明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」三四郎篇 4

4. 『三四郎幽体離脱の秘技(1)―― 三四郎は自分の方を見ていない


三四郎』全117回の新聞連載は、明治41年9月から12月までの4ヶ月間。執筆はおおむね8月と9月の2ヶ月間。子供も5人出来て働き盛りの41歳、諸事多忙で休む日もあったようだから、漱石は1日2回分くらい書いていたと思われる。翌年の『それから』も似たようなペースで進んだ。漱石としては快く創作できた時代であったかも知れない。胃の(不調の)せいで、その次の『門』から1日1回くらい(均すと)になってしまった。
  1日にきちんと1回ずつ書くという習慣そのものは、『門』というよりは大患後の『彼岸過迄』から始まり、それは絶筆の『明暗』まで続いたわけだが、『三四郎』や『それから』を好む読者にとっては、悔やまれる習慣ではあった。もちろん晩期の作品のファンにとっては、好ましい習慣といえよう。反対に『猫』『坊っちゃん』『草枕』を第一とする人は、作品の出来栄えは執筆スピードに正比例するという意見に納得するであろう。

 それはともかく、『三四郎』当時の漱石は、書いた原稿はある程度まとめて周囲の者が届けていたようである。であれば1日に何回分書こうが、原稿のストックは手許にあるはずだから、この「改行しない」という注記は、そもそも原稿を書き換えれば済んだのではないか。8ノ8回までを届けたあとで8ノ9回を書き始めた可能性も、もちろん無くはないが、ふつうに考えると、原稿を直した方が早い。しかし実際の経緯をみると、漱石は書き終えた原稿は、さわらない方針だったようである。そう考えないと原稿紙冒頭の(異例の)注記の説明がつかない。

 その議論や前回の則天去私の話は、それはまあそれでいいとして、前回まで重ねた引用部分には、別の興味深いセンテンスがある。例の「字下ゲセズ=改行してはいけない」問題にも関連すると思われるが、重複を承知でまた一度同じ箇所を引いてみる。

「違うんですか」
「一人と思って入らしったの」
「ええ」と云って、呆やりしている。やがて二人が顔を見合した。そうして一度に笑い出した。美禰子は、驚ろいた様に、わざと大きな眼をして、しかも一段と調子を落とした小声になって、
「随分ね」と云いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行って仕舞った。三四郎は立ち留った儘、もう一遍ヴェニスの堀割を眺め出した。先へ抜けた女は、此時振り返った。三四郎自分の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向(むこう)から三四郎の横顔を熟視していた。
「里見さん」
 出し抜けに誰か大きな声で呼んだ者がある。美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間許離れて、原口さんが立っている。原口さんの後(うしろ)に、少し重なり合って、野々宮さんが立っている。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るや否や、二三歩後戻りをして三四郎の傍へ来た。人に目立たぬ位に、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。そうして何か私語(ささや)いた。三四郎には何を云ったのか、少しも分らない。聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返して行った。もう挨拶をしている。野々宮は三四郎に向って、
「妙な連と来ましたね」と云った。三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、
「似合うでしょう」と云った。野々宮さんは何とも云わなかった。くるりと後ろを向いた。・・・(『三四郎』8ノ8回~8ノ9回改/再掲)

 上記傍線部分「三四郎自分の方を見ていない」というのは、この小説としては異例の書き方である。

 漱石は『三四郎』で、当り前だが様々な人物(風景も)を描写している。しかしその描写はあくまでも三四郎の目の辺りの位置を通して、三四郎が見たであろう景色を書いている。美禰子の立ち居振舞いも例外でない。おおむね三四郎が見たと想定される美禰子を、三四郎の脳ミソを忖度して、漱石はそのまま書いている。

 もちろん小説を書いているのは学生三四郎でなく文学者漱石であるから、多少文飾はある。たまにはつい漱石が出てしまうこともある。『虞美人草』からまだ1年しか経っていないのである。三四郎を押しのけて漱石が出しゃばることは、あって当然である。しかしこの小説では、漱石がその内面に踏み込んで筆をおろす登場人物があるとすれば、それは三四郎以外にあり得ない。小説の最初と最後で呟かれた二つの有名なセリフ、

「あなたは余っ程度胸のない方ですね」

「われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり」

 このときの女(たち)の心情に、漱石は一切立ち入っていない。あくまでも三四郎はかくのごとく聞いただけである、と漱石は主張している。

 しかるにヴェニスの風景画の前の三四郎を置き去りにして、先へ進んだ美禰子が振り返った瞬間、漱石の筆は突然美禰子に憑依する。美禰子と共に漱石まで、三四郎を置き去りにしかたのようである。漱石はそんな尻の軽い男であろうか。
(その少し前の、もう1ヶ所の下線部分、「美禰子は、驚いた様に、わざと大きな眼をして、しかも一段と調子を落とした小声になって」の「わざと」も、憑依「自分の方」の露払いのように見えなくはないが、ここでは漱石は美禰子に寄り添っているわけではない。ここでの「わざと」は「驚いた様に」と同じく、むしろ外形描写に近いものであろう。「わざと」を外して読んでみれば分かるように、この場合は作者がニュートラルな位置を保つために必要な語であるといえる。)