明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 25

192.『帰ってから』1日1回(3)――女景清の秘密(つづき)


 女は二十年以上〇〇の胸の底に隠れている此秘密を掘り出し度って堪らなかったのである。彼女には天下の人が悉く持っている二つの眼を失って、殆ど他から片輪扱いにされるよりも、一旦契った人の心を確実に手に握っている方が、遥かに幸福なのであった。(『帰ってから』18回再掲)

 前項でも引用した部分であるが、この下線部の記述は、例の新聞切り抜きによる校正で、

 一旦契った人の心を確実に手に握れない方が遥かに苦痛なのであった。(昭和50年版漱石全集第5巻『行人/帰ってから』18回)

 と書き直されている。確かに文法的には修正した方が無難であろう。ネガティブな事象同士を比較するという理屈からも、直して当然という見方もあるかも知れない。しかし原稿版(定本版)のような書き方はいかにも漱石らしい書き方で、従来の漱石ならそのままにしておく箇所であったろう。
 同じ修正でも、この女景清のエピソードの主役たる知り合いの坊っちゃんについて、

 自分は家へ出入る人の数々に就いて、大抵は名前も顔も覚えていたが、此逸話を有った男丈はいくら考えても何な想像も浮かばなかった。自分は心のうちで父は今表向多分此人と交際しているのではなかろうと疑ぐった。(『帰ってから』13回)

 の末尾の部分は、引用に使用している漱石全集(1994年7月初版)・定本漱石全集(2017年7月初版)では、「交際しているのではなかろうと疑ぐった」となっており、漱石の文意は「交際していない」であるから、これは原稿の書き間違いかとも思われるが、切り抜き版で修正されているふうにも見えないので、これは編集者が直して漱石の諒解を得たのであろう。ここでは引用本文の方を(勝手に)直しておいた。

 しかし該当部分を「交際しているのでは無いだろう」と、「無い」を強調した読み方をすれば、漱石の中ではこれは直す必要のない文章ということになる。まあ普通に読めば誤読されてしまうから、「なかろうと疑った」の方が無難であるが、原稿が見つかっていない以上、「なかろうと疑った」という本文にするのであれば、一言注釈を追加すべきであるとは思う。

 さて女景清事件の本題に戻って、『三四郎』以来検証を続けて来たカレンダーの問題が、ここにも存在しているようである。
 今から25、6年前のことで、当時20歳前後であったという設定であるから、この男女は現在互いに45、6歳である。これは議論の余地がない。男の長女は12、3歳という。
 であれば、45、6歳マイナス12、3歳で、答は33歳であるから、これが数え年の便利なところで、男は(普通に考えると)33歳で結婚している。34歳で赤ん坊が生まれた(1歳)ことになる。

 ・・・彼が又昔彼女(かのおんな)と別れる時余計な事を其女に饒舌っているんです。僕は少し学問する積だから三十五六にならなければ妻帯しない。で已むを得ず此間の約束は取消にして貰うんだってね。所が奴学校を出るとすぐ結婚しているんだから良心の方から云っちゃあまり心持は能くないのだろう。・・・(『帰ってから』15回)

 35、6歳で結婚すると、36,7歳で子供が生まれる。34歳で子を設けた坊っちゃんと、2、3年の差である。まず許容範囲ではないか。

 『行人』の物語の暦が明治44年夏~秋として、このとき漱石は45歳、筆13歳。年次だけはまさに漱石と一致する。漱石は29歳で(大学院を)卒業、松山に行き、その年の内に鏡子と見合い、婚約。翌年30歳で20歳の鏡子と結婚している。最初の子を流産したので、33歳で筆(1歳)を設けた。結婚自体は5、6年サバを読んだかも知れないが、父は坊っちゃんの子女の年齢しか喋っていないのだから、取り返しのつかない話にはなりようがない。
 女は指折り数えて、「結構でございます」と言っただけである。本当に諒解したのではないか。女の子供はもう立派に成人しているのである。であれば男の長子(12、3歳)と自分の子の年差10年かそれくらいを考えて、とくに問題なしとしたのではないだろうか。
 そして積年の課題たる「何か嫌なこと」の質問となったのは、前項でも述べた。その結論は基本的には前項の通りであるが、漱石自身もちゃんと小説の中に答えを書いている。

「始は満足しかねた様子だった。勿論此方の云う事がそら夫程根のある訳でもないんだからね。本当を云えば、先刻お前達に話した通り男の方は丸で坊ちゃんなんで、前後の分別も何もないんだから、真面目な挨拶はとても出来ないのさ。けれども其奴が一旦女と関係した後で止せば好かったと後悔したのは、何うも事実に違なかろうよ」

「そりゃ学理から云えば色々解釈が付くかも知れないけれども、まあ何だね、実際は其女が厭になったに相違ないとした所で、当人面喰らったんだね、まず第一に。其上小胆で無分別で正直と来ているから、それ程厭でなくっても断りかねないのさ」(以上『帰ってから』19回)

 父はしゃあしゃあとしてこう言い放った。松山中学の数学教師として赴任した「坊っちゃん」が、山嵐の誘いに乗らずに現地で棲み暮らしたとして、いずれ何かの折に、自分の将来を見渡すような状況に直面したとき、周囲の誰かからこのように言われるのは、火を見るよりも明らかである。「小胆で無分別で正直」とはよく言ったものである。「坊っちゃん」を評するにこれ以上適切な表現があるだろうか。

 まあそれは余談として、父の説くところを煎じ詰めれば、「女と関係をつけたら、まず第一に面喰らった」のがすべての本であるということである。これは相手の女にはもちろん、ふつうには伝わりようもない意見であろうが、ある真実を穿っていると言えなくもない。少なくとも漱石の中ではそうだったのだろう。
 面喰らった・びっくりした。ほかに言いようがある気もするが、「驚くうちは楽しみがある」と甲野さんは言い、いざ結婚したとなると、「嬉しいところなんか始めからないんですから」と津田は言う。そのスタート地点に、「驚いた」坊っちゃんがいたわけである。