明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 7

174.『友達』(7)――不可解な物語の始まり(つづき)

 

 前項で検討した、三沢付き看護婦に対する二郎の不可解な応対は、『行人』のその後の展開にも関係すると思われるが、ここでまったく別の見解を述べると、

①二郎は病院で三沢の看護婦と(書かれなかった)別種の交渉があった。

②そのため夜かかってきた電話は、三沢の伝言だけでなく実際にはもっと長かった。

③二郎はその一切を秘匿した。

 

 このように考えれば、留守の間に女中が蚊帳を繕ったこと、翌日二郎が看護婦に「昨夕は御苦労さま」と「礼を述べた」理由の説明が付く。(「礼を述べた」の方は漱石の丁寧な、あるいは大仰な書き方によるもので、他の作家ならただ「言った」と書くところだろう。この大仰な書き方は漱石の書き癖と言ってもよいが、それはある種のユーモアに繋がるものでもあるだろう。)

 反対に言えば、このような(大胆な)省略・隠蔽を想定しない限り、後段における三沢の不思議な恋愛譚を、まともに理解することなど出来なくなってしまうからである。

 ユーモアということで言えば、まあふつうに考えればこのくだりは、漱石の(渋い)ユーモアと解釈すべきところかも知れない。取り柄のない看護婦を、ただ調戯(からか)っただけだったのかも知れない。

 

 ところで少し前に遡って、本ブログ冒頭に触れた二郎の3大失言事件、

④「奥さん、三沢という男から僕に宛てて、郵便か電報か何か来ませんでしたか。今散歩に出た後で」(『行人/友達』4回)

⑤「奥さんは何故子供が出来ないんでしょう」(同6回)

⑥「どうも写真は大阪の方が東京より発達しているようですね」(同9回)

 のうち、最大の失言たる⑤について、少し掘り下げてみる。

 

「奥さん、子供が欲しかありませんか。斯うやって、一人で留守をしていると退屈するでしょう」

「左様でも御座いませんわ。私兄弟の多い家に生れて大変苦労して育った所為か、子供程親を意地見(いじめ)るものはないと思って居りますから」

「だって一人や二人は可いでしょう。岡田君は子供がないと淋しくって不可ないって云ってましたよ」

 お兼さんは何にも答えずに窓の外の方を眺めていた。顔を元へ戻しても、自分を見ずに、畳の上にある平野水の罎を見ていた。⑦自分は何にも気が付かなかった。それで又「奥さんは何故子供が出来ないんでしょう」と聞いた。するとお兼さんは急に赤い顔をした。⑧自分はただ心易だてで云ったことが、甚だ面白くない結果を引き起したのを後悔した。けれども何うする訳にも行かなかった。其時はただお兼さんに気の毒をしたという心丈で、⑨お兼さんの赤くなった意味を知ろう抔とは夢にも思わなかった

 自分は此居苦しく又立苦しくなった様に見える若い細君を、何うともして救わなければならなかった。夫には是非共話頭を転ずる必要があった。自分はかねてから左程重きを置いていなかった岡田の所謂「例の一件」をとうとう持ち出した。お兼さんはすぐ元の態度を回復した。(同6回)

 

 この引用文を前段・中段・後段の3つに分けて考えてみる。

 まず前段自体は、余計なお世話であるにせよ、それほど不自然ではない。当時のことだから子供は要らないという夫婦は稀だろう。夫君も子供を欲しがっている。おそらくお兼さんも同じだろう。だがお兼さんは黙ってしまった。お兼さんが(二郎みたいに)余計なおしゃべりをしないことは、既に前の第5回で紹介済みである。お兼さんは二郎のおしゃべりに寂しい想いをしたようだ。

 これに対する二郎の反応は大変不思議である。⑦の何も気付かなかった、とは何を指すか。これは論者が上に書いたように、お兼さんの寂しさ、あるいは不快感・きまりの悪さ・羞恥心、何であれお兼さんの心情に気が付かなかった、としか読めない。二郎は(弱年時の金之助のように)女の気持ちが分からないがゆえに、上掲の大失言をしてしまった。それでお兼さんが赤い顔をしたのを見て後悔した(⑧)。後悔したもののどうすることも出来ない。

 ここまでは一応話としては繋がる。失言の原因と実体を述べていて、一応理解は出来る。しかしそれに続く⑨の、「お兼さんの赤くなった意味を知ろう抔とは夢にも思わなかった」という一文は、いったい何を言わんとしているのか。

 後段は持ち直している。失言の対処を二郎なりに取ろうとして、珍しく成功している。女の気持ちの分からない二郎が、なぜ偶然にせよお兼さんを救済できたかは謎としか言いようがないが、それは結果として特に問題とするに当たらない。

しかし⑨の意味するものは何であろうか。

 

奥さんは何故子供が出来ないんでしょう

 

 二郎は何の底意もなくただの親しみ・思いやり・心やすさでこう言ってしまった(と書かれる)。ところがお兼さんは「意外にも」赤い顔をしてしまったというわけである。すると二郎はたちまち失言に気が付いて、善後策を講じる。それはいいが、二郎としては失言の言い訳も併せて考えているのであろうか。

 

 お兼さんの赤くなった意味を知ろう抔とは夢にも思わなかった

 

 失言の言い訳というよりは、二郎にはそもそも失言をする素地が無かったのだ、と漱石は言いたいようである。

 純粋に質問した。相手が赤面した。しかしこちらは(その当時は)あくまで純粋だったから、相手の赤面の意味さえ考えることはなかった。――潔癖な漱石はこのように(後出しジャンケンのように)主張しているのだろうか。この倫理観(倫理感覚)を理解することは、いくら漱石信望者であっても難しかろうという気がする。

 

 それともこのくだりは、子宝に恵まれた漱石にとって、結婚したら子供が出来るものだと思い込んではいるものの、例外的に結婚して子供が出来ない人もいることは知っている。その気の毒な(と漱石は考える)人たちのことを慮った一節なのだろうか。漱石の自己弁護なのだろうか。漱石はそんな親切な人間か。