明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 31

198.『帰ってから』1日1回(9)――宴のあと(つづき)


第8章 長野家の冬(1月~3月)
    二郎・母・お重・三沢・(一郎・お直・父)

第37回 下宿Ⅰ お貞さんが去ると共に冬も去った~二郎の下宿にはお重が時々やって来た
第38回 下宿Ⅱ 母も1、2遍来た~三沢は時々来た~嫂だけは来なかった~永いようで短な冬は、事の起こりそうで起らない自分の前を平凡に去って行った

 小説は最後に二郎の下宿を訪れる人たちを紹介して終わっている。父と兄が来ないのは当然である。明治の戸主が係累の下宿を訪れるわけにはいかない。『塵労』で父がやって来るシーンがあるが、この父は「おっちょこ」と書かれるくらいだから、例外的に尻が軽いのであろう。
 小説の最後のハイライトは勿論嫂の訪問シーンである。これを数回分書いて『行人』は終わる筈だった。下宿を訪れた嫂の哀しい愚痴で締め括られる筈であった。『行人』は岡田の愚痴に始まり、三沢、一郎、母、お重が入れ代わり立ち代わり愚痴りまくる。最後にお直がその中に一輪の花を咲かせるはずであった。

 おしなべて漱石作品は愚痴のオンパレードとも言えるが、登場人物の愚痴を聞いて読者が喜ぶわけはない。読者は自分の愚痴は誰かに聞いてもらいたいが、人の愚痴を聞くために小説を読んでいるのではなかろう。ではなぜ漱石がいつまでも読まれるかというと、漱石の膨大な愚痴は、実は我々自身の愚痴でもある。我々はそれを読むことにより、我々自身の愚痴を作者の漱石に聞いてもらっているとも言えるのである。
 話は飛ぶが、ドストエフスキィはそのもう一方の総大将であろう。ドストエフスキィは(お節介にも)我々が将来こぼすであろう愚痴まで語ってくれる。それどころか一生気付かず、こぼさないで済むような愚痴まで、無知な我々に代わってこぼしてくれているのである。我々は思いもよらぬ新しい愚痴を教えてもらって、それを人に吹聴さえするのである。

 それはともかく、我らがお重にも結婚問題があった。三沢にどうかという話は当然に持ち上がっていい。二郎は両親から打診を頼まれる。この話のあと作者の病が悪化して、小説は突然幕が引かれる。

 三沢は時々来た。自分はある機会を利用して、それとなく彼にお重を貰う意があるかないかを探って見た。
「①左右だね。あのお嬢さんも最う年頃だから、そろそろ何処かへ片付ける必要が逼って来るだろうね。早く好い所を見付けて嬉しがらせて遣り給え
 彼はただ斯う云った丈で、取り合う気色もなかった。②自分も夫限断念して仕舞った。
 永いようで③短な冬は、事の起りそうで事の起らない自分の前に、時雨、霜解、空っ風……と既定の日程を平凡に繰り返して、斯様に去ったのである。(『帰ってから』38回末尾)

 三沢のこの①の返答で二郎はあっさり撤収する。あきらめが早過ぎるのではないか。三沢は一般論を述べたに過ぎない。三沢はお重を断っていない。もしかすると歓んで照れ隠しを言っているのかも知れない。二郎はふつうなら、「では君が貰うというのは、どうだい」と1回くらい聞いてみてもバチは当たらない。これでは(鏡子の思い出の逸話も含めて)漱石の結婚の話が嚙み合わないわけである。漱石は結婚話には、YES も NO も言えないのである。漱石が言いたくないのは分かる。漱石は自分が言いたくないだけでなく、登場人物にも YES も NO も言わせないのである。舌を巻く徹底ぶりである。お重は堪るまい。

 最後にもうひとつ、引用した末尾の文章に、初版時の変更箇所が2ヶ所ある。

自分も(新聞掲載) → 自分は(初版)
短な冬(新聞掲載) → 短い冬(初版)

 原稿が見つからない以上あくまで推測の域を出ないが、漱石がわざわざ直したとはとても思えない。
 誰が直したのだろうか。弟子が直したのなら、その罪は万死に値する。
 単行本とそれを底本とする昭和の膨大な全集本(と文庫本)。その膨大な読者は③のような記述、漱石がこのように書いた(かも知れない)という事実に接しないまま、漱石の愛読者として一生を終えたのである。
 なまじ新聞の切り抜きを作ったばかりに、なまじ本にするときの校正を弟子に任せたばかりに、取り返しのつかないことが一ヶ所でも起こったなら、それは漱石の愛読者としては悔み切れない悲劇である。
 この例は論者の勘違いであってほしい、漱石の原稿が「短い冬」であってほしいと願う。あるいは漱石が自分の手で「短い冬」と修正した証拠が出て来てほしいと、心底そう思う。(論者の意見は勿論漱石が確信をもって原稿に「短な冬」と書いたというものである。)

 そしてこれは結果から言うのではあるが、『行人』は各篇の独立というよりは、それぞれ前の篇の最後の部分が、新しい篇の始めの部分に被さってくるような構成になっている。『兄』は長野家の関西旅行の話であるが、その冒頭の回は、前話で活躍した岡田夫婦がまだ頑張っている。旅行最後の行程は、『帰ってから』の頭にずれ込むので、「帰ってから」というのは関西旅行から東京に帰ってという意味ではなく、和歌山の宿泊事件から「帰ってから」ということだったのか、とは先に述べたところ。
 ところが予期せぬ病気のおかげで、『帰ってから』の末尾に書かれるはずだった嫂の訪問シーンが、新しい『塵労』の冒頭に来てしまった。
 結果的にはこれで『行人』の各篇の整合性は取れたわけだが、漱石としては苦笑するしかないだろう。漱石は一応それを否定するかのように、『塵労』の始まりに月日の経過を記述しているが、取って付けたようで読者は誰も気に留めない。

 漱石は年の暮れのお貞さんの結婚式のあと、お正月を過ぎてだいぶん経った頃を想定して、物語を閉じようとしたのではないか。
 実家への晩い、あるいは月遅れの年始の帰りがけの、お直の不意の訪問。
 戸外の寒風と下宿の部屋の小さい火鉢。
 二郎の部屋に届けられていたのは、お彼岸のおはぎではなく、大阪に落ち着いた新夫婦から取り敢えず送られた、里帰りの土産代わりの菓子(のおすそ分け)だったのではないか。
 止むを得ず中断することになったとき、漱石はこのシーンを先送りしたが、律儀にもお直の冬のうちの訪問をあきらめて、季節が通り過ぎようとするかのような一文(名文)で、ひとまず連載の幕を閉じた。

 この先は次の『塵労』の回で述べるべきかも知れないが、ここでついでに言っておくと、お直がやって来たのはお彼岸の最中であるという。
 たしかに3月下旬でも冬のように寒いことはある。寒がりの漱石が寒いと言う以上、読者として何も言うことはない。
 3ヶ月4ヶ月にわたる病臥の後の再開である。季節は去ったものの、正直な漱石は、そのときの「お直二郎高等下宿の場」の舞台設定まで変えてしまうほど器用でも狡猾でもなかった。
 お彼岸と書きながら、中身は真冬である。そういうこともある、と漱石は突き進んだようである。(まるでこの小説のタイトルが『彼岸過迄』であるかのように。)

 さらにこれまた漱石らしく、お直の訪問の後、日にちを数えて父の訪問を受けるくだりでは、(精養軒が貸切だったので)三橋の通りの洋食屋で食事した二郎も父も、はっきり今日が(3月)23日の日曜日であると、その必要もないのに声を揃えて宣言している。
 『行人』執筆中の大正2年3月23日はたしかに日曜であるが(物語の暦としては明治45年3月23日になり、その日は土曜であるが、それはこの際まあどうでもいいことである)、お彼岸の1週間後の日曜なら3月23日ではあるまい。ここだけはさすがに岩波の全集注解でも触れているが、読者も漱石の病気のせいだろうとは思う。
 しかし『三四郎』以来の来し方を知る者にとっては、漱石はなぜこんな、指を折って勘定しなくてもすぐ判るような誤りを、毎作毎作繰り返すのだろうと、むしろ不思議の念に堪えない。そうして当然乍らもっと不思議なのは、そんな漱石の作品が百年の命脈を保つ理由である。勿論簡単に言ってしまえば、「そんなのは(作品の価値に)関係ないこと」で片付けられよう。それで済めば楽である。何も考えなくていい。
 ただそこには何か目に見えない因縁があるのではないか、というのが小論立ち上げのそもそもの原拠である。
 シャーロックホームズの物語の面白さは、語り手たるワトスン博士の戦傷の部位や奥さんの名が、連載を続けているうちに変わってしまうということと決して無関係ではないと思われる。天才は細部に関心が無い。あるいは細部に神が宿るという言い方もある。天才は慥かに神の賜物であろう。漱石のカレンダーの数え損ないは、神の気紛れ(ランダム)だろうか。神の指令(意思)だろうか。