。
 このカレンダーでは到着日を9月5日(火曜)に1日繰り下げることは可能であるが、上記①のようにその日学校は放課後であったから、1日繰り上げて9月3日(日曜)とすることは出来ない。

 では気になる明治28年説ではどうなるか。

9月2日火曜 到着。
9月3日水曜 挨拶。清に手紙。
9月4日木曜 いか銀へ引越。
9月5日金曜 初授業。
9月6日土曜 授業2日目。

 ここまでは大丈夫であるが、

9月22日月曜 宿直(バッタ事件)。(9月5日から18日目。)
9月23日火曜 宿直明け(狸の仲介)。
9月23日火曜 秋季皇霊祭

 秋季皇霊祭が邪魔をしてうまく行かない。ちなみに明治11年に始まった祭日としての秋季皇霊祭は、概ね9月23日としてよいが、漱石が『猫』を書く前後から9月24日(うるう年9月23日)にスライドしている。秋季皇霊祭だけでなく秋は神嘗祭(9月17日だったのが秋季皇霊祭との兼ね合いで10月17日に移動)、天長節もあり(11月3日から大正天皇誕生日8月31日へ、しかし夏休み中の祝日がなじまず、10月31日に「天長節祝日」という不思議な名目で実質11月3日の代替となる。11月3日が明治節として復活したのは漱石の死後、昭和になってからであった)、もともと暦や政府のやることに関心の薄かった漱石にとっては、(教師として休みは有難かったであろうが)小説の中で取り上げるようなアイテムではなかった。祝祭日は時代と共に移り変わるものでもあり、むしろ漱石の文学の方がそれを超えた寿命を保っていることから見ても、漱石の態度は正解であったと言わざるを得ないが、教師を辞めてからはいよいよ祝祭日は無視されるようになった。
 といって漱石は時事問題や御大葬も作品に取り入れているから、まったく関心がなかったわけでもなかろうが、要するにどうでもよかったのだと思われる。

 かくして坊っちゃんのカレンダーはめでたく明治38年で確定したかに見えるが、坊っちゃんが新橋で清と別れて、暑いさなか松山に着いたという記述からは、何となく明治28年の漱石の東京松山間の丸2日半の移動を想起させるものがある。

 出立の日には朝から来て、色々世話をやいた来る途中小間物屋で買って来た歯磨と楊子と手拭をズックの革鞄に入れて呉れた。そんな者は入らないと云っても中々承知しない。車を並べて停車場へ着いて、・・・(『坊っちゃん』第1章)

 坊っちゃんは店で買い物をした清を迎えて、それから一緒に新橋へ向かっている。坊っちゃんは早朝に新橋駅を発ったわけではなかった。
 それで港には暑い盛りに到着して、中学校へ行ったときには放課後で学校には誰もいなかったと書かれる。
 荒正人の『漱石文学年表』によると、漱石は明治28年4月7日(日曜)11時45分の汽車で新橋駅を出発している。おそらく当時の時刻表がそうなっていたのであろう。そして4月9日(火曜)午後2時に(狩野享吉宛葉書等にも書かれてあるように)松山市内に到着している。まさしくそのときに漱石坊っちゃん列車を降り立ったのである。

 漱石に復路はなかった(熊本へ直行した)。その代わり坊っちゃん(と山嵐)は明治38年11月、夕方6時の汽船で出航。翌早朝神戸から直通の急行列車に乗ってその日の夜のうちに東京の清の許へ飛び込んでいる。推定27時間。往路の50時間に比べると2倍近いスピードである。漱石は信長を田舎者扱いしたこともあったが、逃げ足の速さだけは信長に倣ったと言える。

 ところで『坊っちゃん』には(新橋駅のプラットフォームから50メートルまでしか)書かれなかった往路は後に、『三四郎』で坊っちゃんの代わりに三四郎(と汽車の女ならびに広田先生)によって、逆向きではあるが復元された。三四郎広島県内あたりのどこかで1泊したあと、山陽線から東海道線を乗り継いで名古屋でさらに1泊。翌日鈍行の汽車で夜になってから東京へ着いたと思われる。広島の旅館を出てから推定36時間。広島途中下車からカウントすると48時間。漱石都落ちした明治28年から10年以上経っていても、似たような時間はかかっている。
 それはともかく、坊っちゃんは2ヶ月あまりで往復とも経験したが、所要時間だけで見ると往路が明治28年、復路が明治38年である。これではまるで浦島太郎ではないか。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 21

277.『坊っちゃん』怒りの日々(4)――お金と数字のマジック


 愛と生そして死。書出しの1字たる「親」。漱石文学のキーワードはこれだけにとどまらない。
 金と女。漱石の小説は金と女の話であるといって過言でない。
 この世に女について書かれない小説は無いであろうが、同じような勢いで漱石の小説にお金の話が出て来ない小説は無いと断言出来る。深刻な金銭トラブルから単に物の値段まで、先に『坊っちゃん』には金の話が百ヶ所出てくると書いたが、金銭に淡白というイメジが強い坊っちゃんにしてこれである。漱石はなぜお金のことばかり書くのだろう。

 蓄財に興味があったとはとても思えないし、実業家を単なる金銭の奴隷と見て軽蔑していたのも事実だろう。金に困った経験には事欠かなかったとはいえ、(緑雨と違って)ちゃんと帝大を出ており、父親あるいは祖父の代まで、(大したものではないにせよ)ある程度裕福な家であったこともまた事実である。
 多額の現金を相続出来る立場にあったのに、鐚一文貰えなかったという失望感が金のことばかり書かせたのだろうか。
 あるいは塩原の家が順調に推移しておれば、相続者としての立場をそこそこ享受したかも知れないという残念な想いがあったのか。

 あったはずのものがない。
 あるはずのものがなかった。
 漱石の小説における不平不満の感情の中には、この「喪失感」が強く作用しているようである。
吾輩は猫である。名前はまだ無い」という書出しは、ただ名前のない事実を述べているに過ぎないようにも見えるが、名前がないことを寂しがっている、早く名前を付けて貰いたい、あるいは名前がないことを自慢している、といったありきたりの感情の表出というよりは、本来あるべきはずのものが自分に限って無いという、無常(無情)きわまりない深い絶望感をその裏面に隠していないだろうか。それが冷笑的に構える態度に所々現れつつも、周囲に対する愛着・甘え・好奇心・観察眼・学習態度の礎になっているとも言える。坊っちゃんの愚痴や怒りもしかり、その底には喪失感が横たわっている。小説冒頭の母の死と末尾の清の死はそのためにも最初から予定されていた、小説『坊っちゃん』の必須アイテムだったろう。

 

 漱石の金についての考え方の根っ子には、結論から言うと、「仕事と道楽」という観点から、

「金があれば食うための仕事をしなくて済む。その分自分のやりたい事に邁進できる」

 という発想があるのであろう。これは嫌なことに耐えて始めて金が貰える、という潔癖性的な思い込みから出たものである。言い方を換えると、好きなことをして金を貰うのは罪悪であるという強迫観念があるのだろう。職業として教師をするということは、「教師とは嫌なことと見つけたり」を日々体現していることに他ならず、早く教師を辞めて小説を書いて暮らしたいと思う。小説家になったらなったで、「小説家とは嫌なことと見つけたり」であるから、漢詩を作ったり画を描いたりして暮らしたいと思うようになる(はずである)。
 漱石は印税で家が建つくらいになれば、(清が預言したように立派な玄関のある家を拵えるようになれば、)たぶん小説はやめたと思われる。論者の見るところ最後の則天去私三部作(『道草』『明暗』『〇〇』)を書き終えたら、筆を折るか、少なくとも(朝日を辞めて)新聞小説はもう書かなくなったのではないか。
 喪失感から金のことばかり書いても、あるいはまた別の喪失感から愛のことばかり書いても、腹はくちくならないからである。

 それはともかく、『坊っちゃん』の金の話では、最重要ランクのものは、

①清のくれた3円。

②兄のくれた600円。

③兄から清への50円。

④中学校初任給40円。

⑤再び清のくれた為替10円。

 であろうか。小説のキーノートともなるべき金額であり、⑤を除いて複数の章で語られる。(厳密には⑤の元は③であるから、⑤もまた単独に存在しているわけではない。)次の階層に移ると、

⑥学資の余り30円。

⑦宿へお茶代5円。

山嵐の奢った氷水1銭5厘。

⑨「下宿料の10円や15円」

⑩赤シャツが弟と住む家の家賃9円50銭。

⑪街鉄の月給25円、家賃6円。

 物語の中で重要な意味を持つ金額であることは確かである。物品の値段についての記述はたくさんあるが、ここに取り上げたのは⑧だけである。漱石は(氷水の)1銭5厘という記述を10回以上繰り返している(精確には18回か19回)。(『八犬伝』ならともかく)ふつう1箇の小説としてはまずあり得ないことではないか。

 それでお金の話を離れても、坊っちゃんが小説の中で数字を絡めて語っている箇所に嫌でも目が行く。
 坊っちゃんは山城屋で2日目に15畳敷の大座敷に通されたが、後に行った住田の温泉は湯壺が15畳敷の広さであると書かれる。ここで早くも「裏を返す」という漱石の『坊っちゃん』における常套手段が出たのかと思って、念のために始めから調べてみると、

坊っちゃんが着任挨拶した教員控室のメンバーが15名。(第2章)

②松山15万石。(第2章)――坊っちゃんは「25万石」の城下と書いている。

③お茶代5円ふんぱつして移った広い御座敷15畳。(第2章)

山嵐に氷水を奢って貰う。(第2章)――⑧を参照。

⑤いか銀のナントカ崋山15円にしておきます。(第3章)

⑥住田の温泉上等の大浴場15畳敷くらいで泳いだ。(第3章)

⑦赤シャツと野だの釣り上げたゴルキ15、6匹。(第5章)

山嵐に奢って貰った氷水は1銭5厘(15厘)であった。それを叩き返す。(第6章)

⑨いか銀「下宿料の10円や15円は懸物を一幅売りゃすぐ浮いてくる」(第6章)

師範学校生徒に対抗して暴れる中学生は15、6歳(中学1、2年生)。(第10章)

⑪祝勝会の夜の乱闘事件に駆け付けた巡査15、6名。(第10章)

 

 漱石がこの「15」を洒落の材料として、どうでもいいもの、ろくでもないものの一環として見ていることは間違いあるまい。してみると漱石がなぜ松山15万石を25万石の城下と書いたのか(②)、何となく分かるような気がする。読者は(『猫』で六ツ井物産と書かれたように)小説の中の話であるからわざと土地を特定されないためとか、漱石の mystification の流露であろうとか思いがちであるが、漱石は松山弁丸出しの小説を書いているのである。小説家としてのキャリアもまだ殆ど何もない。漱石にとって隠す必要のあるものなど、あろうはずがない。漱石は(15の連鎖から松山を外すことによって)、1年間お世話になった、あるいは子規の生地松山市松山城)に、それなりの誠意を示したかったのではないか。
 ではなぜ「15」にこだわるかについては誰も分からない。漱石の母千枝が亡くなったのは金之助15歳の春である。坊っちゃんの母親が亡くなったのをそれに合わせることは出来ないし、その必要もないだろう。坊っちゃんは14歳で母親を亡くしている。ところでそれについては後年だがこんな記述がある。

 母の名は千枝といった。私は今でも此千枝という言葉を懐かしいものの一つに数えている。だから私にはそれがただ私の母丈の名前で、決して外の女の名前であってはならない様な気がする。幸いに私はまだ母以外の千枝という女に出会った事がない。
 母は私の十三四の時に死んだのだけれども、私の今遠くから呼び起す彼女の幻像は、記憶の糸をいくら辿って行っても、御婆さんに見える。晩年に生れた私には、母の水々しい姿を覚えている特権が遂に与えられずにしまったのである。
 私の知っている母は、常に大きな眼鏡をかけて裁縫をしていた。其眼鏡は鉄縁の古風なもので、球の大きさが直径二寸以上もあったように思われる。母はそれを掛けた儘、すこし顋を襟元へ引き付けながら、私を凝と見る事が屡(しばしば)あったが、老眼の性質を知らない其頃の私には、それがただ彼女の癖とのみ考えられた。・・・(大正4年『硝子戸の中』37回)

 夏目千枝の命日は明治14年1月9日享年56歳である。金之助15歳の春に間違いはない。しかるにこの記述からすると、漱石は母の死を自分の14歳と結びつけて記憶していたふしがある。あるいは何らかの理由で「15歳」を封印したのかも知れないが、いずれにせよ坊っちゃんもまた漱石の「真実」を踏襲したわけである。

 そして前の項で難解とされた、野だが即座に坊っちゃんの後釜としていか銀へ入り込んだのも、下宿料が格別に安かったのがその理由と考えれば腑に落ちる。この⑨の「下宿料の10円や15円」という言い方は、勿論15円という選択肢もあるが、「たかが」という意味に取れるから、ふつうは10円の方を指すのだろう。赤シャツが弟と住む立派な玄関の付いた家の家賃は9円50銭だという。坊っちゃんは翌る年東京で清を連れて玄関付きでない家賃6円の家に入っている。いくら地方都市とはいえ賄い付きで10円は安い。いか銀の本業が下宿屋でないことの証左であろう。

 ちなみに坊っちゃんの書く金額は、兄から貰った600円を分母として、すべてきっちり割り切れるものばかりである。1銭5厘でもむろん割り切れる。まるで600円ですべてを賄ったかにように読める。まさかと思ったらやはり例外はある。上記赤シャツの家賃9円50銭と山嵐の港屋宿賃8日分5円60銭(1日70銭)である。学資の余り30円を、汽車賃等使って9円残っているとも書かれている。これも割り切れない。しかし坊っちゃん側にも言い分はある。9円50銭も5円60銭も赤シャツや山嵐の話で坊っちゃんとは何の関係もない。9円もただ財布に残っているのをそう書いたまでで、何かの価が9円だと言っているわけではない。
 いや唯一残った例外がある。それは坊っちゃんが1回だけ食べたとされる「遊廓の団子旨い旨い」2皿7銭である。7は6で割り切れない。坊っちゃんは妓楼には登らなかった(と思われる)。しかしシャロックホームズが『 The Adventure of the Second Stain 』で1度だけ呟いたように、坊っちゃん漱石)にも「外交上(営業上)の秘密」が存在したのかも知れない。
 それとも坊っちゃん(や漱石)に限ってそんな例外があろうはずもなく、住田の団子は1皿4銭で、(食いしん坊の坊っちゃんはたまたまもう1皿食ったから追加料金3銭を加算されたに過ぎない、)それなら割り切れるという強弁も、めでたく(もないが)成立する。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 20

276.『坊っちゃん』怒りの日々(3)――書出しの1文字は「親」である


 『坊っちゃん』の書出しの1文字は、厳密に言うと、どの本も章番号を表わす「一」であるが、漱石は「一」とは書いていない。章の番号を書き始めるのは「二」からである。『坊っちゃん』における書出しの1文字は、「一」でなく、「親譲り」の「親」の字である。
「どの本も」と書いたが、初出(『ホトトギス』)も初版(『鶉籠』)も「一」の表記はない。いきなり「親譲りの」から(正しく)始まっている。

 いつから誰がこんなことを――、と指摘する人はいないのだろうか。(死後すぐに出た全集で早くも「一」が附されている。小宮豊隆が正式介入する前から、謂わば岩波編集部の「常識」として「一」は挿入されたのであろうか。それとも漱石が『坊っちゃん』の「一」の脱落を生前気にしていたとでも言うのだろうか。)
 驚くべきことだが荒正人の(集英社版全集の)校異には、このことがまったく触れられていない。荒正人(たち)は現存する原稿に当たって全集の校訂を行なったはずである。あの(一見)どんなことでも載っている集英社版全集に、何も書かれていないとはどういうわけか。
 校異の頁には原稿の1行目(タイトル・署名)から検討を加え、とくに書出しの1文節は、原稿・初出・初版と(変体仮名の活字まで作って)並列表示して異同を比べている。しかし校異表も含めてそこに触れた箇所はない。この2頁にも及ぶ書出し1文節の「異同表」に、小見出しの「一」は(正しくも)登場しない。全集として決して短くない編者自身の解説頁にもそのことは書かれていない。まるでそういう事実が存在しないかのようである。

 原稿準拠と称する岩波の全集もまた、何の注釈もなくいきなり「一」から始まっている。校異表にもない。(巻末の編集後記みたいな箇所には、さすがに第一章だけ章番号がないことは記されているが。)
「一」は小説ではないのだろうか。『坊っちゃん』の「一」は小説の一部分ではないのか。では『明暗』の「絶筆」として 189 とだけノンブルの振られた、あの漱石山房の原稿は何だったのだろう。あれは原稿でなく「(反故になるべき)原稿用紙」だとでも言うのか。鏡子夫人は反故を夫の形見としたのか。

 『猫』は別である。最初読切りのつもりで書かれたのであるから、原稿の書出しに「一」も「第一」もあろうはずがない。初出も同じである。後に本になるとき始めて「第一」と付加されている。荒正人も当然『猫』の校異表ではその旨記載している。『猫』でちゃんとやっていることを、なぜ『坊っちゃん』だけ素通りするのであろうか。繰り返すがどこまでも異様に細かいのが荒正人の全集である。ああそれなのに(と本ブログでも一度紹介した山田風太郎の嘆きをここでも嘆いておく)、名作『坊っちゃん』の書出しの1文字に言及しないのは、どうした理由によるものだろう。

 念の為に『草枕』を見ると、こちらは原稿が「(一)」で始まっている(なぜか括弧付きになっているが、この括弧はとくに意味がなかったらしく、初版以降では無視されているが、それはそれで已むを得まい)。原稿はその後も「(二)」「(三)」・・・と続き、初出も同じだから、漱石は『草枕』では始めから章番号を入れることを意識したのだろう。荒正人の校異にはこれも明瞭に記されている。当り前である。
 ちなみに集英社版全集の校異表では、この章番号に付された括弧が、漱石が書いたような、(一)のように文字(漢数字)の右左(東西)に配置されず、括弧が一の上下(南北・天地)に配置されている。つまり漢数字の一を天地から皿で挟み込んでしまっている。
 これは無用の誤解を生む「編集ミス」であろう。漱石はこのような書き方をしていない。縦書きの文章の中の漢数字に括弧を付けるときは、上下に付けるか左右に付けるかのどちらかであるが、それをあべこべにしてしまっては何のための異同表か分からなくなる。
 ついでに蒸し返して申し訳ないが、岩波の『坊っちゃん』の章番号「一」については、やはり後書きのような場所ではなく、本体の注釈なり語注として触れるべきではなかったか。他ならぬ漱石が原稿に書いている(書いていない)という問題である。本来校訂者があとがきのような所に書くことといえば、字が汚いとか、原稿用紙の紙質が悪いとか、そういう類いのことを書くなら書くべきであろう。漱石の「一」は本文そのものではないか。業界の常識がそうなのかも知れないが、世間の常識に従うなら漱石全集の著者は「夏目金之助博士・・」になってしまう。

 それはまあいいとして、では『坊っちゃん』以前の作品はどうだったかというと、小説を章分けしたのは『趣味の遺伝』を以って嚆矢とするが、残念ながら原稿が残っていない。しかし『趣味の遺伝』の初出は「一」「二」「三」と3つに章分けされており、漱石の原稿がそうなっていただろうとは推測される。
 これは漱石が、『坊っちゃん』を全1章のつもりで書き始めたことを、必ずしも意味しない。漱石は勢いよく書き出して、最初の(印象的な、映像としても大成功と思われる)区切りで始めて、「二」と書いた。ではなぜ一枚目に戻って「一」と振り直さなかったのか。原稿は常に漱石の手許にあったのである。
 漱石は細かいことはどうでもいいのであった。何かあればそれを匡すのは編輯者の役目である。普通ならそれでいいだろう。普通の本ならそれで何の問題もない。しかし1字1句に(版元が)こだわる漱石全集にこんなことがあっていいのだろうか。漱石の真の処女作と言ってもいい記念碑的な名作、世界的にも著名な漱石の代表作『坊っちゃん』が、他人の(勝手に)書き加えた1文字で開始せられていた、というのはいかにも大袈裟に過ぎようが、「一」がなくてこそ漱石である、と感じる読者も少なくないのではないか。『猫』も『坊っちゃん』もいきなり始まってこその名作である。

 あるいは『趣味の遺伝』の後、本当に『坊っちゃん』は章分けしない構想のもと書き始められた小説だったかも知れない。であれば書いているうちにだんだん長くなると樗陰や虚子に訴えたのも、真実漱石の癖であったと思いやられる。『坊っちゃん』『心』『明暗』――こんな癖なら誰でも真似したいと思うだろう。『猫』は少し意味合いが異なるが(雑誌が売れるので続篇をせがまれたのであるが)、予期しないのにだんだん長くなるということでは同じである。長ければ長いほど歓迎される。こんな小説は世界にいくつもあるまい。『猫』がその代表であるが、漱石は全作品に渉ってそれが該当しよう。『坊っちゃん』の続きがあれば誰でもいつまでも読みたいと思うだろうし、三四郎や代助のその後が書かれたなら、どんなに遠くてもそれこそ宇宙旅行してでも読みに行きたいと思う。
 長ければ長いほどいい。現在ある作品にどれだけ書き足されても、読者は喜んで受け容れる。漱石以外にそんな作品があるとは思えない。(あるとすれば『サザエさん』くらいか。)

 それともタイトルと名前を書いたあと、まず「一」とだけ書いて(改行し)、それからおもむろに坐り直して本文に入るのが、当時からも純文学作家の慣わしであるが、形にこだわるようでは(あるいは書き出しに意気込む・威儀を正すようでは)、漱石みたいな後世に残る作品は書けない、ということであろうか。
 漱石の所謂初版本は、誤植ばかり多くて凡そ趣味人以外手に取っても読むものでないが、『坊っちゃん』の初版本の第1頁だけはその限りでない。まず最初にとりあえず「一」とだけは書かなければ気の済まない、文筆家の(俗に染まった)目を闢かせる効能がある。

 ちなみに漱石を一生うんざりさせた「親」という一字は、漱石にとって2組あった親と、自分がなりたくてなったわけでもない7人の子の親、全部で3種類の意味を持っていた。漱石は教師もそうだが、親という役目にも興味がなかった。それは「正しい親」「正しい教師」というもののイメジが湧かなかったためでもある。自分が間違っていないかということにのみ関心が集中していた漱石にとって、正邪の枠外にあるものはどうでもいいのであった。文学はそうではない。漱石は文学とは何かという定義からスタートして、次に自分でその文学を体現した。それは茨の道であったかもしれないが、とにかく正しい道をめざして進むことは出来た。その分漱石のような人が生きるということにおいては、文学は幸いしたと言える。(その意味では漱石は建築科を選択しても充分に目的を持って生きられたと思われる。)
 漱石にとって正しい文学とは何か。それは歴史的建築物のように、後代まで残る作品のことであろう。漱石は学生時代に早くもそれが正しいと信じていた。それはつくづく正しかった、と後代の我々から見るとそう感謝せざるを得ない。
 書出しの1行に漱石のすべてがある、と前の項で論じたが、書出しの1文字(「親」)にも漱石のすべてがある、と言っては言い過ぎか。