明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 26

148.『須永の話』(4)――市蔵の出自と千代子の結婚予約の謎


 さて気を取り直して考察に戻らなければならない。

4回 慈母の情操教育

 母は父を崇敬していた。それを須永に語るときは宗教的な高揚感さえ発揮された。須永には妙という妹がいたが、ジフテリアで早逝した。

そうして僕の事を常に市蔵ちゃん市蔵ちゃんと云って、兄さんとは決して呼ばなかった。
②妹が死んだとき、母に言った父の奇妙な言葉。「まことに御前には気の毒な事をした」

5回 千代子が生まれたとき市蔵の嫁にくれろと頼んだ

③母は漠然と市蔵によって家名を揚げることを望んでいるようだ。

 これは前述したが通常では考えにくいことである。須永の母は松本家の惣領にはなりえても、須永家再興に責任はない。それだけ須永の父を愛していた、と読者に思わせたいのなら、そもそもその程度の作家では国民作家とは呼べまい。須永の母は須永の父の罪を一身に引き受けて、かつ市蔵に立身して貰いたいのである。
 しかし市蔵は就職に興味がない。それより母を悩ませているのが結婚問題である。千代子との許婚事件のことは市蔵も昔から知っていた。

6回 互いに異性を意識せずに育った

 市蔵と千代子は従兄妹以上に親しく育った。互いに異性を意識するに至らなかった。

 ・・・僕は未だ曾て男として彼女から取り扱われた経験を記憶する事が出来ない。彼女から見た僕は、怒ろうが泣こうが、科をしようが色眼を使おうが、常に変らない従兄に過ぎないのである。尤も是は幾分か、純粋な気象を受けて生れた彼女の性情からも出るので、其所になると又僕程彼女を知り抜いているものはないのだが、単に其丈でああ男女の障壁が取り除けられる訳のものではあるまい。ただ一度……然し是は後で話す方が宜かろうと思う。(『須永の話』6回)

 ただ一度、千代子が男として市蔵を見たことがあるという。あるいは市蔵と千代子の間で男女を意識した刺激が取り交わされたことがあったという。それは後段のどこで語られるのか。

 大学2年のとき母ははっきり千代子を貰ったらどうかと進言した。従妹は血族だから厭だと答えると、

実は御前の為ではない、全く私の為に頼むのだと云う。

第2章 市蔵と千代子(全6回)

7回「妾行って上げましょうか」

「市さんも最う徐々奥さんを探さなくっちゃなりませんね。姉さんは疾うから心配しているようですよ」
「好いのがあったら母に知らして遣って下さい」
「市さんには大人しくって優しい、親切な看護婦見た様な女が可いでしょう」
「看護婦見た様な嫁はないかって探しても、誰も来手はあるまいな」
 僕が苦笑しながら、自ら嘲ける如く斯う云った時、今迄向こうの隅で何かしていた千代子が、不意に首を上げた。
「妾行って上げましょうか」
 僕は彼女の眼を深く見た。彼女も僕の顔を見た。けれども両方共其所に意味のある何物をも認めなかった。叔母は千代子の方を振り向きもしなかった。そうして、「御前の様な露骨(むきだし)のがらがらした者が、何で市さんの気に入るものかね」と云った。僕は低い叔母の声のうちに、窘なめる様な又怖れる様な一種の響を聞いた。千代子は唯からからと面白そうに笑った丈であった。其時百代子も傍に居た。是は姉の言葉を聞いて微笑しながら席を立った形式を具えない断りを云われたと解釈した僕はしばらくして又席を立った。(同7回)

 この回が前半のハイライトであろう。漱石の描写の巧みさにはまことに敬服せざるを得ない。そして同様に中年の婦人の描写についてもまた。余計なことを言うようだが、この婦人は御仙という名でなくてはいけない。御多代ではぶち壊しである。(創作メモでは田口の妻は御俊であるようだが、須永の母に名前はない。御多代はむしろ須永の母の名にスライドすべきであろう。)
 田口家ではこの結婚に乗り気でない。田口は千代子の相手は家柄の良い実業家を想定している。市蔵はそれが分かっているので恥をかきたくない。問題は千代子である。千代子が百代子みたいな性格なら、この話はここでお終いである。小説にならない。

8回「市さん久し振に一局やろうか」

 市蔵は母と千代子が抜け駆けして話を進めてしまわないか心配である。千代子はそんなときに自分の夢に関係なく即座に了承してしまうタイプである。いつでも崖から飛び込むことが出来る女である。市蔵はそれを避けたいが具体的には何も行動しない。
 唯一試したのは田口へ行って、それとなく探りを入れること。田口は産れたての赤ん坊の縁談についてこだわりなく市蔵にしゃべった。市蔵は「世慣れた人の巧妙な覚らせ振」と取った。

 どうでもいいことだが、成功した実業家たる田口要作は、もう少し囲碁は上手い筈である。少なくとも市蔵の相手ではあるまい。漱石は自分または松本と取り違えたのではないか(冗談だが)。

 ところで本項①~④の記述は、前項①②で引用した父と母の言葉、

「市蔵、おれが死ぬと御母さんの厄介にならなくっちゃならないぞ。知ってるか」
「今の様に腕白じゃ、御母さんも構って呉れないぞ。もう少し大人しくしないと」
「御父さんが御亡くなりになっても、御母さんが今迄通り可愛がって上げるから安心なさいよ」(同3回再掲)

 に続いて、市蔵の出自を疑わせるに充分な「伏線」になっている。伏線というより漱石は明からさまに読者に伝えているようだ。しかし市蔵はこの篇の中では、遂にその疑念に到ることがなかった。それは次篇のために取って置かれた。そういう小説の建付けなのだから、読者は文句を言う筋合いはないのであるが、市蔵は(敬太郎と違って)鋭敏に研ぎ澄まされた神経を持つのである。市蔵がその疑念に微塵も思いが及ばなかったというのは、やはり不自然の誹りを免れないであろう。それとも漱石は市蔵がすべてを識った上で敬太郎にそれを匿しつつ喋っていることに(プロレスみたいに)暗黙の同意を与えているのだろうか。