明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 30

197.『帰ってから』1日1回(8)――宴のあと


第7章 お貞さんの結婚(12月)
    二郎・一郎・お直・芳江・父・母・お重・岡田・佐野・三沢

第33回 結婚Ⅰ 三沢との会話~異様なおのろけ~三沢は二郎の結婚相手を探そうとする~岡田と佐野の上京~久し振り家族の会話
第34回 結婚Ⅱ 芳江の講釈「本当の鼈甲は高過ぎるから御已めにしたんですって」「是一番安いのよ。四方張よか安いのよ」~兄によるお貞さんへの最後の講義~お貞さんはまた泣いたのか、真に感謝したのか
第35回 結婚式Ⅰ お貞さんは島田に結った~岡田がお兼さんを連れて来なかったので一郎夫妻が仲人役を「然し僕等のような夫婦が媒酌人になっちゃ」
第36回 結婚式Ⅱ 兄も嫂も自然のままに取り澄ましている~結婚式は不幸の始まりか~昼の汽車で発つ新夫婦と岡田を雨のプラットホームで見送り、二郎は下宿へ帰った

 さて漱石の心積りでは、小説はこのあと最後の山を迎えて、静かに終わる筈であった。ここではもう埋められた芋はすべて掘り起こされていたと見ていい。語り残されたものはないとばかりに、物語の始まりから「年の暮」と予定されていた、お貞さんの結婚式を迎える。

 彼には斯ういう風に、精神病の娘さんが、影身に添って離れないので、自分はかねて母から頼まれたお重の事を彼に話す余地がなかった。お重の顔は誰が見ても、まあ十人並以上だろうと、仲の善くない自分にも思えたが、惜い事に、此大切な娘さんとは、丸で顔の型が違っていた。
 自分の遠慮に引き換えて、彼は平気で自分に嫁の候補者を推挙した。「今度何処かで一寸見て見ないか」と勧めた事もあった。自分は始めこそ生返事許していたが、仕舞は本気に其女に会おうと思い出した。すると三沢は、まだ機会が来ないから、最う少し、最う少し、と会見の日を順繰に先へ送って行くので、自分は又気を腐らした末、遂に其女の幻を離れて仕舞った。
 反対に、お貞さんの方の結婚は愈事実となって現るべく、目前に近いて来た。・・・(『帰ってから』33回)

 三沢は二郎の結婚相手を探そうとしたり、思い直したり、病室での不思議な態度をキープしている。三沢が二郎に何を求めているかは結局分からずじまいである。まさか大学人としての一郎のコネが目的ではあるまい。
漱石が「友情」を追求しようとしていたのではないことだけは慥かである。代助と平岡、津田と小林の例を持ち出すまでもなく、漱石の書く友人関係は大変分かりにくい。)
 三沢は女に対しても男に対しても、そのアプローチの手法は難解である。一郎のせいで目立たないが、三沢こそ(対人関係部門の)変人チャンピオンであろう。反対に一郎は、外では猫を被っているせいか、社会人として突飛な言動は見せない。
 ちょっと余談になるが、この三沢の特徴は、

①書かれる恋愛譚に難解なものが多い。
②本人が大変人である。
③社会的には紳士である。
④せっかち

 まさに漱石そのものという感じがする。

 芳江が「伯父さん一寸入らっしゃい」と次の間から小さな手を出して自分を招いた。(同34回冒頭)

 芳江に関しては、のっけから漱石は「伯父さん」と誤って書いている。これはさすがに初版本で「叔父さん」に直されたが、芳江をお直の子としてのみ扱っていたので、お直は二郎より1歳でも年下であったか。一郎(とお直)には男の子がいないので、二郎は将来長野家の世襲財産の相続者にはなっても、簒奪者とはなり得ない。それでつい漱石も「伯父」と書いてしまったのだろう。
 漱石がわざと伯父と書いた可能性は勿論ある。漱石は『心』でも父の弟のことを伯父と書いているようだ。しかし伯父と叔父の違いは当時の日本では決定的であり、教師でもあった漱石が何度も同じ間違いを繰り返したとも思えないから、漱石の中に叔父と書きたくないマインドが働いていたと見る方が自然かも知れない。あるいは学問的に厳密に言えば伯父も叔父も同じなのかも知れない。まさか漱石は西洋風に伯父と叔父を言語として統一しようと思っていたわけではあるまい。
(「叔父」が世襲財産の簒奪者たりうるという漱石作品の主張については、前著で説いたところであるが、かいつまんで言うと、『心』の先生や『門』の宗助は叔父に財産を横領されたと騒ぐが、「坊っちゃん」は九州へ行った兄に出来た子供から、『それから』の代助は甥の誠太郎から、『明暗』の津田は同居していた藤井の末っ子「甥の」真事から、それぞれ将来損害賠償を言われはしないかというリスクのことである。)

 その芳江の「急成長」については、これまた前著(『明暗』に向かって)でも述べたが、お貞さんの結婚にあたっての芳江のセリフには、驚きを禁じ得ない。『行人』の物語の始まりから4ヶ月しか経っていないのである。いくら女の子はおしゃまであるといっても、いくら子供の成長が早いといっても、あの「頑是ない」芳江が、二郎を「伯父」ないし「叔父」と認識するだろうか。その前に物の値段を認識するだろうか。
 たしかに漱石は10数年にわたって4人の女の子のおしゃまぶりを見てきた。その漱石が書くのであるから、後世の読者がとやかく言うことはないのであるが、もしかすると漱石は芳江のモデルを執筆途中で取り違えたのではないだろうか。執筆時(大正2年)芳江の年齢に充てた伸六(6歳)を見るべきところを、つい女の子ということで愛子(9歳)の方を見てしまったのではないか。伸六が(男の子なので)ちっとも役に立たなかったのは分かるが。

 その芳江につられて、二郎がついガキ大将の本性を表わしかけたシーンがある。結婚式の朝、二郎が実家に着くと風呂場でお貞さんの支度が始まっている。

 ・・・風呂場の口を覗いて見たら、硝子戸が半分開いて、其中にお貞さんのお化粧をしている姿がちらりと見えた。「あら其処へ障っちゃ厭ですよ」という彼女の声が聞こえた。芳江は面白半分何か悪戯をすると見えた。自分も芳江の真似を遣ろうと思ったが、場合が場合なのでつい遠慮して茶の間へ戻った。(『帰ってから』35回)

 ガキ大将は非日常が大好きである。坊っちゃん漱石も、子供の頃は手の付けられないいたずら者だった。つまり日常生活の破壊者ということだろう。『行人』では二郎より一郎の方がガキ大将であったと書かれるが、二郎も漱石の血を引いているからには、いたずら者の素質は十分である。いたずら者が(挫折しないでそのまま)大きくなって、ただのおっちょこちょいで了るか、大変人になるかは神のみぞ知る。いずれにせよ世間に対する「拗ね者」であることに変わりはない。「拗ね者」は基本的には寂しいのであるから、母親のような態度で接してやるしかない。ところでそれは本人が成人するまでの話であろうから、所詮(大人になった)本人は己れの境遇を恨むしかないのである。
 一郎はお直に母を求めたであろうことは想像に難くないが、そんな話は小説にはならない。珍しく健在の両親と同居する設定の一郎が、漱石の主人公の中で最も孤独な変人を演じているのは、一郎にとっての救いの途を、(漱石が)わざと分からなくしているのだろう。