明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 12

268.『坊っちゃん聖典発掘(3)――生原稿116年目の真実


 では前項までの坊っちゃんと萩野の婆さんの会話シーンの、赤字で示した虚子の添削部分を取り去って、あるいは一部漱石の書いた(消した)部分を(目を凝らして)復元して、漱石のオリジナル原稿を蘇らせてみよう。復元部は緑色で示すことにする。
 なぜこんな(愚にもつかぬような)ことをするかというと、本ブログ坊っちゃん篇冒頭でも述べたが、

「松山の人に云わせると、間違ってはいないが、いかにも面白味のない会話」

 という志賀直哉のエッセイの中の文章が、どうにも気になるからである。それでは、

「(松山弁としては)間違っているかも知れないが、面白味のある会話」

 を、漱石なら書いていたはずであると、愛読者の1人としては主張せざるを得ない。本来漱石は「面白味のない会話」など、書きたくても書けるはずがないのであるが。

Ⅰ 第7章(マドンナ・うらなり・赤シャツの三角関係と山嵐)オリジナル版
 《岩波版全集本文=青字、漱石が書いたまま=緑字》

 御婆さんは時々部屋へ来て色々な話をする。なぜ奥さんを連れて、一所に御出でんかなどゝ質問をする。奥さんがある様に見えますかね。可哀想に是でもまだ二十四ですぜと云つたら、なあにあんた二十四で奥さんが御有りるのは當り前ぞなと冒頭を置いて、どこの誰さんは二十で御嫁を御貰ひたの、どこの何とかさんは二十二で子供を二人御持ちたのと、何でも例を半ダース許り挙げて反駁を試みたには恐れ入つた。それぢや僕も二十四で御嫁を御貰ひるけれ、世話をして御呉れんかなと田舎言葉を真似て頼んで見たら、御婆さん正直に本當ほんまかなと聞いた。

本當ほんま本當ほんとうのつて僕あ、嫁が貰ひつて仕方がないんだ」
「左様ぢやろうがな、もし。若いうちは誰もそんなものぢやけれ」此挨拶には痛み入つて返事が出来なかった。
「然し先生はもう、御嫁が御有りるに極つとる。私はちやんと、そう見て取つた
「へえ、活眼だね。どうして、見て取つたんですか」
「何故しててゝ。東京から便りはないか、便りはないかてゝ、毎日便りを待ち焦がれて御いでるぢやらうがな
「こいつあ驚いた。大変な活眼だ」
「中りましたらうがな、もし」
「さうですね。中つたかも知れませんよ」
「然し今時の女子は、昔と違ふて油断が出来んけれ、御気を御付けたがえゝぞな」
「何ですかい、僕の奥さんが東京で間男でもこしらへて居ますかい」
「いゝえ、あんたの奥さんは慥かぢやけれど……」
「それで、漸と安心した。夫ぢや何を気を付けるんですい」
あんたのは慥か――あんたのは慥かぢやが――」
「何処に不慥かなのが居ますかね」
「こゝ等にも大分居ります。先生、あの遠山の御嬢さんを御知りかな
「いゝえ、知りませんね」
まだ御知りんかなこゝ随一の別嬪さんぢやがな。あまり別嬪さんぢやけれ、学校の先生方はみんなマドンナ々々と御言ひとるぞな。まだ御聞きんかな
「うん、マドンナですか。僕あ芸者の名かと思つてた」
「いゝえ、あなた。マドンナと云ふと唐人の言葉で、別嬪さんの事ぢやらうが」
「さうかも知れないね。驚いた」
「大方画学の先生が御付けた名ぞな」
「野だがつけたんですかい」
「いゝえ、あの吉川先生が御付けたのぢやがな」
「其マドンナが不慥なんですかい」
「其マドンナさんが不慥なマドンナさんでな、もし」
「厄介だね。渾名の付いてる女にや昔から碌なものは居ませんからね。さうかも知れませんよ」
ほんにそうぞな。鬼神の御松ぢやの、妲妃の御百ぢやのてゝ怖い女が居りましたな」
「マドンナも其同類なんですかね」
「其マドンナさんがな、あんた。そらあの、あんたを此所へ世話をして御呉れた古賀先生な――あの方の所へ御嫁に行く約束が出来て居たのぢやがな――」
「へえ、不思議なもんですね。あのうらなり君が、そんな艶福のある男とは思はなかつた。人は見懸けによらない者だな。ちつと気を付けやう」
「所が、去年あすこの御父さんが、御亡くなりて、――夫迄は御金もあるし、銀行の株も持つて御出るし、万事都合がよかつたのぢやが――夫からと云ふものは、どう云ふものか急に暮し向きが思はしくなくなつて――詰り古賀さんがあまり御人が好過ぎるけれ、御欺されたんぞな。それや、これやで御輿入も延びて居る所へ、あの教頭さんが御出でゝ、是非御嫁にほしいと御云ひるのぢやがな」
「あの赤シやツがですか。ひどい奴だ。どうもあのシやツは只のシやツぢやないと思つてた。それから?」
「人を頼んで懸合て見ると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事は出来かねて――まあよう考へて見やう位の挨拶を御したのぢやがな。すると赤シやツさんが、手蔓を求めて遠山さんの方へ出入をする様になつて、とう々々あなた、御嬢さんを手馴付けて仕舞ふたのぢやがな。赤シやツさんも赤シやツさんぢやが、御嬢さんも御嬢さんぢやてゝ、みんなが悪るく云ふのぞな。一反古賀さんへ嫁に行くてゝ承知をしながら、今更学士さんが御出だけれ、其方に替へよたて、それぢや今日様へ済むまいがの、あなた」
「全く済まないね。今日様所か明日様にも明後日様にも、いつ迄行つたつて済みつこありませんね」
「夫で古賀さんに御気の毒だてゝ、御友達の堀田さんが教頭の所へ意見をしに御行きたら、赤シやツさんが、あしは約束のあるものを横取りする積はない。破約になれば貰ふかも知れないが、今の所は遠山家と只交際をして居る許りぢや、遠山家と交際をするのに別段古賀さんに済まん事もなからうと御云ひるけれ、堀田さんも仕方がなしに御戻りたさうな。赤シやツさんと堀田さんは、それ以来折合がわるいと云ふ評判ぞなもし」
「よく色々な事を知つてますね。どうして、そんな詳しい事が分るんですか。感心しちまつた」
「狭いけれ何でも分りますぞな」
 分り過ぎて困る位だ。此容子ぢやおれの天麩羅や団子の事も知つてるかも知れない。厄介な所だ。然し御蔭様でマドンナの意味もわかるし、山嵐と赤シやツの関係もわかるし、大に後学になつた。只困るのはどつちが悪る者だか判然しない。おれの様な単純なものには白とか黒とか片づけて貰はないと、どつちへ味方をしていゝか分らない。
「赤シヤツと山嵐たあ、どつちがいゝ人ですかね」
山嵐て何ぞな」
山嵐と云ふのは堀田の事ですよ」
「そりや強い事は堀田さんの方が強さうぞな、然し赤シやツさんは学士さんぢやけれ、働らきはある方(かた)ぞな、もし。夫から優しい事も赤シやツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がいゝのぢやが――」
「つまり何方がいゝんですかね」
「つまり月給の多い方が豪いのぢやらうがな」(『坊っちゃん』第7章改)

Ⅱ 第8章(赤シャツ・校長の策謀とうらなりの延岡落ち)オリジナル版
 《岩波版全集本文=青字、漱石が書いたまま=緑字》

 所へ不相変婆さんが夕食を運んで出る。今日も亦芋ですかいと聞いて見たら、いえ今日は御豆腐ぞなと云つた。どつちにしたつて似たものだ。
「御婆さん古賀さんは日向へ行くさうですね」
ほんに御気の毒ぢやがな、もし」
「御気の毒だつて、好んで行くんなら仕方がないですね」
「好んで行くて、誰がぞな」
「誰がぞなつて、当人がさ。古賀先生が物数奇に行くんぢやありませんか」
「そりやあんた、大違ひの勘五郎ぞな」
「勘五郎かね。だつて今赤シやツがさう云ひましたぜ。夫が勘五郎なら赤シやツは嘘つきの法螺右衛門だ」
「教頭さんが、さう御云ひるのは尤もぢやが、古賀さんの御往きともないのも尤もぞな」
「そんなら両方尤もなんですね。御婆さんは公平でいゝ。一体どう云ふ訳なんですい」
「今朝古賀のお母さんが見えて、段々訳を御話したがな」
「どんな訳を御話したんです」
「あそこも御父さんが御亡くなりてから、あし達が思ふ程暮し向が豊かになうて御困りぢやけれ、御母さんが校長さんに御頼みて、もう四年も勤めて居るものぢやけれ、どうぞ毎月頂くものを、今少しふやして御呉れんかてゝ、あんた
「成程」
「校長さんが、ようまあ考へて見様ぞいと御お云ひたげな。夫で御母さんも安心して、今に増給の御沙汰があろぞ、今月か来月かと首を長くし待つて御いでた所へ、校長さんが一寸来て呉れと古賀さんに御云ひるけれ、行つてみると、気の毒だが学校は金が足りんけれ、月給を上げる訳にゆかん。然し延岡になら空いた口があって、其方なら毎月五円余分にとれるから、御望み通りでよからうと思ふて、其手続きにしたから行くがえゝと云はれたげな。――」
「ぢや相談ぢやない、命令ぢやありませんか」
「左様よ。古賀さんはよそへ行つて月給が増すより、元の儘でもいゝから、こゝに居りたい。屋敷もあるし、母もあるからと御頼みたけれども、もうさう極めたあとで、古賀さんの代りは出来て居るけれ仕方がないと校長が御云ひたげな」
「へん人を馬鹿にしてら、面白くもない。ぢや古賀さんは行く気はないんですね。どうれで変だと思つた。五円位上がつたつて、あんな山の中へ猿の御相手をしに行く唐変木はまづないからね」
唐変木て、先生なんぞな」
「何でもいゝでさあ先生、――全く赤シやツの作略だね。よくない仕打だ。まるで欺撃ですね。それでおれの月給を上げるなんて、不都合な事があるものか。上げてやるつたつて、誰が上がつて遣るものか」
「先生は月給が御上りるのかな」
「上げてやるつて云ふから、断はらうと思ふんです」
「何で、御断はりるのぞな」
「何でも御断はりだ。御婆さん、あの赤シやツは馬鹿ですぜ。卑怯でさあ」
「卑怯でもあんた、月給を上げてくれたら、大人しく頂いて置く方が得ぞな。若いうちはよく腹の立つものぢやが、年をとつてから考へると、も少しの我慢ぢやあつたに惜しい事をした。腹立てた為めにこないな損をしたと悔むのが当り前ぢやけれ、の言ふ事をきいて、赤シやツさんが月給をあげてやろと御言ひたら、難有うと受けて御置なさいや」
「年寄の癖に余計な世話を焼かなくつてもいゝ。おれの月給は上がらうと下がらうとおれの月給だ」
 婆さんはだまつて引き込んだ。・・・(『坊っちゃん』第8章改)

 下線を引いた2ヶ所(嫁が貰ひ度つて・一寸来て呉れ)は論者が勝手に「校正」しておいた。

《『坊っちゃん』本文の引用元》
集英社版直筆で読む「坊っちゃん」(2007年10月)
岩波書店漱石全集第2巻(1994年1月)・定本漱石全集第2巻(2017年1月)