明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 33

329.『草枕』目次(20)第13章――太公望の秘密


第13章 鉄道駅で大切な人との別れ (全3回)

1回 川舟に全員集合
(P161-9/川舟で久一さんを吉田の停車場迄見送る。舟のなかに坐ったものは、送られる久一さんと、送る老人と、那美さんと、那美さんの兄さんと、荷物の世話をする源兵衛と、それから余である。余は無論御招伴に過ぎん。)
久一さん軍は好きか嫌いかい~那美さんが軍人になったら嘸強かろう~太公望事件~誰も彼も運命の輪から外れることは出来ない

(那古井の)村から菊池川を遡上して現在の玉名駅に向かうのであろう。玉名の古名は多婆那か多婆留(田原)か。鹿児島本線を北上するのであればわざわざ峠を越えて熊本へ出るまでもない。下車駅は下関か博多(那の津)か。那美さんが嫁に行った「5年前」には、すでに漱石はさらにその5年前に熊本の地を離れていた。漱石は日露の凱旋は東京で見聞したであろうが、地方都市での出征の模様を実際に見たわけではなかった。自分のしなかったことは書かないのが漱石の流儀である。漱石は出征の見送りはしなかったかも知れないが、人との別れは当然ながら何度も経験した。

 岸には大きな柳がある。下に小さな舟を繋いで、一人の男がしきりに垂綸を見詰めて居る。一行の舟が、ゆるく波足を引いて、其前を通った時、①此男が不図顔をあげて、久一さんと眼を見合せた。②眼を見合せた両人の間には何等の電気も通わぬ。③男は魚の事ばかり考えている。④久一さんの頭の中には一尾の鮒も宿る余地がない。一行の舟は静かに太公望の前を通り越す。
 日本橋を通る人の数は、一分に何百か知らぬ。もし橋畔に立って、行く人の心に蟠まる葛藤を一々に聞き得たならば、浮世は目眩しくて生きづらかろう。只知らぬ人で逢い、知らぬ人でわかれるから結句日本橋に立って、電車の旗を振る志願者も出て来る。⑤太公望が、久一さんの泣きそうな顔に、何らの説明をも求めなかったのは幸である。顧り見ると、安心して浮標を見詰めている。大方日露戦争が済む迄見詰める気だろう。

 風景画に人物を点描する珍しい例が第5章に見られた(黙って貝を剥く爺さん)。今回の記述はそれをなぞったのだろうか。しかしこの釣り人は久一さんと目を合わせるというアクションを起こした(①)。単なる風景ではなかった。釣り人は久一さんを知らない(②)。知らなければ別れもない(⑤)。画工は違う。たまたま久一と見知って、オマケにせよ別れの列に連なっている。これもまた1つの対照の妙であろうか。
 しかしこのくだりで、③の「男は魚の事ばかり考えている」は、『草枕』にあっては例外的な記述である。④の久一の描写も、③を受けてのことだろうが、ややそれに近い。これは本ブログのスタート地点たる、『三四郎』の「三四郎自分の方を見ていない」という驚ろきの記述に通ずるものがあるようだ。

「違うんですか」
「一人と思って入らしったの」
「ええ」と云って、呆やりしている。やがて二人が顔を見合した。そうして一度に笑い出した。美禰子は、驚いた様に、わざと大きな眼をして、しかも一段と調子を落とした小声になって、
「随分ね」と云いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行って仕舞った。三四郎は立ち留まった儘、もう一遍ヴェニスの堀割を眺め出した。先へ抜けた女は、此時振り返った。⑥三四郎自分・・の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向こうから三四郎の横顔を熟視していた。
⑦「里見さん」
 出し抜けに誰か大きな声で呼んだ者がある。⑧美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間許離れて、原口さんが立っている。原口さんの後ろに、少し重なり合って、野々宮さんが立っている。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るや否や、二三歩後戻りをして三四郎の傍へ来た。人に目立たぬ位に、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。そうして何か私語いた。三四郎には何を云ったのか、少しも分らない。聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返して行った。もう挨拶をしている。野々宮は三四郎に向って、
「妙な連と来ましたね」と云った。三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、
「似合うでしょう」と云った。野々宮さんは何とも云わなかった。くるりと後ろを向いた。・・・(『三四郎』8ノ8回~8ノ9回)

 論者はこの美禰子の描写に対して、幽体離脱・憑依という言葉を使ったが、小説『三四郎』の文脈に順えば、この部分は「三四郎の方を見ていない」、あるいは「三四郎美禰子の方を見ていない」とされるべきである。おそらく漱石は「女」が3度続くのを嫌がって、といって「美禰子」と書くのもうるさいような気がして、「自分」という表現に収めたのであろうが、結果として小説の中でこの箇所だけ、漱石が美禰子の内面に踏み入りそうになってしまった。
(詳しくは本ブログ三四郎篇に譲るが、手っ取り早く言えば、該当箇所⑥の、
三四郎自分・・の方を見ていない」の英訳文が、
Sanshirõ was not watching her・・.
 となっていることで、論者が何を言いたいかは分かっていただけると思う。さらに言えば、欧文にするならここは構文的には、
「美禰子は覚った、三四郎は自分の方を見ていない」
 となるべきであろう。)

 言うまでもないことだが、画工は魚釣りの男の心の中は分からない。久一の考えさえ傍から推し量るしかないのである。ここは画工から見て、そのように推測されたという意味で、文面がくどくなるのを避けて現行本文のようになったと「推測」するしかないが、このような人物への接近(覆い被さり)・同化(一体化)・代弁(忖度)は、たまに見せる漱石の癖であろうか。
 これは『草枕』が「余」の1人称小説、『三四郎』が3人称小説であるということとは関係がない。漱石は何人称小説であれ書き方を変えていない。熱したあまりつい自分が出ばってしまったというような話でも勿論ない。

 ところで『三四郎』のハイライトたるこの丹青会の20行くらいの引用文を読んで、⑧の箇所に改行を必要とすると感じた読者は、果たしているだろうか。
 現在わが国に出回っている出版物で、『三四郎』の当該箇所の本文が、引用文のように(改行されずに)繋がって表記されている出版物は皆無である。すべての本文が⑧の頭で改行されている。実際にはこの場所は新聞連載の切れ目であるから、(平成版の岩波の全集のように)連載回を忠実になぞった本文にする場合も、結果として「改行」されて文節を分けている。
 しかし漱石は原稿の⑧の箇所に、わざわざ「一字下ゲニゼズ」という注記を入れているのである。つまり漱石の指示は、上記引用文のように、⑧のくだりは前の文から続けて読めということに他ならない。
 この引用文の範囲に限っても、漱石は改行を一度もしていない(セリフの頭を行頭に持って行っているだけである)。⑧の箇所にだけ「改行」が入るのは不自然ではないか。文章として改行の必要があるとすれば、⑦の部分のみであろう。連載回を明示したい場合は、漱石の「指示」をまず優先して、それから連載回表示を考えるべきであった。つまり『三四郎』第9回の頭は、⑦の方がよりふさわしいのである。

 運命の縄は此青年を遠き、暗き、物凄き北の国迄引くが故に、ある日、ある月、ある年の因果に、此青年と絡み付けられたる吾等は、其因果の尽くる所迄此青年に引かれて行かねばならぬ。因果の尽くるとき、彼と吾等の間にふっと音がして、彼一人は否応なしに運命の手元迄手繰り寄せらるる。残る吾等も否応なしに残らねばならぬ。頼んでも、もがいても、引いていて貰う訳には行かぬ。

 久一は漱石にとって妙に気になる人物であった、と前に書いた(第26項)。久一は赤の他人とは思えない。久一との(永遠の)別れは画工にある感慨をもたらす。これでは非人情も何もあったものではない。太公望のカットは、おそらくここにも対照の妙を採り入れたかったためであろうが。
 創作技法上の理屈は分かる。太公望と久一。赤の他人であれば何の情実も生じない。画工たちと久一。惻隠の情は避けられないが、それをそのまま書くのでなくて、太公望と対比して書くことによって、「人情」は消え去って「非人情」になるというのである。こんな理屈が一般読者に伝わるわけがない。画工は先に峠の茶店で婆を描くときに、自分がかつて能舞台で観た高砂の媼に瓜二つであるとのみ書いて、それが非人情の手法になりうると信じた。『草枕』の旅を始めるにあたっての画工の決意は、やはりうまく行かなかったのだと、最後に読者も納得する。

 しかし小説はここで終わるわけではない。非人情のアプローチは1つではない。画工が自分の決意を犠牲にしてまで披露した「別れの曲」は、大団円に向かって次第に盛り上がってゆく。

 草枕』目次。引用は岩波書店『定本漱石全集第3巻』(2017年3月初版)を新仮名遣いに改めたもの。回数分けは論者の恣意だが、その箇所の頁行番号ならびに本文を、ガイドとして少しく附す。(各回共通)