明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 32

328.『草枕』目次(19)第12章(つづき)――野武士の髯と『一夜』の髯ある人


第12章 白鞘の短刀の行方 (全6回)(承前)

4回 那美さん野武士に財布を渡す
(P152-15/寝返りをして、声の響いた方を見ると、山の出鼻を回って、雑木の間から、一人の男があらわれた。 茶の中折れを被っている。中折れの形は崩れて、傾く縁の下から眼が見える。眼の恰好はわからんが、慥かにきょろきょろときょろつく様だ。藍の縞物の尻を端折って、素足に下駄がけの出で立ちは、何だか鑑定がつかない。野生の髯だけで判断すると正に野武士の価値はある。)
髯の男を注視する~那美さんが現われる~二人は接近して向き合う~那美さんの懐には白鞘が~現れたのは財布であった

 それでも一応往時の回想のあとの大事件は、野武士と11回目の那美さんの同時登場であったとしてよい。白鞘の短刀を呑んだ懐から取り出されて野武士に渡されたものは財布であった。
 男女間の金銭の授受というのは、『坊っちゃん』から始まって、永く漱石作品の重要な素材であり続けた。女の書かれない小説はないが、金の話の直接書かれない漱石の小説もまたないだろう。あるとすれば『彼岸過迄』の「雨の降る日」「須永の話」「松本の話」の3連作くらいだろうか。(その松本も須永市蔵も高等遊民とその予備軍であるが、そもそも高等遊民という呼称からして、それは金権社会――その否定を前提とした発想に基づいている。)
 高等遊民とは無縁の関西人西鶴は意図的に金のことばかり(あるいは女のことばかり)書いたが、江戸の人漱石も心は奈辺にあったかは知らず、金と女のことばかり書いた。

5回 画工那美さんに見付かる
(P156-1/二人は左右へ分かれる。双方に気合(けはい)がないから、もう画としては、支離滅裂である。雑木林の入口で男は一度振り返った。女は後をも見ぬ。すらすらと、こちらへ歩行てくる。やがて余の真正面まで来て、「先生、先生」と二声掛けた。是はしたり、何時目付かったろう。)
すぐ那美さんに見つかる~ここへ入らしてまだ一枚も御描きなさらないじゃありませんか~あれはわたくしの亭主です

「先生、先生・・・何をそんな所でして入らっしゃる
「詩を作って寝ていました」
「うそを仰しゃい。今のを御覧でしょう」
「今の? 今の、あれですか。ええ。少々拝見しました」
「ホホホホ少々でなくっても、沢山御覧なさればいいのに」
「実の所は沢山拝見しました」
「それ御覧なさい。まあ一寸、こっちへ出て入らっしゃい木瓜の中から出て居らっしゃい

 12回目(本章では3回目の登場)の那美さんに画工はもう敵わない。言いなりである。男は元の亭主であった。満洲に行くので金を遣ったという。10年後の未完の大作で、小林は東京を食い詰めて朝鮮へ渡ろうかと言う。キャリアの両端に位置する2つの小説に同じ血が流れている。それはいいが画工はもう那美さんの尻に敷かれているようである。亭主が出て来たので安心したわけでもないのだろうが。
 ところで上記引用文、「出てらっしゃい」「出てらっしゃい」の使い分けには、それこそ驚ろかされる。ここは筆の勢いでつい書き分けてしまったと解したい。「入らっしゃい(る)」が3度続くのを気にして、たまたまそう書いてしまった。そう解釈しないと全集すべての箇所を再検討しなくてはならなくなる。漱石はこだわる場面もないではないが、基本的には細部に関心がない。
 文庫本等で「こっちへ出ていらっしゃい。木瓜の中から出ていらっしゃい」とあれば苦労がなくていいが、それでも漱石が書いた原稿の字面をつい思い浮かべるような親身な読者なら、変に誤解してしまうより、直に全集本を読んだ方が早いだろう。

6回 蜜柑山の久一さんの家へ行く
(P159-4/迅雷を掩うに遑あらず、女は突然として一太刀浴びせかけた。余は全く不意撃を喰った。無論そんな事を聞く気はなし、女も、よもや、此所迄曝け出そうとは考えて居なかった。「どうです、驚ろいたでしょう」と女が云う。)
兄のいる本家へ行く~南向きの庭の先は蜜柑畠~その先は青海~「久一さん」「そら御伯父さんの餞別だよ」

 帯の間に、いつ手が這入ったか、余は少しも知らなかった。短刀は二三度とんぼ返りを打って、静かな畳の上を、久一さんの足下へ走る。作りがゆる過ぎたと見えて、ぴかりと、寒いものが一寸ばかり光った。(本章末尾)

 読者は大詰の第12章を読み終わって、『一夜』の「髯ある人」がどうして「髭」でなくて「髯」であったか、やっと諒解する。漱石は『一夜』の涼しき眼の女の前で、どうしても自分を指しかねない「髭」という字を使えなかった。それで「髯」の野武士を那美さんの亭主として配することにより、ようやくこの話にケリをつけたのである。
 『草枕』では画工のみが一貫して「髭」であり、那美さんの父親たる隠居老人も「髯」と書かれた。本当は城下一の金持ちで元銀行家の那美さんの亭主は、漱石のようなカイゼル髭でなくても、久一のようなヒゲなしか、せいぜいチョビ髭の方がお似合いである。満洲へ渡るといっても、いきなり馬賊になりに行くわけではないのだろうから、野武士のような無精ひげは本来似合わない。しかし『草枕』を『一夜』とセットで考えれば、自ずと漱石の主張も見えてくる。小説の隠れた目的(の1つ)は「髯」のオチをつけることだったのである。

 さて(まだ1章を残しているものの)最後の問題として、前章で少し触れた那美さんの悩み(実は漱石の悩みである)について、もう少し考えてみたい。

 色々なことが気になって困る。

 那美さんは大徹和尚に相談したというが、これは和尚の気の回し過ぎであろうか。那美さんは慥かにかつて悩んだかも知れないが、那古井の宿で自由に振る舞って、もうどんなことも気にならないはずである。那美さんはもしかすると夜眠れないと訴えただけかも知れない。色々なことが気になって困るのは漱石である。読者はストレートにこの悩みを漱石のものと感じ取る。漱石はどんなことでも気になるたちである。しかし漱石は、それで眠れないということはない。
 漱石は不眠よりかは、まっすぐ消化器官にその影響が出た(喉から肛門まで)。漱石は飲酒を嗜まなかった。漱石は酒を飲んで寝る必要がなかった。酒を飲まなくても眠ることが出来た。その代わり胃に穴が穿く。長谷川町子と同じである。しかし長谷川町子の場合は分からないが、漱石は小説を書くから胃が痛くなるのではない。むしろその逆である。

 瑣事が気になる ⇒ 不安でいたたまれない(胃が痛くなる) ⇒ 創作をする(漢詩を書く) ⇒ 瑣事が気にならなくなる

 つまり一般の人が酒を呑む代わりに、漱石は小説を書いたということになる。慥かに明治39年(明治38年も)の漱石はそれでよかった。心身の不調は寛解したかに見えた。しかし創作は真の問題解決にはならなかった。おまじないは徐々に解けて、結局漱石は胃痛を我慢するかしかなかったのである。修善寺以降、実際に漱石は倒れたのであるが、小説を書いたから倒れたのか、小説を書かなくても倒れたのかは、誰にも分からない。うんと後世の人は漱石もまた酒と煙草の吞みすぎで倒れたと思うかも知れない。
 これは漱石が明治40年以降朝日に入って、小説を仕事にしてしまったが故という話ではないと思う。漱石は公けでの発言にかかわらず、自分の創作活動を道楽と見做していた。仕事は漱石のストレスにはならなかった。創作はかえってストレスの緩衝材であった。しかし酒が人生の問題を解決しないように、小説もまた(瑣事が気になるという)根本的な生ける悩みから漱石を解放しなかったのである。

 ちなみに(議論するつもりはないが)瑣事が気にならないためには、杜甫のように(李白でもいいが)酒浸りの生活に陥らないのであれば、瑣事を失くするしかない。この世は瑣事に充ちているのであるから、この世を捨てるしかない。あるいは理性を捨てるしかない。
 死ぬか気が狂うか宗教へ行くしかない。漱石の読者なら、どこかで聞いたような言い回しであると気付くが、とりあえず『草枕』ではそんな極端へは趨っていない。それが非人情の旅であるからには。