明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」三四郎篇 31

33.『三四郎』のカレンダー(10)―― エピローグの秘密

 

 さて『三四郎』第13章全1回は、前にも少し触れた通り、それまでの章とはまったく別仕立ての回となっている。前半は三四郎さえ登場しない。後半も叙述は三四郎を離れて、元に戻るのは最後の数行だけである。この回だけ明らかに漱石は書き方を変えている。漱石はわざわざエピローグを書いたと言えよう。

 

 漱石三四郎』のエピローグの意義を、三つ挙げることが出来ると思う。

①物語本体での美禰子を独身者として了らせる。

三四郎と美禰子の鎮魂として。

③自身の三部作の中に、エピローグ付きの作品を一つ配置する。

 

 ①②はとくに説明を要しないだろう。漱石は未婚の女としての美禰子(の葛藤)を描いた。漱石三四郎も人妻美禰子に関心はない(野々宮は違うかも知れないが)。当初漱石は、三四郎の眼を通して、美禰子の結婚を伝聞のような形で、例えば披露宴の招待状のような形で、読者に伝えようとしたのではないか。そうするとまたぞろ三四郎の(煮え切らない)気持ちに触れざるを得ず、もうそれには厭き厭きしていた漱石三四郎を見捨てて、西洋風の語り手を気取った結びにしたのだろう。正直な漱石は最後に美禰子夫妻も登場させた。

 

 しかし物語本体を未婚の美禰子のままで閉じるということは、三四郎や野々宮だけでなく、おそらく意に染まぬ結婚生活に踏み出さざるを得なかった美禰子にとっても、ある救いに繋がったはずである。(あのプライドの高い美禰子が、最初よし子の相手として名の挙がった男の許へなど、本来なら行く筈はないのである。しかし兄の結婚が近いとすると、両親のない美禰子の居場所は無くなってしまう。)

 

 ③については少し解説が要る。

 漱石の(漱石に限らないが)小説の結び方に2種類ある。

 物語風にエピローグを付けたエンディング(A)と、そっけなく文芸的(私小説的・純文学的)に切り上げるやり方(B)の2つである。前者は読者に親切であり、後者は余韻が残って、これまた読者を喜ばせる。

 

(A)エピローグ付きの作品は、『猫』第一篇、『坊っちゃん』『虞美人草』。

(B)純文学は、『猫』(現行の結び)、『草枕』。(『二百十日』『野分』『坑夫』も)

 

三四郎』以下を分類すると、

 

(A)エピローグ 『三四郎』『彼岸過迄』『明暗』

(B)純文学 『それから』『門』『行人』『心』『道草』

 

 前著でも番外篇ふうに述べたが(著作の論旨とは直接関係ないので)、漱石は『猫』から『虞美人草』まで、その時その時に応じて、自分の書きたいことを好き放題に書いて来た(ように傍からは見える)が、『三四郎』以降その方針を改めて、ある種のアイテムについて、それらをのべつに書くことをせず、自らに厳格な使用制限を課す、という(ストイックな)書き方をするようになった。

 具体的に言うと(結果から見てであることは言うまでもないが)、自身の作品をひとまず三つの三部作の括りに分類し、その上で三部作の塊りごとに、特定のアイテム使用を、どれか一つの小説、一回だけに(贅沢な話だが)絞ってしまう、限ってしまうという書き方をしている。

 

「エピローグ」というアイテムについての分布は、下記の通りである。『三四郎』『彼岸過迄』『明暗』だけが該当している。

 

Ⅰ 初期三部作(青春三部作) 『三四郎』『それから』『門』

Ⅱ 中期三部作(独立挿話形式三部作) 『彼岸過迄』『行人』『心』

Ⅲ 晩期三部作(則天去私三部作) 『道草』『明暗』『〇〇(書かれなかった最後の小説)』

 

『門』の最終回はエピローグではないかという意見もあるだろう。勿論そう言えなくもない。最終章は『三四郎』と同じく新聞連載の1回分だけを充てている。しかし『三四郎』は冬休みを挟んでその間に美禰子は結婚している。その空白があってこそのエピローグである。『門』ではそういう空白はない。むしろ大団円と言うべき締め括りであろう。

 

 未完の『明暗』にエピローグがあるかという尤もな疑問については前著(『明暗』に向かって)を見ていただくとして、とりあえず漱石という人はそんな強迫的な制約の存在を感じさせる書き方をする人であると、ここではそれだけを言っておきたい。