明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 34

201.『塵労』1日1回(3)――父の来訪


第2章 父の来訪と兄のいない家(明治45年3月18日~23日)
    二郎・父・母・お直・お重・芳江・(兄)

第6回 嫂の亡霊~「あの落付、あの品位、あの寡黙、誰が評しても彼女はしっかりし過ぎたものに違いなかった。驚くべく図々しいものでもあった」~父からの突然の電話

 中断後の再構築だけあって、嫂の来訪シーンは非常に丁寧な描き方になっていた。

・1回~4回 リアルタイムに嫂を描く。
・5回 嫂が帰った夜に彽徊家らしく嫂を偲ぶ。
・6回 翌日以降も嫂の幽霊が去らない。

 図々しいまでに落ち着いているというのは、那美さん(『草枕』)、藤尾(『虞美人草』)にもその徴はあるが、美禰子(『三四郎』)が嚆矢であろうか。お直のあとは、やはり清子(『明暗』)であろう。そのしっかりした女たちが男によって揺れそうになる、あるいは揺れる。これが漱石の小説の醍醐味であろう。

 すると①五日目の土曜の午後に突然父から事務所の電話口迄呼び出された。
「御前は二郎かい」
「そうです」
「明日の朝一寸行くが好いかい」(『塵労』6回)

第7回 父はとうとう十時頃になって遣って来た~「大方床の中で待ってたんだろう」

第8回 上野の表慶館~精養軒は兄の友人Kの披露宴で貸切~三橋の洋食屋で昼食

 父は立ち留って木の間にちらちらする旗の色を眺めていたが、やがて気の付いた風で、「②今日は二十三日だったね」と聞いた。其日は二十三日であった。そうしてKという兄の知人の結婚披露の当日であった。
「つい忘れていた。一週間ばかり前に招待状が来ていたっけ。一郎と直と二人の名宛で」
「Kさんはまだ結婚しなかったのですかね」
「そうさ。善く知らないが、③まさか二度目じゃなかろうよ」(同8回)

 お直が去って、6回の冒頭に、「夫から三四日の間というもの自分の頭は絶えず嫂の幽霊に追い廻された」とあり、その「①五日目の土曜の午後」に勤務先で父の電話を受ける。翌日の日曜は23日であるという(②)。『塵労』執筆年の大正2年、3月23日はまさしく日曜日であるから、漱石は自信を持ってこう書いたのだろう。
 連載は当初この辺で終わる筈であったから、暦は合う。病気中断で秋まで延びたので、夏の一郎の旅行を以って続篇の『塵労』とした。すると1年前の物語の発端はまさに明治大帝の御病気・崩御・服喪期間と重なるが、長野家は何事もなかったように関西旅行を終えたことになるので、ふつうの作者なら気にするところである。
 もちろんこんなことは作品(の芸術性)にとってどうでもいいことだが、ではなぜ①や②のような書き方をわざわざするのか、ということになる。このような年次を特定されるような書き方をしなくても、『行人』の「芸術性」に何の支障もない。おまけに何度も繰り返して恐縮だが、その起点たる嫂の来訪を、ご丁寧にも「お彼岸の中日の翌日」と書いてもいるのである。
 漱石はわざと書いているのだろうか。そして周囲の人たちは本当に何も言わなかったのだろうか。漱石はそのあと3年生きて『心』『道草』『明暗』という偉大な記念碑を残している。作家自身が気にならなかったのはよく分かる。それはいい。しかし漱石の心酔者なら、気を揉んで本人なり新聞社なり版元に、葉書の1本も出したくなるのではないか。

 まあ愚痴はこれくらいにしておこう。当時土曜の半ドンは定着していたが、二郎はすぐには下宿へ帰らなかったようである。
 そして③の記述から、一郎の年齢も(お直との年齢差も)だいたい想像がつく。物語の今現在を明治45年として、二郎は前述の「三沢の年表」によると28歳であるから、お直もまず28歳。一郎はズバリ38歳とみる。一郎とお直は31歳と21歳で結婚した。もちろん漱石夫妻と同じ30歳と20歳での結婚を想定して何の問題もない。
 漱石は自分の経歴を閲覧して、『猫』を書くことのない一郎がどのように人生の危機を乗り切るか、あるいはそのまま流されてしまうのか、それは『行人』のあからさまなテーマでは当然あり得ないわけだが、それが改めて気になって『塵労』の独立になったとは言える。

第9回「いいから御出よ。自分の宅じゃないか。偶には来るものだ」

第10回 久し振りの家族との会話~兄は友人Kの結婚式の招待を受けていた

第11回 お重の話~兄は心霊術に凝っている~「そんなものに罹るのはコレラに罹るより厭だわ妾」

第12回「変人なんだから、今迄もよく斯んな事があったには有ったんだが、変人丈にすぐ癒ったもんだがね。不思議だよ今度は」~二郎は兄に旅行でも勧めてみることに

 ・・・彼等の挙げた事実は、お重を通して得た自分の知識に裏書をする以外、別に新しい何物をも付け加えなかったけれども、其様子といい言葉といい、如何にも兄の存在を苦にしているらしく見えて、甚だ痛々しかった。④彼等(ことに母)は兄一人のために宅中の空気が湿っぽくなるのを辛いと云った。(同12回)

 父が自分の下宿を訪れるという、およそ漱石の作品でも人生でも考えられないようなシチュエーションは(似たようなことさえ一度もない)、連載の3回を費やして(部屋には1回分も滞在しなかったが)、結局二郎を家に連れて来るためだけのものであった。お直が二郎の下宿にやって来た5回か6回分の、所謂裏を返したわけでもあるまい。しかしこのくだりは、そんなことより一郎の友人Kの結婚披露という、何でもないようなエピソードの紹介の方が、『塵労』の今後の展開の埋められた芋になっているようである。(一郎はお直を置いて一人で出掛けた。)

 父はなぜ来たのか。1週間前の「嫂の訪問に何か関係がある」(6回)のか。父がお直の遺留品なり痕跡を調べに来たのなら、これは懼ろしいことであるが、小説はもちろんそんな方向へは行かなかった。
 二郎の不安は結局答えられないままで終わった。嫂の来訪のときと同じであるが、これが志賀直哉のいう風合いの合わないところであろう。(推理小説のように)先に材料だけ出してしまう。問題だけ提示する。その答えは書かれないか、書かれても非常に分かりにくい。これは小説にとって損であるというのが志賀直哉の意見である。(漱石新聞小説である以上、読者の興味をつなぐ必要もあるという考えである。)
 二郎が家を出てから、一郎の変人ぶりが家族を悩ませる度合いが高まったという。その分お直への風当たりは却って弱くなった。二郎の退去はお直には幸いした。二郎のいない長野家は崩壊に向かうのか。どこにでもあるような家庭であるといえば、その通りであるが。こんなことが父の来訪の「答え」なのだろうか。

 ところで作者の注釈たる小説本文の「括弧書き」であるが、漱石作品の中では、『彼岸過迄』から始まって『行人』でも目立つようになった。上記④は目立たない例であるが、『行人』では次のようなものが代表的である。

 彼女は最後に物凄い決心を語った。海嘯に攫われて行きたいとか、雷火に打たれて死にたいとか、何しろ平凡以上に壮烈な最後を望んでいた。自分は平生から(ことに二人で此和歌山に来てから)体力や筋力に於て遥に優勢な位地に立ちつつも、嫂に対しては何処となく無気味な感じがあった。そうして其無気味さが甚だ狎れ易い感じと妙に相伴っていた。(『兄』38回)

 自分が兄から別室に呼出されたのは夫が済んで少時してであった。其時兄は常に変らない様子をして、(嫂に評させると常に変らない様子を装って、)「二郎一寸話がある。彼方の室へ来て呉れ」と穏かに云った。自分は大人しく「はい」と答えて立った。(『兄』42回再掲)

 漱石の書き方について何人も意見を差し挟むことは許されない。しかし引用した箇所だけを見ても、漱石らしくないという感じはする。括弧書きは次作の『心』でも採用され続けたが、『道草』でいったん収まった。『明暗』ではなぜか3ヶ所だけ出現している。
 1人称小説になったせいである、とは言える。では『彼岸過迄』の前半部分は田川敬太郎の3人称小説であるが、ここで早くも括弧書きが見られるのである。
 いずれも推敲すれば括弧書きをする必要はないと気付くはず。まあ『彼岸過迄』『行人』『心』だけのローカルルールと見て、この中期三部作は、「短篇形式三部作」のほかに「善行三部作」「自画自讃三部作」「不思議三部作」「謀略三部作」「一人称三部作」などと、前著や本ブログで言い言いしたが、ここに「括弧書三部作」も付け加えることになりそうである。

 その意味で、『三四郎』に1ヶ所だけある下記の括弧書きは、設置箇所からしてまったく未編集(草稿)のような、漱石の括弧書きから逸脱した、異質のものであると言える。

 後ろから看護婦が草履の音を立てて近付いて来た。三四郎は思い切って戸を半分程開けた。そうして中にいる女と顔を見合わせた。(片手に握りハンドルった儘)
 眼の大きな、鼻の細い、唇の薄い、鉢が開いたと思う位に、額が広くって顎がこけた女であった。・・・(『三四郎』3ノ12回/三四郎とよし子の初対面シーン)

 ここもまた、漱石に進言する者はいなかったのだろうかと思わざるを得ない。