明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 8

175.『友達』(8)――誰もが舌を巻く女性初登場シーン


 漱石の文章にも無条件に美しい箇所はたくさんある。お兼さんは物語のヒロインではないが、その初登場シーンは流石に堂に入ったものである。漱石は自己の芸術的成長に関しては、ことのほか厳格・潔癖に生きて、名人芸(と称されるマンネリズム)を懼れて常に目先を変える工夫を怠らない人であった。それは漱石の文学には幸いしたかも知れないが、『猫』や『坊っちゃん』をもっと読みたいファンにとっては、もったいないという気もしないではない。
 そんな「癇性な」漱石でも、自分の小説に女を初登場させるときの描写に対する力の入れようは、いくら名人芸と言われても、(小さんのように)そこだけは自他ともに許したのではなかろうか。

 やがて細君が帰って来た細君はお兼さんと云って、器量は夫程でもないが、色の白い、皮膚の滑らかな、遠見の大変好い女であった。・・・
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 お兼さんは格子の前で畳んだ洋傘を、小さい包と一緒に、脇の下に抱えながら玄関から勝手の方に通り抜ける時、ちょっと極(きまり)の悪そうな顔をした。その顔は日盛の中を歩いた火気(ほてり)のため、汗を帯びて赤くなっていた
「おい御客さまだよ」と岡田が遠慮のない大きな声を出した時、お兼さんは「只今」と奥の方で優しく答えた。自分は此声の持主に、かつて着た久留米絣フランネルの襦袢を縫って貰った事もあるのだなと不図懐かしい記憶を喚起した。(『友達』2回末尾)

 どうしたらこのような文章が書けるのか。読者としても亭主の岡田に倣って、遠慮なく大きな声で言いたい。「細君」から「お兼さん」への遷移は、一見何でもない、どんな小説家も書くような書きぶりに見えるが、(省略した引用部分の)過去に遡った二郎の語りは見事に現実に融け込んで、誰もがそこに活きているお兼さんを見る。お兼さんの脇に抱えている小さい包みの、その源泉さえ語られている。池の女(『三四郎』の)ほどの艶やかさはないが、その分いくつもの作品を経た円熟さえ感じられる。日傘は畳まれてなお渋味を増しているのである。

 話は変わるが、遠見がいいというのは漱石にとって最重要に近い要件である。接してしまえばどんな女(人)にも欠点は目に付く。初見において女との間に、ある程度の距離が保たれていること。それは漱石の小説にも根気よく繰り返され、『坊っちゃん』のマドンナから『明暗』の津田とお延まで、初登場シーンにおいて、その(20mなり30mなりの)距離が明確にイメジされる例は枚挙にいとまがない。それはおそらく漱石が見染めた女についての記憶によるものだと誰もが思う。正直な漱石はそれを隠そうとはせず、却って描き続けた。
 漱石は女性の髪の結い具合だとか、女物の着物の絵柄の美しさに大変興味を持った。夫人の派手な着物を自身にあてがってみたことさえあるという。物自体に対する興味であろう。思うに漱石の女性の遠見を重んじるという発想も、女が好きというよりは、女という(自分と違った)モノに対する興味と言えなくない。現実問題として生きた女性との交渉が発生すれば、(誰でもそうだが)状況はまた異なってくるのである。

 それはさておき、『行人/友達』ではもう1人、三沢の「あの女」の初登場シーンが有名である。これも漱石のよく使う例に漏れず、初登場したときは三沢とは関係のない、誰とも分からない、二郎が病院で偶然見た女に過ぎない。

 あの女は其時廊下の薄暗い腰掛の隅に丸くなって横顔丈を見せていた。其傍には洗髪を櫛巻にした背の高い中年の女が立っていた。自分の一瞥はまず其女の後姿の上に落ちた。そうして何だか其処に愚図愚図していた。すると其年増が向こうへ動き出した。あの女は其年増の影から現われたのである。其時あの女は忍耐の像の様に丸くなって凝としていた。けれども血色にも表情にも苦悶の迹はほとんど見えなかった。自分は最初その横顔を見た時、これが病人の顔だろうかと疑った。ただ胸が腹に着く程背中を曲げている所に、恐ろしい何物かが潜んでいる様に思われて、それが甚だ不快であった。自分は階段を上りつつ、「あの女」の忍耐と、美しい容貌の下に包んでいる病苦とを想像した。(同18回)

 二郎は「あの女」とは直接関係しないので、叙述そのものは(言葉数を費やしている割には)素っ気ない。このくだりで目立つのは不思議な付添人の存在であろう。後にこの年増女の(不確かな)素性が明かされるが、漱石の読者は女の初登場シーンに必ず付着する年上の女の、あまりにも目立ち過ぎる描写に困惑する。

 ここまで来ると読者は、『行人』の女主人公直の登場の仕方を気にするかも知れない。直は東京から遥々大阪へ旅行しに来て、一団の主格たる義母と存在感のない夫と共に、宿屋の部屋でまったく目立たない初登場をするのであるが(『行人/兄』2回)、義母が一緒にいるところがかろうじて共通しているだけで、それは直が人妻であるということが原因しているのだろう。

「一体それは大阪の何処なの」と嫂が聞いたが、兄は全く知らなかった。方角さえ分らないと答えた。是が兄の特色であった。彼は事件の断面を驚く許り鮮かに覚えている代りに、場所の名や年月を全く忘れて仕舞う癖があった。それで彼は平気でいた。
「何処だか解らなくっちゃ詰らないわね」と嫂が又云った。兄と嫂とはこんなところでよく喰い違った。・・・(『行人/兄』3回)

 ・・・最後に子供の話が出た。すると嫂の方が急に優勢になった。彼女はその小さい一人娘の平生を、左も興ありげに語った。お兼さんは又嫂のくだくだしい叙述を、左も感心したように聞いていたが、実際は丸で無頓着らしくも見えた。ただ一遍「よくまあお一人でお留守居が出来ます事」と云ったのは誠らしかった。「お重さんによく馴付いて居りますから」と嫂は答えていた。(『行人/兄』4回末尾)

 漱石の筆が直に降りて来たのは、せいぜいこんなところが始めである。これではちっともヒロインらしくない。人の妻というだけで漱石の扱いはこんなに変わるのか。

 自分は便所に立った時、手水鉢の傍にぼんやり立っていた嫂を見付けて、「姉さん何うです近頃は。兄さんの機嫌は好い方なんですか悪い方なんですか」と聞いた。嫂は「相変らずですわ」とただ一口答えた丈であった。嫂は夫でも淋しい頬に片靨を寄せて見せた。彼女は淋しい色沢の頬を有っていた。それから其真中に淋しい片靨を有っていた。(『行人/兄』6回末尾)

 まあこんなところが直の真の初登場シーンかも知れない。「淋しい」という語が3度繰り返される。直は本当に淋しかったのだろう。しかしそれはまだ先の話である。