明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 32

199.『塵労』1日1回(1)――嫂の来訪


 『塵労』をまとまった1つの小説と見ると、ボリューム的には『坊っちゃん』『須永の話+松本の話(彼岸過迄)』『先生の遺書(心)』にほぼ等しい。漱石としては言いたいことの一番言いやすい枚数ではないか。しかし肝心の、その漱石の言いたいことというのは、『塵労』全52回を読む限りではなかなか読者には伝わって来ない。
 『塵労』を『行人』の大いなる統合として読む場合でも、事態は同じである。『行人』の目指すものについて、読者はよく分からないまま巻を措くことになる。
 では『塵労』は長過ぎるあとがきであろうか。無駄に追加された、それでいて一番長い楽章なのであろうか。

 前項でも述べたが、『行人』が『友達』『兄』『帰ってから』で終わろうとしていたこと自体は疑う余地がない。すると『塵労』はお直の下宿訪問シーン以外は、病気中断の後から付け足された、『行人』の外伝ということになる。『塵労』の前半を、前3話の後日譚・補足・言い訳と見れば、『塵労』の後半は一郎の苦渋に満ちた人生哲学の披露である。あるいはHさんと一郎の弥次喜多道中記である。そうだとして尚、『塵労』の『行人』の中での役割は分からない。『行人』は(当初の目論見通り)お直の訪問で終わってよかったのではないか。
 これは『明暗』が津田と清子の邂逅で強制終了したことと、不思議な一致を見せている。『明暗』の続編は決して『塵労』から類推されるものではないが、外見だけで言えば、『明暗』の続編は『行人』における『塵労』のような形になるのではないか。
 つまり『明暗』の続編は当然津田と清子の再会シーンの途中から始まるわけであるが、それを『塵労』のお直の下宿訪問シーンの途中と見れば、案外『明暗』の物語の続きは、その骨組みだけは、『塵労』に似たものになるのではないか。『行人』は作者の3ヶ月か4ヶ月の中断で続篇が書き始められた。『明暗』はすでに100年以上が経過しているが、それがどうしたというのだろうか。

 まあ『明暗』のことを言っても始まらないので、ここでは労作『塵労』の、漱石のその苦悩の跡を辿るしかないが、まずその暦について、スタートの確定をしなければならない。
 『行人』の物語は明治44年7月に始まり、8月の和歌山旅行を経て12月のお貞さんの結婚、そして翌明治45年3月お彼岸のお直の下宿訪問が『塵労』のスタートである。前述のようにその部分だけ『帰ってから』を引き摺っていると見てもいい。
 その6日後の父の下宿訪問が3月23日の日曜日と書かれるが、これについては漱石の勘違いと見るのが一般的だが、漱石は春のお彼岸の中日を、つい3月15日の近辺と思い込んだのではないか。源氏の末裔漱石は、もともと坊主の決めた暦なんぞに興味はないのである。漱石は九星すら平気で出鱈目を書いている(『道草』5回)。
 したがってここでは、お直の高等下宿訪問事件は明治45年3月17日としておく。『塵労』はこの日に始まり、おそらく6月卒業試験終了後、一郎の修善寺鎌倉旅行を以って幕を閉じた。
 明治を(まるごと)生きた漱石にあって、『行人』は最後の明治の小説となった。そして次作『心』にはちゃんと天皇崩御や御大葬まで描いてある。西国からやって来た天皇にあまり関心の無かった江戸人漱石にしては、律儀なところを見せたものである。

 ちなみに明治45年であれば3月17日は日曜、3月23日は土曜である。お直が一郎のいる日曜日に実家の墓参りをするはずはないから、この部分の曜日だけは、執筆時の大正2年の曜日を代用することにする。大正2年だと3月17日は月曜日、6日後の3月23日はめでたく日曜日である。

『塵労』 (全52回)

第1章 お直の来訪(明治45年3月17日)(『帰ってから』第9章を兼ねる)
    二郎・お直・下宿の下女

第1回 陰刻な冬は彼岸の風に吹き払われた~「風呂かい」「三沢だろう」「いいえ女の方です」~下女の笑い~客は嫂であった

「だって聞いても仰ゃらないんですもの」
 下女は斯う云って、①また先刻の様な意地の悪い笑を目元で笑った。②自分はいきなり火鉢から手を放して立ち上った。敷居際に膝を突いている下女を追い退けるようにして上り口迄出た。そうして③土間の片隅にコートを着た儘寒そうに立っていた嫂の姿を見出した。(『塵労』1回末尾)

 お重が来ても三沢が来ても、下女の出番はなかった。当然笑うこともない。お直のときだけ下女は意味ありげに笑いを見せる(①)。漱石の定番ではある。しかし上記引用文②の文章の巧みさ・力勁さ・(主人公の人物の)集中力はどうだろう。簡潔でしかも多くを語る。『塵労』におけるお直の初登場シーン③も、翻ってこちらは(英文調の)どうということのない文章だが、それが却って印象深いものにしている。このメリハリは初期の漱石にはなかったものである。

第2回「好く斯んな寒い晩に御出掛でした」「二郎さん、貴方も手を出して御あたりなさいな」「二郎さんは少時会わないうちに、急に改まっちまったのね」

「何で来たのだろう。何で此寒いのにわざわざ来たのだろう。何でわざわざ晩になって灯が点いてから来たのだろう」(同2回)

 二郎の驚きとともに寒さが強調される。予定稿では真冬であったから仕方がないが、寒くなければ都合の悪いことが、今後起きて来るのだろうか。

第3回「何故元のようにちょくちょく入らっしゃらないの」「少し仕事の方が忙しいもんですから」二郎は洋行を考えている~「男は気楽なものね」「だって厭になれば何処へでも勝手に飛んで歩けるじゃありませんか」

 自分はつと立って嫂の後へ廻った。彼女は半間の床を背にして坐っていた。室が狭いので彼女の帯のあたりは殆ど杉の床柱とすれすれであった。自分が其間へ一足割り込んだ時、彼女は窮屈そうに体躯を前の方へ屈めて「何をなさるの」と聞いた。自分は片足を宙に浮かした儘、床の奥から黒塗の重箱を取り出して、それを彼女の前へ置いた。
「一つ何うです」(同3回冒頭)

 漱石の文章にはほとほと感心させられる。巧み・力勁い・集中力と先に書いたが、これらの男性的躍動感に加えるに、そこはかとないユーモアが漱石の文章の最大の特長であろう。ことさらに『猫』や『坊っちゃん』のような書き方をしなくても、漱石には書く文章から自ずと滲み出してくる滑稽味がある。これは誠実な作者が、主人公に真に同化・親和して書いているためであろう。ユーモアを心掛けて書いているわけではなかろう。
 それと、この文章は火鉢の存在を前提としている。漱石がお彼岸にもかかわらず真冬のような天候にした理由がわかる。ちなみにお直は重箱の中身を御萩(秋~冬のイメジ)と言い、二郎は牡丹餅(冬~春のイメジ)と言う。漱石がわざと書いたのだとしたら、漱石らしくない芸の細かさである。

 上記引用文にすぐ続く文章、

「一つ何うです」
 斯う云いながら蓋を取ろうとすると、彼女は微かに苦笑を洩らした。重箱の中には白砂糖を振り懸けた牡丹餅が行儀よく並べてあった。昨日が彼岸の中日である事を自分は此牡丹餅によって始めて知ったのである。・・・(同3回)

 前述のようにここでは漱石がなぜこんな、自分で自分の小説に制約を課すような記述をしたのかという、問題を提起するに留める。思うに漱石は前作『彼岸過迄』の、ちょっと人を食ったようなタイトルが気になって、『行人』もまた早くから文字通り「彼岸過迄」で物語を終えるつもりでいたのかも知れない。繰り返すが、ここまで(お彼岸まで)が当初の『行人』の予定稿であったのだろう。するとその1週間後の父の訪問を、3月23日の日曜日と書いたのは、新しい『塵労』の始まりに際しての、漱石流のリセット宣言でもあったろうか。