206.『塵労』1日1回(8)――全旅程表
《移動・宿泊行程》(=は旧国鉄の幹線 -はそれ以外の鉄路を示す)
1日目
新橋=大船(逗子鎌倉へは行かずそのまま東海道線)=国府津=(御殿場線)=三島=沼津。
沼津2泊。
5日目
修善寺-三島=(御殿場線)=国府津-小田原。
小田原1泊。
6日目夕
小田原-箱根。
箱根2泊。
8日目
箱根-小田原-国府津=大船=鎌倉。
鎌倉3泊目にて手紙(小説)終了。
《全旅程》
1日 6/22土 新橋-沼津 (30回~32回)
2日 6/23日 沼津2泊目 (33回・34回)
3日 6/24月 沼津-修善寺 (35回)
4日 6/25火 修善寺2泊目 (36回・37回)
5日 6/26水 修善寺-小田原(38回)
6日 6/27木 小田原-箱根 (39回~43回)
7日 6/28金 箱根2泊目 (44回)
8日 6/29土 箱根-鎌倉 (45回~50回)
9日 6/30日 鎌倉2泊目 (51回)
10日 7/1月 鎌倉3泊目 (52回)
11日 7/2火 手紙投函-配達(A案)
12日 7/3水 手紙投函-配達(B案)
沼津・修善寺・小田原・箱根・鎌倉、すべて2泊ずつだと納まりが良いが、小田原だけが1泊である。鎌倉の3泊目は夜のうちに小説が終っているようである。
《手紙はいつ書かれたか》
①其翌日からHさんの手紙が心待に待ち受けられた。自分は一日、二日、三日と指を折って日取を勘定し始めた。けれどもHさんからは何の音信もなかった。絵端書一枚さえ来なかった。・・・
②すると二人が立ってから丁度十一日目の晩に、重い封書が始めて自分の手に落ちた。(『塵労』28回冒頭)
①のその翌日というのは、出発日6月22日の翌日6月23日であるから、そこから1日2日と数えるのであれば、②で11日目の晩に配達されたというのは、7月3日の晩ということになる。
②を単独で字義通りに解釈すると、出発日6月22日から11日目の晩は、7月2日の晩である。
どちらにしても投函は当日の朝であろうから、手紙は前日の夜の間には書き終えていたとして、ではその日かいつか。
私は旅行に出てから今日に至る迄の兄さんを、是で出来る丈委しく書いた積です。東京を立ったのはつい昨日のようですが、指を折るともう十日あまりになります。私の音信を宛にして待って居られる貴方や御年寄には、此十日が少し長過ぎたかも知れません。私もそれは察しています。然し此手紙の冒頭に御断りしたような事情のために、此処へ来て落ち付く迄は、殆ど筆を執る余裕がなかったので、已むを得ず遅れました。其代り過去十日間のうち、此手紙に洩れた兄さんは一日もありません。私は念を入れて其日其日の兄さんを悉く此一封のうちに書き込めました。それが私の申訳です。同時に私の誇りです。私は当初の予期以上に、私の義務を果し得たという自信のもとに、此手紙を書き終るのですから。(同52回冒頭)
Hさんの手紙が上記旅程の1日~10日を内容とするものであることは間違いない。ではそれが書かれた日とはいつか。
我々は③二三日前から此紅が谷の奥に来て、疲れた身体を谷と谷の間に放り出しました。・・・(同29回冒頭)
④一昨日の晩は二人で浜を散歩しました。私たちの居る所から海辺迄は約三丁もあります。細い道を通って、一旦街道へ出て、また夫を横切らなければ海の色は見えないのです。・・・(同49回冒頭)
⑤昨日の朝食事をした時、飯櫃を置いた位地の都合から、私が兄さんの茶碗を受けとって、一膳目の御飯をよそってやりますと、兄さんは又お貞さんの名を私の耳に訴えました。・・・(同51回冒頭)
⑥・・・幸福は嫁に行って天真を損われた女からは要求出来るものじゃないよ」
兄さんはそういうや否や、茶碗を取り上げて、むしゃむしゃてこ盛の飯を平らげました。(同51回末尾)
私は旅行に出てから⑦今日に至る迄の兄さんを、是で出来る丈委しく書いた積です。・・・(同52回冒頭再掲)
Hさんが手紙を書き始めたのは、2人の旅が鎌倉の紅ヶ谷の小別荘へ落ち着いてからである。旅館と異なり部屋数が多いので、夜一郎が寝た後に書ける。Hさんは旅行の初日2日はその気が全くない。3日4日はちょっと考え直して、5日6日でやはり手紙を書くべきかと思うようになった。
旅行8日目の鎌倉の1日目の夜、意を決して手紙を書き始めたのだろう、2日間で箱根までの出来事を書いて、鎌倉3日目の夜(7月1日)、鎌倉入りした初日と2日目を書いて、手紙を結んだ。鎌倉2日目の方の記事は上記引用文⑤~⑥のように、朝食時にお貞さんの話をしながら飯を食ったということだけで終わっているから、細かいことを言うようだが、Hさんの言う⑦の「今日に至る迄」というのは、正確には「昨日の朝に至る迄」が正しい。鎌倉3日目(7月1日)のコンテンツがないまま、Hさんはその夜手紙を書き終えたのである。
二郎が知りたいのは一郎の最もホットな情報ではないか。だからこそ当初毎日報告してくれと頼んでHさんを不快がらせたのである。直近の1日の様子を省略した手紙というものが考えられるだろうか。たとえば病人の症状報告をするとして、一番肝心なのは今の状態であろう。たしかに一郎は今寝ているのかも知れないが、今日1日どんな様子だったのか、トピックスはなかったのか、手紙であるからには何よりもまず、それが書かれるべきではなかったか。
《執筆日と投函日のまとめ》
1日目 6/29土 鎌倉1泊目の夜 内容28回~35回(旅程6/22~6/24)
2日目 6/30日 鎌倉2泊目の夜 内容36回~44回(旅程6/25~6/28)
3日目 7/1日 鎌倉3泊目の夜 内容45回~52回(旅程6/29~6/30)
投函日 7/2月 朝
配達日 7/3火 晩(A案を採用)
ところで上記③「二三日前」の記述を信じると、Hさんは鎌倉3泊目(7/1)の夜に手紙全体をいっぺんに書いてしまったように読める。29回の、手紙のほぼ冒頭で鎌倉到着6月29日を「二三日前」と告げているわけであるから、手紙を書いている「今」は7月1日である。そしてHさんの筆が旅程を消化して鎌倉まで漕ぎ着けた49回で尚、④「一昨日」と書いているということは、やはり鎌倉到着6月29日、「今」が7月1日というスケールは維持されているのである。
Hさんが鎌倉3日目に全体をまとめてリライトしたとは考えられないから、やはり「Hさんの手紙」における漱石の立て付けは、
Ⅰ 沼津から箱根までは旅程に応じて、自分(Hさん)の体験・記憶をそのまま報告する。
Ⅱ 鎌倉到着後は環境が変わったのでリセットして別扱いとする。
Ⅲ 手紙完成の7月1日を基準として、鎌倉の3日間(実際は1日半)を(小説ふうに)報告する。
というものであったろうか。鎌倉での出来事が、それまでの内容と特に変わっているというわけではない。ではなぜ鎌倉なのか。
考えられる理由としては、明治45年7月から8月にかけて、紅ヶ谷も含めて漱石自身が何度か鎌倉を訪れていることが挙げられる。つまり沼津から箱根まではおおむねフィクション(修善寺も含めて)、鎌倉だけは自分の体験を活かしたということだろう。
呆れるばかりの自己に対する忠実さである。読者に対する誠実さと言い換えてもいい。Hさんも大した文士であると、言えなくもない。