278.『坊っちゃん』怒りの日々(5)――カレンダーは破綻するのか
漱石に日曜日という語の出て来ない小説は無いと言えるが、その例外の代表格たる『草枕』は、全体が課業休暇中(春休み)のような小説である。
ところが『坊っちゃん』でも、主人公が中学校教師をしているのでつい見過ごしがちであるが、曜日についての記述は一切ない。坊っちゃんは休日なしで働いていたかのようである。
これは(意図しないにせよ)漱石の皮肉でもあろう。坊っちゃんは休むにはあまりにも初心である。神はまだ(坊っちゃんの)世界を建築途中である。休みたいならいっそ辞めてしまえ、という乱暴さは漱石の中に常にある。
小説のカレンダーや曜日におかしなところのあるのは、『三四郎』以来の漱石の常套であるが、では曜日の一切書かれない『坊っちゃん』のカレンダーは、破綻を免れているのか。ここで改めておさらいしてみよう。検証すべき箇所はいくらもない。坊っちゃんが中学教師として暮らした2ヶ月あまりの期間のうちの、最初の1ヶ月について見てみる。
まず到着の日であるが、学期(第2学期)はもう始まっていた。港に着くと艀の船頭は真っ裸に赤褌である。
「尤も此熱さでは着物はきられまい」
坊っちゃんは山城屋で階段下の狭い部屋に通されたときも、
「熱くって居られやしない」
と言っているから、到着の日が9月であればその初旬であることは疑いを容れない。
①1日目。午後、松山上陸。山城屋へ投宿。
「中学校へ来たら、もう放課後で誰も居ない。宿直は一寸用達に出たと小使が教えた」
②2日目。初出勤。挨拶。午後は清に手紙を書く。
「学校は昨日車で乗りつけたから、大概の見当は分って居る」
「今日はもう引き取ってもいい、明後日から課業を始めてくれ」(狸)
「此位の事なら、明後日は愚、明日から始めろと云ったって驚ろかない」
「今日見て、あす移って、あさってから学校へ行けばいい」(山嵐)
③3日目。山城屋からいか銀へ移る。
④4日目。初授業。宿へ帰ると主人がお茶を淹れに来る。
「あしたの下読をしてすぐ寝る」(以上第2章)
⑤5日目。(授業がある。したがってこの日も日曜でない。)
上記のように最初の5日間は連続したウィークデイである。つまり1日目は常識的には月曜日、ぎりぎり火曜日であろう。
坊っちゃんの課業が始まって、問題の宿直の順番も廻って来る。
「早く顔を洗って、朝飯を食わないと時間に間に合わないから、早くしろ」(第4章)(狸)
⑥宿直(バッタ事件)の日は平日である。
⑦その翌日も授業がある。
その宿直(バッタ事件)の同じ週か次の週くらいに職員会議があり、その前日はターナー島での沖釣りである。釣りは夕方までかかった。
「早速伝授しましょう。御ひまなら、今日どうです」(第5章)
⑧ターナー島の日は平日である。
⑨翌日の職員会議も平日である。(おそらく土曜日か)
そしてバッタ事件の生徒処分案の職員会議で山嵐が、
⑩「未だ生徒に接せられてから二十日に満たぬ頃」(第6章)
と言っている。赴任時の挨拶が15人という記述からも、坊っちゃんの宿直の順番が正しく廻って来たことが分かる。
これらを勘案して明治38年のカレンダーにあてはめてみると、
9月4日月曜 到着。
9月5日火曜 挨拶。清に手紙。
9月6日水曜 いか銀へ引越。
9月7日木曜 初授業。
9月8日金曜 授業2日目。
・ ・ ・
9月24日日曜 秋季皇霊祭。
9月25日月曜 宿直(バッタ事件)。(9月7日から19日目。)
9月26日火曜 宿直明け(狸の仲裁)。
9月29日金曜 ターナー島。
9月30日土曜 職員会議。
一応辻褄は合う。職員会議の日の朝、坊っちゃんは山嵐に下宿を出てくれと言われて、その夜には萩野の家へ移っている。いか銀は9月末日で終了、萩野は10月1日(日曜)スタートで、こちらのタイミングも合っている。そして10月第1週、遅くとも10月上旬にまでには、お待ちかねの清の手紙が(符箋だらけで)届く。
このカレンダーでは到着日を9月5日(火曜)に1日繰り下げることは可能であるが、上記①のようにその日学校は放課後であったから、1日繰り上げて9月3日(日曜)とすることは出来ない。
では気になる明治28年説ではどうなるか。
9月2日火曜 到着。
9月3日水曜 挨拶。清に手紙。
9月4日木曜 いか銀へ引越。
9月5日金曜 初授業。
9月6日土曜 授業2日目。
ここまでは大丈夫であるが、
9月22日月曜 宿直(バッタ事件)。(9月5日から18日目。)
9月23日火曜 宿直明け(狸の仲介)。
9月23日火曜 秋季皇霊祭。
秋季皇霊祭が邪魔をしてうまく行かない。ちなみに明治11年に始まった祭日としての秋季皇霊祭は、概ね9月23日としてよいが、漱石が『猫』を書く前後から9月24日(うるう年9月23日)にスライドしている。秋季皇霊祭だけでなく秋は神嘗祭(9月17日だったのが秋季皇霊祭との兼ね合いで10月17日に移動)、天長節もあり(11月3日から大正天皇誕生日8月31日へ、しかし夏休み中の祝日がなじまず、10月31日に「天長節祝日」という不思議な名目で実質11月3日の代替となる。11月3日が明治節として復活したのは漱石の死後、昭和になってからであった)、もともと暦や政府のやることに関心の薄かった漱石にとっては、(教師として休みは有難かったであろうが)小説の中で取り上げたくなるようなアイテムではなかった。祝祭日は時代と共に移り変わるものでもあり、むしろ漱石の文学の方がそれを超えた寿命を保っていることから見ても、漱石の態度は正解であったと言わざるを得ないが、教師を辞めてからはいよいよ祝祭日は無視されるようになった。
といって漱石は時事問題や御大葬も作品に取り入れているから、まったく関心がなかったわけでもなかろうが、要するにどうでもよかったのだと思われる。
かくして坊っちゃんのカレンダーはめでたく明治38年で確定したかに見えるが、坊っちゃんが新橋で清と別れて、暑いさなか松山に着いたという記述からは、何となく明治28年の漱石の東京松山間の丸2日半の移動を想起させるものがある。
出立の日には朝から来て、色々世話をやいた。来る途中小間物屋で買って来た歯磨と楊子と手拭をズックの革鞄に入れて呉れた。そんな者は入らないと云っても中々承知しない。車を並べて停車場へ着いて、・・・(『坊っちゃん』第1章)
坊っちゃんは店で買い物をした清を迎えて、それから一緒に新橋へ向かっている。坊っちゃんは早朝に新橋駅を発ったわけではなかった。
それで港には暑い盛りに到着して、中学校へ行ったときには放課後で学校には誰もいなかったと書かれる。
荒正人の『漱石文学年表』によると、漱石は明治28年4月7日(日曜)11時45分の汽車で新橋駅を出発している。おそらく当時の時刻表がそうなっていたのであろう。そして4月9日(火曜)午後2時に(狩野享吉宛葉書等にも書かれてあるように)松山市内に到着している。まさしくそのときに漱石は坊っちゃん列車を降り立ったのである。
漱石に復路はなかった(熊本へ直行した)。その代わり坊っちゃん(と山嵐)は明治38年11月、夕方6時の汽船で出航。翌早朝神戸から直通の急行列車に乗ってその日の夜のうちに東京の清の許へ飛び込んでいる。推定27時間。往路の50時間に比べると2倍近いスピードである。漱石は信長を田舎者扱いしたこともあったが、逃げ足の速さだけは信長に倣ったと言える。
ところで『坊っちゃん』には(新橋駅のプラットフォームから50メートルまでしか)書かれなかった往路は後に、『三四郎』で坊っちゃんの代わりに三四郎(と汽車の女ならびに広田先生)によって、逆向きではあるが復元された。三四郎は広島県内あたりのどこかで1泊したあと、山陽線から東海道線を乗り継いで名古屋でさらに1泊。翌日鈍行の汽車で夜になってから東京へ着いたと思われる。広島の旅館を出てから推定36時間。広島途中下車からカウントすると48時間。漱石が都落ちした明治28年から10年以上経っていても、似たような時間はかかっている。
それはともかく、坊っちゃんは2ヶ月あまりで往復とも経験したが、所要時間だけで見ると往路が明治28年、復路が明治38年である。これではまるで浦島太郎ではないか。