269.『坊っちゃん』聖典発掘(4)――生原稿116年目の真実(つづき)
いらぬことだが最後に両者を直接比べてみよう。萩野の婆さんの会話の文章を順に比較して、虚子の加筆を経たと思われる表現を(漱石が自分で直したのかも知れないが)「現」、漱石のオリジナル原稿を「原」として、対比の一覧表を作成する。単独で「もし(なもし)」を付け加えているだけの箇所は、原則として省略する。戯曲ではないのだから(漱石は戯曲というものを書かなかった)、例えば九州の人の台詞に「ばってん」とか「ばい」が省略されようがフルに書かれようが、それはその作家の好きにしていい話であって、他がとやかく言うことではない。
Ⅰ 第7章(マドンナ・うらなり・赤シャツの三角関係と山嵐)
《虚子の添削=赤字、消された漱石の原稿=緑字(いずれも推定)》
現 どうして奥さんをお連れなさつて、一所に御出でなんだのぞなもし
原 なぜ奥さんを連れて、一所に御出でんか
現 それでも、あなた二十四で奥さんが御有りなさるのは當り前ぞなもし
原 なあに、あんた二十四で奥さんが御有りるのは當り前ぞな
現 御婆さん正直に本當かなもしと聞いた。
原 御婆さん正直に本當かなと聞いた。
現 「本當の本當のつて僕あ、嫁が貰ひ度つて仕方がないんだ」
原 「本當の本當のつて僕あ、嫁が貰ひ度つて仕方がないんだ」
現 「然し先生はもう、御嫁が御有りなさるに極つとらい。
原 「然し先生はもう、御嫁が御有りるに極つとる。
現 私はちやんと、もう、睨らんどるぞなもし」
原 私はちやんと、そう、見て取つた」
現 「へえ、活眼だね。どうして、睨らんどるんですか」
原 「へえ、活眼だね。どうして、見て取つたんですか」
現 毎日便りを待ち焦がれて御いでるぢやないかなもし」
原 毎日便りを待ち焦がれて御いでるぢやらうがな」
現 先生、あの遠山の御嬢さんを御存知かなもし」
原 先生、あの遠山の御嬢さんを御知りかな」
現 「まだ御存知ないかなもし。こゝらであなた一番の別嬪さんぢやがなもし。
原 「まだ御知りんかな。こゝ随一の別嬪さんぢやがな。
現 みんなマドンナ々々と言ふといでるぞなもし。まだ御聞きんのかなもし」
原 みんなマドンナ々々と御言ひとるぞな。まだ御聞きんかな」
現 「ほん當にそうぢやなもし。鬼神の御松ぢやの、妲妃の御百ぢやのてゝ怖い女が居りましたなもし」
原 「ほんにそうぞな。鬼神の御松ぢやの、妲妃の御百ぢやのてゝ怖い女が居りましたな」
現 「其マドンナさんがなもし、あなた。そらあの、あなたを此所へ世話をして御呉れた古賀先生なもし――
原 「其マドンナさんがな、あんた。そらあの、あんたを此所へ世話をして御呉れた古賀先生な――
現 「人を頼んで懸合ふてお見ると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、
原 「人を頼んで懸合て見ると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、
現 ――まあよう考へて見やう位の挨拶を御したのぢやがなもし。
原 ――まあよう考へて見やう位の挨拶を御したのぢやがな。
現 すると赤シやツさんが、手蔓を求めて遠山さんの方へ出入をおしる様になつて、
原 すると赤シやツさんが、手蔓を求めて遠山さんの方へ出入をする様になつて、
現 とう々々あなた、御嬢さんを手馴付けてお仕舞ひたのぢやがなもし。
原 とう々々あなた、御嬢さんを手馴付けて仕舞ふたのぢやがな。
現 御嬢さんも御嬢さんぢやてゝ、みんなが悪るく云ひますのよ。
原 御嬢さんも御嬢さんぢやてゝ、みんなが悪るく云ふのぞな。
現 古賀さんへ嫁に行くてゝ承知をしときながら、
原 古賀さんへ嫁に行くてゝ承知をしながら、
現 それぢや今日様へ済むまいがなもし、あなた」
原 それぢや今日様へ済むまいがの、あなた」
現 「夫で古賀さんに御気の毒ぢやてゝ、
原 「夫で古賀さんに御気の毒だてゝ、
現 破約になれば貰ふかも知れんが、
原 破約になれば貰ふかも知れないが、
現 「そりや強い事は堀田さんの方が強さうぢやけれど、然し赤シやツさんは
原 「そりや強い事は堀田さんの方が強さうぞな、然し赤シやツさんは
現 生徒の評判は堀田さんの方がえゝといふぞなもし」「つまり何方がいゝんですかね」
原 生徒の評判は堀田さんの方がいゝのぢやが――」「つまり何方がいゝんですかね」
現 「つまり月給の多い方が豪いのぢやらうがなもし」
原 「つまり月給の多い方が豪いのぢやらうがな」
Ⅱ 第8章(赤シャツ・校長の策謀とうらなりの延岡落ち)
《虚子の添削=赤字、消された漱石の原稿=緑字(いずれも推定)》
現 ほん當に御気の毒ぢやがな、もし
原 ほんに御気の毒ぢやがな、もし
現 あたし達が思ふ程暮し向が豊かになうて
原 あし達が思ふ程暮し向が豊かになうて
現 校長さんが、ようまあ考へて見とこうと御お云ひたげな。
原 校長さんが、ようまあ考へて見様ぞいと御お云ひたげな。
現 古賀さんは・・・、元の儘でもえゝから、こゝに居りたい。
原 古賀さんは・・・、元の儘でもいゝから、こゝに居りたい。
現 卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大人しく頂いて
原 卑怯でもあんた、月給を上げてくれたら、大人しく頂いて
現 年をとつてから考へると、も少しの我慢ぢやあつたのに惜しい事をした。
原 年をとつてから考へると、も少しの我慢ぢやあつたに惜しい事をした。
現 お婆の言ふ事をきいて、赤シやツさんが月給をあげてやろと御言ひたら、
原 婆の言ふ事をきいて、赤シやツさんが月給をあげてやろと御言ひたら、
論者は岡山生まれで四国の言葉は何となく馴染みはあるが、松山弁のことは分からない。虚子の添削がどんな意味を持つか判断することは出来ない。ただこの添削があってもなくても、『坊っちゃん』の方言の感じはあまり変わらないのではないか。それは地元の人以外には分からないことであるが、故意にデタラメを書いていないのであれば、そんなことは小説の価値に影響しないのではないか。翻訳文学まで話を拡げなくても、そもそも四国の方言を解さない人にとって、この話は意味がない。久生十蘭の『姦』は、「方言」によって語られる小説についての大いなる皮肉と警鐘であろう。(『姦』は語り手が電話口で、関西弁ならぬ関西弁風の言葉を喋りまくる小説である。)方言に限らない。津軽で生まれ育った太宰治の東京言葉は、東京人にとってどこかおかしくて当たり前である。おかしくなければ却ってそれは小説の程度が知れるというもの。(つまりイミテーションということで、具体例を挙げるわけには行かないので架空の話をすると、シャーロックホームズの女性の登場人物に漱石のテヨダワ言葉を遣わせるようなものである。いくら時代が共通しているといっても、いくらそのテヨダワ言葉が正しくても、それは所詮物真似である。)東京の言葉にしても、下町と山の手はおろか、同じ地区でも例えば通った中学校によって言葉遣いも違うのが普通であろう。
話を漱石の作品に限っても、(『猫』の)多々良三平の久留米弁に「正確さ」を求める人がいるだろうか。三四郎は九州弁を喋ったはずであるが、そんなことは『三四郎』の評価と関係がない。読み手はそのまま読めばいいのである。あるいは自分の話す国の言葉に「翻訳して」読めばいいのである。というより、人はそれ以外の読み方をすることが出来ない。
ところで松山弁の添削はいいとして、上記対比表にある第7章の、萩野の婆さんとの会話の締め括りの部分を、再度省略なしに示すと以下の通りである。
現「そりや強い事は堀田さんの方が強さうぢやけれど、然し赤シやツさんは学士さんじゃけれ、働きはある方ぞな、もし。夫から優しい事も赤シやツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がえゝといふぞなもし」
「つまり何方がいゝんですかね」
「つまり月給の多い方が豪いのぢやらうがなもし」(『坊っちゃん』第7章現行本文)
原「そりや強い事は堀田さんの方が強さうぞな、然し赤シやツさんは学士さんじゃけれ、働きはある方ぞな、もし。夫から優しい事も赤シやツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方が①いゝのぢやが――」
「②つまり何方がいゝんですかね」
「③つまり月給の多い方が豪いのぢやらうがな」(『坊っちゃん』第7章推定オリジナル原稿)
ここでは方言を改善するあまり、オリジナルにあった①のダーシが取り払われてしまっている。このダーシがあればこそ、次の「②つまり何方がいゝんですかね」という坊っちゃんの合いの手を引き出すのであり、それが婆さんの「③つまり月給の多い方が豪い」という的外れにして正鵠を射たオチに収まるわけである。また婆さんの「いい」を坊っちゃんも口写しになぞっているのであるから、婆さんが「ええ」と言ったのであれば、坊っちゃんも「どっちがええんですかね」と言うのではないか。つまり①②③は3題噺ではないが3つ繋がったセリフになっていたのであり、その核の役目をダーシが担っていたと言える。
本ブログ彼岸過迄篇でも論じたが、漱石は新聞の切抜まで作って校正に励んだこともあるようだが、誤植の訂正は別として、漱石の直接係わる本文改訂は、その効力は限りなく疑問である。ましてそれが漱石以外の人の手によるものだとすれば、そのときはその文節全体を、ことによると小説全体を見直してしかるべきである。そういう例が『坊っちゃん』全体を読み直したときにまた発見できるのではないか。
《『坊っちゃん』本文の引用元》
〇集英社版直筆で読む「坊っちゃん」(2007年10月)
〇岩波書店版漱石全集第2巻(1994年1月)・定本漱石全集第2巻(2017年1月)