明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 38

205.『塵労』1日1回(7)――漱石と鎌倉


 前項で「『門』『彼岸過迄』『行人』『心』と4作続けて」と書いたが、『門』の鎌倉は主人公の参禅のための別格として、『彼岸過迄』からの3部作では、鎌倉は避暑地、旅行先の1つ、海水浴場として、晴れがましくも作者に撰ばれている。その意味で「鎌倉3部作」ともいえよう。
 鎌倉は漱石にとって馴染みの地であるが、処女作といっていい『猫』『坊っちゃん』『草枕』に、鎌倉の名は早くも登場している。

 ・・・猫と雖も相当の時機が到着すれば、みんな鎌倉あたりへ出掛ける積りで居る。但し今はいけない。物には時機がある。御維新前の日本人が海水浴の功能を味わう事が出来ずに死んだ如く、今日の猫は未だ裸体で海の中へ飛び込むべき機会に遭遇して居らん。・・・(『猫』7章/全11章のうち)

迷亭「どっちがいたずら者だか分りゃしない。僕は禅坊主だの、悟ったのは大嫌だ。僕の近所に南蔵院と云う寺があるが、あすこに八十許りの隠居がいる。それで此間の白雨(ゆうだち)の時寺内へ雷が落ちて隠居の居る庭先の松の木を割いて仕舞った。所が和尚泰然として平気だと云うから、よく聞き合わせて見るとから聾なんだね。それじゃ泰然たる訳さ。大概そんなものさ。独仙も一人で悟って居ればいいのだが、稍ともすると人を誘い出すから悪い。現に独仙の御蔭で二人ばかり気狂にされているからな」
(苦沙弥)「誰が」
「誰がって。一人は理野陶然さ。独仙の御蔭で大に禅学に凝り固まって鎌倉へ出掛けて行って、とうとう出先で気狂になって仕舞った。円覚寺の前に汽車の踏切りがあるだろう、あの踏切り内へ飛び込んでレールの上で座禅をするんだね。夫で向こうから来る汽車をとめて見せると云う大気焔さ。尤も汽車の方で留ってくれたから一命丈はとりとめたが、其代り今度は火に入って焼けず、水に入って溺れぬ金剛不壊のからだだと号して寺内の蓮池へ這入ってぶくぶくあるき廻ったもんだ」
「死んだかい」
「其時も幸、道場の坊主が通りかかって助けてくれたが、其後東京へ帰ってから、とうとう腹膜炎で死んで仕舞った。死んだのは腹膜炎だが、腹膜炎になった原因は僧堂で麦飯や万年漬を食ったせいだから、詰る所は間接に独仙が殺した様なものさ」(『猫』9章/全11章のうち)

 ・・・生れてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一所に鎌倉へ遠足した時許りである。今度は鎌倉所ではない。大変な遠くへ行かねばならぬ。・・・(『坊っちゃん』1章/全11章のうち)

 ・・・あなたも御見受け申す所大分御風流で居らっしゃるらしい。ちと道楽に御始めなすっては如何ですと、飛んでもない勧誘をやる。二年前ある人の使に帝国ホテルへ行った時は錠前直しと間違えられた事がある。ケットを被って、鎌倉の大仏を見物した時は車屋から親方と云われた。其外今日迄見損われた事は随分あるが、まだおれをつらまえて大分御風流で居らっしゃると云ったものはない。大抵はなりや様子でも分る。・・・(『坊っちゃん』3章/全11章のうち――下宿の主人いか銀と)

 石段の上で思い出す。昔し鎌倉へ遊びに行って、所謂五山なるものを、ぐるぐる尋ねて廻った時、たしか円覚寺の塔中であったろう、矢張りこんな風に石段をのそりのそりと登って行くと、門内から、黄な法衣を着た、頭の鉢の開いた坊主が出て来た。余は上る、坊主は下る。すれ違った時、坊主が鋭どい声で何処へ御出なさると問うた。余は只境内を拝見にと答えて、同時に足を停めたら、坊主は直ちに、何もありませんぞと言い捨てて、すたすた下りて行った。あまり洒落だから、余は少しく先を越された気味で、段上に立って、坊主を見送ると、坊主は、かの鉢の開いた頭を、振り立て振り立て、遂に姿を杉の木の間に隠した。其間かつて一度も振り返った事はない。成程禅僧は面白い。きびきびして居るなと、のっそり山門を這入って、見ると、広い庫裏も本堂も、がらんとして、人影は丸でない。余は其時に心からうれしく感じた。世の中にこんな洒落な人があって、こんな洒落に、人を取り扱ってくれたかと思うと、何となく気分が晴々した。禅を心得て居たからと云う訳ではない。禅のぜの字も未だに知らぬ。只あの鉢の開いた坊主の所作が気に入ったのである。
 世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、其上ずうずうしい、いやな奴で埋っている。元来何しに世の中へ面を曝して居るんだか、解しかねる奴さえいる。しかもそんな面に限って大きいものだ。浮世の風にあたる面積の多いのを以って、さも名誉の如く心得ている。五年も十年も人の臀に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思ってる。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える。前へ出て云うなら、それも参考にして、やらんでもないが、後ろの方から、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと云う。うるさいと云えば猶々云う。よせと云えば益云う。分ったと云っても、屁をいくつ、ひった、ひったと云う。そうして夫が処世の方針だと云う。方針は人々勝手である。只ひったひったと云わずに黙って方針を立てるがいい。人の邪魔になる方針は差し控えるのが礼儀だ。邪魔にならなければ方針が立たぬと云うなら、こっちも屁をひるのをもって、こっちの方針とする許りだ。そうなったら日本も運の尽きだろう。(『草枕』11章/全13章のうち)

 いずれの場合もごく自然に「鎌倉」が出てくる。『草枕』は主人公の述懐をつい余分に引用してしまったが、ここは漱石の本音が聞ける有名なくだりである。紙に印刷までして引用するのは気が引けるが、これが(いくら資源を使うとはいえ)電子媒体の有難いところである。

 それはともかく、ほかの作品には本当に鎌倉の文字はない(皆無ではないだろうが)。『永日小品』『思い出す事など』『硝子戸の中』等の随筆にも、ありそうだが鎌倉や江の島は出て来ない。日記や手紙には当然出て来るが、それはそれでまた別の話である。
 鎌倉ということでついでに言えば、作品以外の漱石全集で印象に残るのは、予備門仲間の太田達人の語る江の島旅行時の逸話。

 ・・・仕方がないから、誰か一人だけ負って渡して貰って、自余の連中はその後にくっ附いて海の中を渡渉ることに相談を極めました。そこで誰が負さるかという段になると、夏目が真先に「おれが負さる」と云い出した。そこらは素早い男でしたよ。(岩波版漱石全集別巻『漱石言行録』太田達人「予備門時代の漱石」)

 これは『行人』の次のシーンを彷彿させる。

 三沢は看護婦に命じて氷菓(アイスクリーム)を取らせた。自分が其一杯に手を着けているうちに、彼は残る一杯を食うといい出した。自分は薬と定食以外にそんなものを口にするのは好くなかろうと思って留めに掛った。すると三沢は怒った。(『行人/友達』13回)

 正直なのである。子供っぽいともいえるし、イノセントという言い方もある。

 『塵労』で鎌倉の地が直截に描かれているところといえば(漱石は『行人』ではいっさい鎌倉と書かず、代わりに紅が谷という地名を使用しているが)、以下のような箇所であろう。

 一昨日の晩は二人で浜を散歩しました。私たちの居る所から海辺迄は約三丁もあります。細い道を通って、一旦街道へ出て、また夫を横切らなければ海の色は見えないのです。①月の出にはまだ間がある時刻でした。波は存外暗く動いていました。眼がなれる迄は、水と磯との境目が判然分らないのです。兄さんは其中を容赦なくずんずん歩いて行きます。・・・(『行人/塵労』49回冒頭)

 『塵労』の下敷となった明治45年夏の鎌倉紅ヶ谷の別荘行きであるが、(大正に改元された)8月の漱石の日記を、『漱石全集第20巻/日記断片下』から一部抜粋して引用する。

〇八月二日(金)鎌倉に行き二日三日とまって四日の夜帰る。
 ②伸六、二日程前より熱。猩紅熱ときまって今朝病院に入院したという。車で行って見る。東京から呼び寄せた看護婦とつねが世話をしている。・・・
 夜は夜具が足りないのを工夫して二つの蚊帳に③子供六人我等夫婦岡田とみねと寝る。

〇三日(土)小宮が藤村の菓子をもってくる。④みんなで海へ行く。遠浅でよき所なり。子供等は浮ぶくろを背負ってボチャボチャす。

〇四日(日)寒いのを我慢して海へ這入る。・・・
 ⑤五時頃伸六の見舞に行く。・・・
 六時の汽車で帰る。日曜だものだから中等客一杯。小宮と一等に移る。・・・
 松の枝に御櫃が干してある。⑥蟹が松の下を這う。(「明治45年/大正元年 日記11B」

 大正元年8月2日頃の月齢はほぼ満月、月の出は夜9時くらいである。まさに『塵労』の①の記述「月の出にはまだ間がある時刻でした」と景色は合致している。④で分かるように漱石はこの頃に鎌倉の海に(久し振りかに)行っているから、『塵労』の海の描写もこのときのものであろう。⑥の蟹のシーンも小説に使われている。

 ところで鎌倉では②と⑤から伸六が入院していたことが分かる。しかるに③の記述「子供六人」はどうであろうか。漱石の子は4女2男6人であるから(五女雛子は前年暮れに亡くなっている)、伸六が入院したら残りは5人ではないか。このとき1つの蚊帳に鏡子・純一・漱石・岡田耕三の順に4人、もう1つの蚊帳に4人の女の子と女中のみね、、が寝たと思われる。小宮豊隆が泊まったときは岡田が帰ったのだろう。それはどうでもいいが、漱石は子供の数を数え間違えている。
 もちろん漱石は実際に数えはしなかったのだろうが、まだ雛子が頭数に入っていたのか、つい自分の子供が6人だから6人と書いてしまったのか、いずれにせよ日記の書き間違いを、まさか将来(それも赤の他人に)指摘されようとは、さすがの漱石も夢にも思っていなかったであろう。