明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 37

204.『塵労』1日1回(6)――滞る日々(つづき)


 三沢も相変わらず負けていない。

 ①自分は大阪の岡田から受取った手紙の中に、相応な位地が彼地にあるから来ないかという勧誘があったので、ことによったら今の事務所を飛び出そうかと考えていた
「つい此間迄は洋行するって頻りに騒いでいたじゃないか」
 三沢は自分の矛盾を追窮した。自分には西洋も大阪も変化として此際大した相違もなかった。
「そう万事的(あて)にならなくっちゃ駄目だ。②僕丈君の結婚問題を真面目に考えるのは馬鹿馬鹿しい訳だ。③断っちまおう
 三沢は大分癪に障ったらしく見えた。④自分は又自分が癪に障ってならなかった
「一体先方では何ういうんだ。君は僕ばかり責めるがね、⑤僕には向こうの意志が少しも解らないじゃないか
「⑥解る筈がないよ。まだ何にも話してないんだもの
 三沢は少し激していた。そうして激するのが尤もであった。彼は女の父兄にも女自身にも、自分の事をまだ一口も告げていなかった。何う間違っても彼等の体面に障りようのない事情の下に、女と自分を御互の視線の通う範囲内に置いた丈であった。彼の処置には少しも人工的な痕迹を留めない、殆ど自然其儘の利用に過ぎないというのが彼の大いなる誇りであった。
「⑦君の考えが纏まらない以上は何うする事も出来ないよ
「⑧じゃもう少し考えて見よう」(『塵労』24回)

 二郎の優柔不断は前項のごとく確信犯的ではある。しかし三沢が②のように腹を立てるのは、あまりにも性急ではないか。見合いをしようという二郎が洋行や大阪転地を考えたからといって、それらは必ずしも矛盾とは言えない。二郎の④のような自責の念も、真意は不明である。二郎は漱石の分まで責任を取ろうとしているわけではなかろう。
 そして三沢の③は明らかにおかしい。二郎が⑤で当然ながら先方の意思を知りたがると、三沢は⑥のように先方には何も話してないと言う。なら、断るもクソもないではないか。しかし二郎はその矛盾を衝こうとはしない。二郎は三沢の感情を受け容れる。妙に納得するのである。三沢も二郎も半分漱石である以上、不思議ではないが。
 二郎は先方が何も知らない以上、現状ではすべてのカードは自分だけが持っているのであるから、三沢の気持ちに関係なく、あとは自分で決断するだけである。自分が決めれば話は先方に行く。それで断わられたら、(気分は悪いかも知れないが)話はおしまいである。それでいいではないか(と普通の人は思う)。
 漱石は何を恐れているのだろうか。自分が決断して結婚が成立したとして、その結婚が良かったとか悪かったとか、誰に責任があるとかないとかという話に、どうしてなると考えるのだろうか。『行人』で長らく語られた二郎や三沢の結婚問題が、⑦⑧のような問答に収斂するとすれば、肩透かしをくった読者はこのように感じざるを得ない。

 漱石の生き方をまとめると、

Ⅰ 見合いをする以上断らない。迷うなら始めからしない。
Ⅱ 自分からは諾否を言わない。
Ⅲ あくまで相手側または仲人の意思表示を待つ。

 である。これなら間違っても自分が「間違う」ことはない。見合いが恋愛であっても。

 ところで洋行も考えている二郎が、「自分は大阪の岡田から受取った手紙の中に、相応な位地が彼地にあるから来ないかという勧誘があったので、ことによったら今の事務所を飛び出そうかと考えていた。」(同24回)というのは、二郎の考え方は別にして、先にも述べたが二郎の専門を考えると、これはやはりあり得ない話であろう。岡田は保険会社の雇員であり、岡田が推薦できるのは営業や監理の、若い人向きの事務職だけである。なぜこんなことになったのか。これが二郎の(前項のHさんへの)嘘に対する罰に相当するものだったか。

 これは前述した建築科の三沢を、有楽町か京橋の設計事務所に紹介しようとしたHさんが、一郎と同じ文科の教授であったことと対をなす「専門外就職(未遂)事件」であろう。(文系丸出しの)二郎と三沢を理系の学生にした理由は、ここまでもう小説のほとんど最後まで読んで来ても、まったく分からない。

第6章 兄のいない家再び(6月22日)
    二郎・嫂・母・お重・芳江

第25回 二郎実家へ行く~実家では冷蔵庫を使い始めた~嫂との会話「だから妾の事なんか何うでも構わないのよ。だから旅に出掛けたのよ」~風呂から上がった母「おや何時来たの」(6/22土)
第26回「もう好い加減に芳江を起さないと又晩に寝ないで困るよ」~外出先から戻ったお重は知人宅で二郎の秘密をすっかり聞いて来たと言う(6/22土)
第27回 お重の暴露する二郎の見合い事件~母の尋問~我不関焉の嫂~日が暮れればすぐ寝かされる習慣の芳江は、昼寝のし過ぎでその日は二郎が帰るまで寝床に入らなかった(6/22土)
第28回 11日目の晩についに届いたHさんの手紙(7/2火~7/3水)(以下第7章「Hさんの手紙」へ続く)

 明治45年6月22日土曜、一郎は新橋から旅に出た。兄と父のいない家での物語の一応の終わり。お貞さんの結婚式の年末、半年の間に驚くほどの成長を見せた芳江は、次の半年では目立った成長はないようである。お重も母も、お直さえいつも通りの日常に見える。それよりこの1年で一番変わらなかったのは二郎ではないか。和歌山一泊事件を経験し、勤めを開始して新たに(おそらく生まれて初めて)下宿生活まで始めた。にもかかわらず28回でHさんの手紙を待ち受ける二郎は、小説の冒頭で三沢の連絡を待っているときと(当り前だが)殆ど同一人物である。
 思うに『行人』では多彩な登場人物より、その人たちを取り巻く様々な景色を含んだ、環境全体を堪能する小説であろうか。その中にあって世俗を超えた言動をする人物たちも、いつのまにか背景に融け込んで行くのである。

 その最後の風景として鎌倉が択ばれているが、源氏の末裔漱石にとって鎌倉や修善寺は馴染みの土地であったろう。『門』『彼岸過迄』『行人』『心』と、何と4作続けて鎌倉が大きな舞台として描かれている。漱石としては自分の生まれ育った界隈や学校のあった神田・本郷は別として、鎌倉の海と山には特別な愛着があったのだろう。ストイックな漱石はその愛着自体を小説に書くことはしなかったが、それが弱年時の江の島旅行だったか、もう少し大人になってからの、明らかにされない出来事であったか、少なくとも円覚寺の参禅や紅ヶ谷の避暑の体験ではないという気がする。