明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 33

200.『塵労』1日1回(2)――嫂の来訪(つづき)


第4回
 珍しく嫂の方から兄との夫婦仲が悪くなる一方であることを打ち明けられる「二郎さん御迷惑でしたろう斯んな厭な話を聞かせて。妾今迄誰にもした事はないのよ、斯んな事。今日自分の宅へ行ってさえ黙ってる位ですもの」

「何うせ妾が斯んな馬鹿に生れたんだから仕方がないわ。いくら何うしたって為るように為るより外に道はないんだから。そう思って諦らめていれば夫迄よ」

「男は厭になりさえすれば二郎さん見たいに何処へでも飛んで行けるけれども、女は左右は行きませんから。妾なんか丁度親の手で植付けられた①鉢植のようなもので一遍植えられたが最後、誰か来て動かして呉れない以上、とても動けやしません。凝っとしている丈です。立枯になる迄凝っとしているより外に仕方がないんですもの」

「兄さんは只機嫌が悪い丈なんでしょうね。外に何処も変った所はありませんか」
「左右ね。②夫ゃ何とも云えないわ。人間だから何時何んな病気に罹らないとも限らないから」(以上『塵労』4回)

 お直の嘆きが当初から予定されていたものか、『塵労』のために改めて嘆かれたものかは、俄かに断じがたい。あまり嘆き過ぎると小説が終らなくなるからである。実際にはお直はたっぷり愚痴をこぼして、独立した『塵労』の導入部の役割を果たす。

 お直は冷たい雨の中を帰って行った。なぜ来たのだろうか。愚痴を言うためだけにわざわざ二郎の下宿を訪れたのだろうか。
 ちなみに『明暗』の現行のラストシーンの清子のセリフが、②の「そりゃ何とも云えないわ」とまったく同一である。男に決しておもねることのない女として、お直の直系の子孫が清子であろう。彼女たちの預言通り、『行人』と『明暗』は作者の病気中断に至ったのである。(そして『行人』だけが再開された。)

第5回 二郎は兄のことが心配である~お直は兄のことは話そうとしない~お直は愚痴や具体的な不平を訴えに来たのではないようだ~ではなぜ二郎に会いに来たのだろう

 彼女は火鉢にあたる自分の顔を見て、「何故そう堅苦しくして居らっしゃるの」と聞いた。自分が「別段堅苦しくはしていません」と答えた時、彼女は「だって反っ繰り返ってるじゃありませんか」と笑った。其時の彼女の態度は、細い人指ゆびで火鉢の向こう側から自分の頬ぺたでも突っつきそうに狎れ狎れしかった。彼女は又自分の名を呼んで、「吃驚したでしょう」と云った。突然雨の降る寒い晩に来て、自分を驚かして遣ったのが、左も愉快な悪戯ででもあるかの如くに云った。……(同5回)

 出来事をいつまでも反芻するのが彽徊趣味である。お直は猫背気味に火鉢に被さって来た。二郎がそっくり返ったのはお直の富士額が迫ったためである。
 上に引用したこの印象的なシーンは、おそらく小説の掉尾をかざるものとして、以前から漱石の頭の中にあったのだろう。それを(漱石の直接語り下ろす文でなく)二郎の彽徊というフィルターを通して書いたのは、たぶん正直な漱石は、数ヶ月のインターバルを挟んだため、お直の言動が回想シーンのように感じられたのであろう。対象をそのとき自分が感じた通りに書く。こんな正直な作家が他にいるだろうか。

 しかし実際には小説はここで終わらない。それどころかこれから始まるのである。これは漱石のキャリアからすると信じ難いことではあるが、とにかく小説は嫂の告白を受けて、再び動き出す。お直は二郎に救けを求めたのだろうか。お直は(三沢のあの出帰りの娘さんみたいに)淋しくって堪らなかったのか。
 ①の鉢植の比喩は身につまされるが、従来の日本人にはなかった発想であろう。女に女が希むような花を咲かせてやる。明治の男たる一郎にそんな事は出来そうにない。二郎もまた、お直の悩みすら理解出来ないだろう。お直はまるで、私を引っこ抜いて、一緒に外地でもどこでもいいから連れて行って頂戴、と言っているようである。

 ところで前項で繰り返し感心した漱石の文章であるが、当時漱石の小説に登場する高等遊民さながらの生活を送っていた志賀直哉が、連載の再開された『塵労』のことを日記に書いている。
 志賀直哉大正元年11月、『行人』の連載が始まった頃、尾道に行った。ほどなく第一創作集『留女(るめ)』が出た。大正2年春には『行人』は中断、漱石が回復しつつあった8月に、上京中の志賀直哉は山の手線の電車に撥ねられる。退院して城崎温泉に行く前、『行人』の連載が再開された。

(大正二年)九月二十七日 土
「行人」の続きを少し読んで見た。夏目さんのものとしていい物と思う。漾(ただよ)っている或気分に合わぬものがあるが、筆つきのリッチな点は迚(とて)も及ばぬ。(昭和48年11月版岩波書店志賀直哉全集第10巻日記1』)

 志賀直哉は7月7日の日記にも、

 夏目さんが時事新報の質問に答えて「留女」をほめた。(同上)

 と書いている。その7月7日付時事新報の記事というのは次の通りである。

 此春病気にて志賀直哉氏の『留女』を読み感心致して、其時は作物が旨いと思う念より作者がえらいという気が多分に起り候。斯ういう気持は作物に対してあまり起らぬものに候故わざわざ御質問に応じ申候。・・・(『漱石全集第25巻/別冊上』応問)

 志賀直哉はまめに日記をつける人ではなかったが、処女出版を褒められて嬉しかったことは想像に難くない。漱石志賀直哉の(自分の創作のために他の全てを犠牲にしてもいいという)生き方に感心したのだろう。大正2年12月には朝日新聞の連載を委嘱した。
 志賀直哉尾道生活で書き始めていた「時任謙作(時任信行)」を50回まで書いて、大正3年7月、漱石宅を訪れて朝日の話を断った。大正4年10月11日、大阪朝日の談話記事にこのことが載っている。

 志賀直哉氏の『范の犯罪』は他の人には書けぬものである。先頃東京朝日に小説を頼んだ時、五十回ばかり書いてよこして呉れたが、自分はどうしても主観と客観の間に立って迷っているどちらかに突き抜けなければ書けなくなったと云って、止めて了った。徳義上は別として、芸術上には忠実である。自信のある作物でなければ公にしないと云う信念がある為であろう。・・・(『漱石全集第25巻/別冊上』談話)

 このときのプロトタイプの「暗夜行路」は、発表されていればおそらく『塵労』よりは、まとまりのある佳作であったと想像されるが、朝日を断った志賀直哉が次に小説を書くのは、漱石の死んだ翌年であった。漱石が生きておれば、志賀直哉は立ち直れなかったかも知れない。その後(多くの作家が斃れた)30代中盤の難しい時期を生きて乗り切った志賀直哉は、漱石が『猫』を書いたのと同じ年齢でやっと(現行の)『暗夜行路』を世に出した。

 漱石の(志賀直哉の)主観と客観というのは、大雑把に言えば、「三四郎」を主観で描いて、「野々宮・広田先生・美禰子」を客観で描くという意味だろう。「私」を主人公にすれば、「私」が主観で他の登場人物が客観である。「私は」という語り方をするか、「三四郎は」にするか、そんなことは制作上の大問題ではないと信じる漱石にとって、主格の選択(というより、それに伴なう自己の心情の表し方の問題)に迷って作品が書けないという志賀直哉は、月世界の人間に映っただろう。このとき漱石は(『心』の)先生の「遺書」まで書いていたのだから。書く気ならどうとでも書けるのである。
 しかし志賀直哉の強い力のある文章に、漱石が半ば呆れながらも一目置いたことは間違いない。あるいは志賀直哉の方が漱石を真似したのかも知れないが。