明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 27

149.『須永の話』(5)――事件はいつも病気の時に起きる


9回「妾貴方の描いて呉れた画をまだ持っててよ」

 前の2回で田口の母と父にその気がない、と市蔵は判定した。市蔵は安心した(らしい)。それから2ヶ月間市蔵は田口家の門をくぐらなかった。ショックだったとも読める。そんな市蔵を見て、いつ母が行動を起こさないとも限らない。市蔵はそれが心配だが、なぜか母を抑制することをしない。
 田口の両親の意向を確かめたからといって、問題の解決にはならない。母(と千代子)の抜け駆けを回避するためには、母(と千代子)に市蔵の本意を言わなければならない。それをしないということは、何も決断しないでぐずぐずになる、いつもながらの漱石の男丸出しであるが、市蔵本人に結婚への願望があるとも取れる。

 久し振りに田口家を訪れると、千代子が風邪を引いて1人で留守居をしていた。市蔵はいつになく優しい言葉を千代子にかける。

 ・・・すると千代子は一種変な表情をして、「貴方今日は大変優しいわね。奥さんを貰ったら左ういう風に優しく仕て上なくっちゃ不可ないわね」と云った。遠慮がなくて親しみ丈持っていた僕は、今迄千代子に対していくら無愛嬌に振舞っても差支ないものと暗に自から許していたのだという事に此時始めて気が付いた。そうして千代子の眼の中に何処か嬉しそうな色の微かながら漂ようのを認めて、自分が悪かったと後悔した。(同9回)

 市蔵は(子が母に対するように)甘えていたのである。
 千代子が冷たいと市蔵の気持ちも冷める。千代子が喜ぶと市蔵も嬉しい。市蔵は(漱石みたいに)正直である。2人がお似合いかどうかは別の話であるが。
 しかし嬉しいはずの市蔵を、漱石は「自分が悪かったと後悔した」と書く。市蔵が自分の甘えに気付いたからではあるまい。女に惚れられると自分の責任になる。(今までこの女は自分に惚れてないと信じていた。それがそうでなかったのであるから、自分は間違っていた、悪いのは間違った自分であった。)これではプロポーズ出来ないわけである。
 あべこべに女に惚れられたと臆面もなく書くのが太宰治であろう。自分は罪の子であるから、女に惚れられるのは自分のせいである。自分が悪い。両者は正反対のようでその内実は驚くほど似ている。つまり惚れた側の女性に関係なく、すべて自分を中心に物事が判断されるのである。しかし漱石太宰治も百年読まれる続けるとすれば、それは自己中心的・身勝手等とは別の、何か大切な要素が含まれているのであろうか。

10回「妾御嫁に行く時も持ってく積よ」

 市蔵は千代子に花の絵を描いてやったことがある。精密画である。漱石も若年期にはそういう絵を描いたのか。千代子はこうも言う。

貴方それを描いて下すった時分は、今より余程親切だったわね

 千代子は調子に乗って、もうすぐ嫁に行くと言う。

いいえ、もう極ったの

 千代子の結婚を待ち望んでいたはずの市蔵の心臓は、どきんと波を打つ。背中と脇に脂汗がふき出す。

嘘よ」という千代子の言葉に、あっという間に平静を取り戻した市蔵を襲った感情は、怒るでもなく安堵するでもなく、もちろん自分の本当の気持ちを知ったことに対する喜びでもなかった。

 千代子の嫁に行く行かないが、僕に何う影響するかを、此時始めて実際に自覚する事の出来た僕は、それを自覚させて呉れた彼女の翻弄に対して感謝した。(『須永の話』10回)

 読者は似たような話があったことにすぐ気が付く。『硝子戸の中』29で語られる、(祖父母が実の両親であることを教えてくれた)下女に対する感謝の話である。子供の漱石は、真実を教えてくれたことに対する感謝ではなく、下女の親切そのものに感謝したという、ちょっと常識では考えられない逸話ではあった。
 理性が愛に優先するのである(嫌な言い方だが)。それが小説の世界であれば実生活に害はない。しかし漱石の場合、小説の中で主張したことと自分の生き方に乖離はないのである。この乖離(の無さ)と文豪度合いはまさに正比例する。

 前項で述べた、市蔵と千代子の間で男女が意識されたエピソード(6回で語られた)というのは、これだったのか。千代子はたしかに求愛しているようにも見える。そうでない見方も可能である。市蔵にははっきり男女の意識はある。しかしそれを認めようとしないのが市蔵の天の邪鬼である。男女の意識の有無を自覚はした。有か無か、それは書かない。漱石を批判する人はそこが物足りないのであろう。

11回 ダヌンチオと大蝦蟇小蝦蟇

 斯ういう光景が若し今より一年前に起ったならと僕は其後何遍も繰り返し繰り返し思った。そう思う度に、もう遅過ぎる、時機は既に去ったと運命から宣告される様な気がした。今からでも斯ういう光景を二度三度と重ねる機会は捉まえられるではないかと、同じ運命が暗に僕を唆のかす日もあった。成程二人の情愛を互いに反射させ合うためにのみ眼の光を使う手段を憚からなかったなら、千代子と僕とは其日を基点として出立しても、今頃は人間の利害で割く事の出来ない愛に陥っていたかも知れない。ただ僕はそれと反対の方針を取ったのである。(同11回冒頭)

 回りくどい言い方であるが、この1節は、市蔵と千代子の接近した事件というのが、例えば3年前であるからには、薹が立ってしまって、もうロマンスの種子にはならないと、その事件が起きてから「今」に至るまで、何度も何度も悔やんだということを述べたものである。しかし「1年前ならよかったのに」と思うのは、せいぜい2年3年経ってしまった「今」の話であろう。「其後何遍も繰り返し繰り返し」というのは、何となく意味は通じるものの、論理的にはおかしい。
 ぐずぐずして時期を逸したのは自分の優柔不断のせいであるが、それを過ぎ去った時間のせいに、したとは書いていないものの、それに近い書き方ではある。

12回 市蔵の恋愛論

「純粋な感情程美くしいものはない。美くしいもの程強いものはない」(同12回)

 ここで純粋な感情というのは、嘘の混じっていない、誠心誠意の感情ということであろう。つまり正しいものが美しく、それは何物にも勝るということである。漱石の正しさは多くの弟子を従えた。それはある意味でトラやライオンが強く美しいことに似ている。彼らがシマウマを斃すのを見て、人は自分勝手な生き物とは言わない。彼等もまた自己に忠実に生きていることは、否定できないのである。

第3章 避暑地の出来事(全7回)

13回 柴又の茶店での2次会に向かって

 何うしてもまだ話の続きがあるに違ないと思った敬太郎は、今の一番仕舞の物語は何時頃の事かと須永に尋ねた。それは自分の三年生位の時の出来事だと須永は答えた。敬太郎は同じ関係が過去一年余りの間に何ういう径路を取って何う進んで、今は何んな解決が付いているかと聞き返した。須永は苦笑して、先ず外へ出てからにしようと云った。二人は勘定を済まして外へ出た。(同13回)

 須永の前半の思い出話は、千代子の小事件(風邪引き留守番事件と代理電話事件)を以って終わりである。場所を駅前の茶店に移して、後半の鎌倉事件が語られる。恐らく漱石で最も有名な男女の喧嘩シーンであろう。それはまた唯一無二の(男女関係をベースとした)若い女のブチ切れシーンでもある。
 その前に漱石は、市蔵について律儀にもカレンダーの整理を行なっている。敬太郎のカレンダーではちょっとおかしなところもあった。市蔵の場合はどうか。珍しく整合してしまうのか。
 上記13回の引用文の敬太郎の言う「過去1年」と、11回引用文の市蔵の言う「1年前」は、互いに呼応しているのだろうか。通い合うとすればどのような意味を持つのだろうか。