明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 26

282.『坊っちゃん』1日1回(4)――赤シャツも漱石も宿直免除


第4章 宿直事件 (全3回)
(明治38年9月25日月曜~9月26日火曜)

1回 宿直が無暗に出てあるくなんて不都合じゃないか
(9月25日月曜)
(P280-3/学校には宿直があって、職員が代る代る之をつとめる。但し狸と赤シャツは例外である。何で此両人が当然の義務を免かれるのかと聞いて見たら、奏任待遇だからと云う。面白くもない。月給は沢山とる、時間は少ない、夫で宿直を逃がれるなんて不公平があるものか。勝手な規則をこしらえて、それが当り前だと云う様な顔をしている。よくまああんなに図迂図迂しく出来るものだ。これに就ては大分不平であるが、山嵐の説によると、いくら一人で不平を並べたって通るものじゃないそうだ。一人だって二人だって正しい事なら通りそうなものだ。)
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(「些とも不都合なもんか、出てあるかない方が不都合だ」と威張って見せた。「君のずぼらにも困るな、校長か教頭に出逢うと面倒だぜ」と山嵐に似合わない事を云うから「校長にはたった今逢った。暑い時には散歩でもしないと宿直も骨でしょうと校長が、おれの散歩をほめたよ」と云って、面倒臭いから、さっさと学校へ帰って来た。)

宿直当番の夕~汽車で温泉へ行く~なるべくゆっくり時間を潰す~停車場で狸と会う~横丁で山嵐と会う

 一体疳性だから夜具蒲団抔は自分のものへ楽に寝ないと寝た様な心持ちがしない。小供の時から、友達のうちへ泊った事は殆どない位だ。友達のうちでさえ厭なら学校の宿直は猶更厭だ。

 『三四郎』冒頭の汽車の女同宿事件へ直結する話である。しかし坊っちゃんならそれを通すことも出来ようが、三四郎は野々宮宗八の宿所に泊まったりもした。思うに三四郎の言う他人の蒲団というのは、人が寝ている蒲団に一緒に寝るのが鬱陶しくて厭だということであろう。人が気になってしようがないので、何でもひとりの方がいいというわけである。睡眠の話に限らない。これを他人を気遣う優しさと見るか、自分のことばかり考える身勝手と見るかは、見る人による。

2回 そりゃイナゴぞなもし
(9月25日月曜)
(P282-11/夫から日はすぐくれる。くれてから二時間許りは小使を宿直部屋へ呼んで話をしたが、夫も飽きたから、寝られない迄も床へ這入ろうと思って、寝巻に着換えて、蚊帳を捲くって、赤い毛布を跳ねのけて、頓と尻持を突いて、仰向けになった。おれが寝るときに頓と尻持をつくのは小供の時からの癖だ。わるい癖だと云って小川町の下宿に居た時分、二階下に居た法律学校の書生が苦情を持ち込んだ事がある。)
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(今迄まではあんなに世話になって別段難有いとも思わなかったが、こうして、一人で遠国へ来て見ると、始めてあの親切がわかる。越後の笹飴が食いたければ、わざわざ越後迄買いに行って食わしてやっても、食わせる丈の価値は充分ある。清はおれの事を欲がなくって、真直な気性だと云って、ほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。何だか清に逢いたくなった。)

バッタ事件~詰問~イナゴのせいにして白を切る生徒~清の有難味がよく分かる

 おれが寝るときに頓と尻持をつくのは小供の時からの癖だ。わるい癖だと云って小川町の下宿に居た時分、二階下に居た法律学校の書生が苦情を持ち込んだ事がある。法律の書生なんてものは弱い癖に、やに口が達者なもので、愚な事を長たらしく述べ立てるから、寝る時にどんどん音がするのはおれの尻がわるいのじゃない下宿の建築が粗末なんだ。掛け合うなら下宿へ掛け合えと凹ましてやった。

 これは漱石の悪い癖である。自分は悪くないと主張するのはいいが、これでは人はついて来ない。こんな理屈が通るなら警察も裁判所もいらないわけである。生徒が自分の悪行をバッタのせいにするのと同じである。漱石はわざと書いているのであろうが、実生活でもそういうところがなくはない(飼い犬が人を咬んだ事件等)。漱石と(鷗外とも)論争するものではないとは以前述べたことがある。

「馬鹿あ云え。バッタが一人で御這入りになるなんて――バッタに御這入りになられてたまるもんか。――さあなぜこんないたずらをしたか云え

 生徒が悪いのは明白であるし坊っちゃんの怒るのも尤もであるが、こんな言い方では謝罪のしようもない。これは『猫』の泥棒事件のコミカルな夫婦の会話を思い出す。

 主人は筆硯を座敷の真中へ持ち出して、細君を前に呼びつけ「是から盗難告訴をかくから、盗られたものを一々云え。さあ云え」と恰も喧嘩でもする様な口調で云う。
「あら厭だ、さあ云えだなんて、そんな権柄ずくで誰が云うもんですか」と細帯を巻き付けた儘どっかと腰を据える。(『猫』第5篇)

 『猫』のこのくだりが書かれたのも、泥棒事件の実話のあったのも、同じ明治38年のことである。1年くらい前のことであるから漱石も忘れてはいない。分かって『坊っちゃん』を書いているのである。苦沙弥先生には細君という防波堤があったが、坊っちゃんには誰もいない。自然坊っちゃんは内省的にならざるを得ない。その分怒りは増す。『猫』の方は全き喜劇であろう。(論者は落語家が『猫』のこのくだりを高座でそのまま語っているのを耳にしたことがある。)

3回 世の中に正直が勝たないで外に勝つものがあるか
(9月25日月曜~9月26日火曜)
(P287-10/清の事を考えながら、のつそつして居ると、突然おれの頭の上で、数で云ったら三四十人もあろうか、二階が落っこちる程どん、どん、どんと拍子を取って床板を踏みならす音がした。すると足音に比例した大きな鬨の声が起った。おれは何事が持ち上がったのかと驚ろいて飛び起きた。飛び起きる途端に、ははあさっきの意趣返しに生徒があばれるのだなと気がついた。手前のわるい事は悪るかったと言って仕舞わないうちは罪は消えないもんだ。わるい事は、手前達に覚があるだろう。本来なら寝てから後悔してあしたの朝でもあやまりに来るのが本筋だ。)
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(校長は何と思ったものか、暫くおれの顔を見詰めて居たが、然し顔が大分はれて居ますよと注意した。成程何だか少々重たい気がする。其上べた一面痒い。蚊が余っ程刺したに相違ない。おれは顔中ぼりぼり掻きながら、顔はいくら膨れたって、口は慥かにきけますから、授業には差し支えませんと答えた。校長は笑いながら、大分元気ですねと賞めた。実を云うと賞めたんじゃあるまい、ひやかしたんだろう。)

咄喊事件~夢ではない~2階へ突撃~罠で向う脛を負傷~籠城覚悟~つい寝てしまう~詰問Ⅱ~校長登場~蚊に食われ顔中腫れる

 ただのドタバタ喜劇に終わらないのが『坊っちゃん』であるが、この第3章の宿直事件も校長まで登場して、単なる子供のいたずらでは済まなくなってしまった。そこで坊っちゃんの被害調書が必要になってくる。

①バッタ事件。(第4章2回)
②咄喊事件。(第4章3回)
③障害物の仕掛けで向う脛を負傷出血。(第4章3回)
④監視のための籠城による睡眠不足。(第4章3回)
⑤蚊に食われて顔中腫れ上がる。(第4章3回)

 坊っちゃんだけが一方的な被害者にも見えるが、坊っちゃんサイドに瑕疵・失敗はないのか。

①宿直なのに汽車に乗って温泉へ行った。なるべくゆっくり1時間以上過ごしもした。(第4章1回)
②寝るときトンと尻餅をつく癖。宿直室は1階なので心置きなくトンとやった。(第4章2回)
③「なもした何だ。菜飯は田楽の時より外に食うもんじゃない」駄洒落の啖呵を切る。(第4章2回)
④「さあ言え」権柄ずくの詰問。(第4章2回)
⑤蚊を追い出すため蚊帳ごと振るったら、蚊帳の環で手の甲をいやというほど撲った。(第4章2回)
⑥寝呆ける癖がある。子供の頃のダイヤモンドを拾った夢。家中の笑い者になる。(第4章3回)
⑦度胸はあるが知恵が足りない。臨機応変に対処できない。融通が利かない。(第4章3回)
⑧「旗本の元は清和源氏で多田の満仲の後裔だ。こんな土百姓とは生れからして違う」(第4章3回)
⑨徹夜で見張るつもりがつい寝てしまった。(第4章3回)
⑩授業のため生徒を放免した校長に対し、自分なら全員放校処分にすると怒った。(第4章3回)

 このバランス感覚が坊っちゃんの怒りをさらに増幅し、滑稽なものにしている。読者の主人公に対する親しみもまた同じように増してゆくのである。
 ちなみに坊っちゃんがこの宿直事件で出血したり顔が腫れ上がったりするのは、言うまでもなく後日もっと大きな事件として反芻されることになる。漱石は伏線を張ったというよりは、何度も書くように、後段で丁寧に裏を返したと言うべきであろう。

 余談だが『坊っちゃん』の映像化(舞台化)にあたっては、この反復のユーモアという常道はきちんと踏襲されるべきである。宿直事件のケガと祝勝会余興事件のケガが相互に関連付けられて始めて滑稽味を生む。ケガの部位なり絆創膏のメーカーやデザイン・大きさなり、観客に想像(連想)させて笑わせることが大切である。野だもしかり。送別会とラストの天誅事件、野だは坊っちゃんたちに2度暴行を受けている。例えば人が骨折してもおかしくも何ともないが、同じ箇所をもう一度骨折させると、そこには悲劇を超えた喜劇が生まれることがあるのである。