明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 34

156.『須永の話』(12)――須永の母はなぜ市蔵を一人で帰したか


 以前本ブログ(漱石「最後の挨拶」)の三四郎篇にも引用した、前著(『明暗』に向かって)の中の記事「漱石作品最大の謎」を、ここで再び掲載することをお許し願いたい。

『明暗』に向かって/Ⅲ.棗色の研究/38.漱石作品最大の謎 より全文引用

 ・・・須永の家は彼と彼の母と仲働きと下女の四人暮しである事を敬太郎はよく知っていたのである。(『彼岸過迄/停留所』2回)

 須永市蔵は父親が早く亡くなったあと、母と二人駿河台の屋敷を売って、神田小川町淡路町辺りのこじんまりした家に住んでいる。この下女は「須永の話」で改めて登場するが、なぜか下女でなく小間使いと紹介される。小説ではそのあとは、ずっとお作という名で語られる。仲働きは(「停留所」で1、2回出て来たあと)、ついにこの小説では登場しない。
 市蔵は若死にした父が「小間使い」(父のときも下女でなく小間使いと書かれる)に生ませてしまった秘密の子である。ところが須永家では子供が出来なかったので、これを嫡男として育てることにした。その後須永の母は、ままあることではあるが女の子を一人生むが、妙という名のその女の子は早世してしまった。須永の母の妹(田口の細君)と弟(松本)には子供が沢山いる。長姉だけ子供が出来ないのは不自然であるという理由だけでその子は創られたのだろう。
 市蔵の血の秘密は母とその係累の間で永く守られた。市蔵の母が市蔵と我が妹の娘千代子との結婚にこだわったのも、これがためである。

 大学を卒業する一年前の夏休み、市蔵と母は鎌倉の田口の別荘へ招かれる。市蔵は気が進まないが母だけでもというつもりもあって送りがてら鎌倉へ行く。その晩東京へ帰ると言う市蔵に千代子は変人だと言う。

「貴方は親不孝よ」(『彼岸過迄/須永の話』15回)

「相変わらず偏屈ね貴方は。丸で腕白小僧見たいだわ」(同17回)

「市さんが又何か悪口を云おうと思って見ている」(同20回)

 漱石が若い頃言われつけてきたことを、市蔵が田口の姉妹からずけずけ言われている。市蔵は近所の別荘に来ている高木の存在に精神の不安を抑えきれず、一泊しただけで帰京した。

 僕は其晩一人東京へ帰った。母はみんなに引き留められて、帰るときには吾一か誰か送って行くという条件の下に、猶二三日鎌倉に留まる事を肯んじた。僕は何故母が彼等の勧める儘に、人を好く落ち付いているのだろうと、鋭どく磨がれた自分の神経から推して、悠長過ぎる彼女を歯痒く思った。(同25回)

 母が居ないので、凡ての世話は作という小間使がした。鎌倉から帰って、始めてわが家の膳に向った時、給仕の為に黒い丸盆を膝の上に置いて、僕の前に畏こまった作の姿を見た僕は今更の様に彼女と鎌倉にいる姉妹との相違を感じた。作は固より好い器量の女でも何でもなかった。けれども僕の前に出て畏こまる事より外に何も知っていない彼女の姿が、僕には如何に慎ましやかに如何に控目に、如何に女として憐れ深く見えたろう。・・・僕は珍らしく彼女に優しい言葉を掛けた。そうして彼女に年は幾何だと聞いた。彼女は十九だと答えた。僕は又突然嫁に行きたくはないかと尋ねた。彼女は赧い顔をして下を向いたなり、露骨な問を掛けた僕を気の毒がらせた。(同26回)

 市蔵はこのあと作に手伝わせて書架の整理をする。その情景は少しだけ三四郎と美禰子の実質的な初会の日、引越し手伝いのシーンを思わせる。棚の奥から人に借りて忘れていたアンドレーエフの「ゲダンケ」が出てくる。その小説は狂人を装って自分の恋敵をその最愛の夫人の眼前で撲殺してしまうという復讐譚であった。

 ・・・僕は此変な心持と共に、千代子の見ている前で、高木の脳天に重い文鎮を骨の底迄打ち込んだ夢を、大きな眼を開きながら見て、驚ろいて立ち上った。
 ・・・僕は又突然作に、鎌倉抔へ行って混雑(ごたごた)するより宅にいる方が静で好いねと云った。作は、でも彼方の方が御涼しゅう御座いましょうと云った。僕はいや却って東京より暑い位だ、あんな所にいると気ばかり焦燥焦燥(いらいら)して不可ないと説明して遣った。作は御隠居さまはまだ当分彼地に御出で御座いますかと尋ねた。僕はもう帰るだろうと答えた。(同28回)

 市蔵は作を見て一筆書きの朝顔のようだと思う。作にお前でも物を考えることがあるかと聞いて、あっても知恵がないからダメだという返答に、お前は幸せだとつい言ってしまう。作はからかわれたと思ったであろうと市蔵は後悔する。やがて母は帰って来る。送って来たのは思いがけず千代子であった。(同28回)

 其晩は散歩に出る時間を倹約して、女二人と共に二階に上って涼みながら話をした。・・・僕は先刻の籐椅子の上に腰を卸して団扇を使っていた。作が下から二度許上って来た。・・・僕は其度毎階級制度の厳重な封建の代に生れた様に、卑しい召使の位置を生涯の分と心得ている此作と、何んな人の前へ出ても貴女(レデー)として振舞って通るべき気位を具えた千代子とを比較しない訳に行かなかった。千代子は作が出て来ても、作でない外の女が出て来たと同じ様に、なんにも気に留めなかった。作の方では一旦起って梯子段の傍迄行って、もう降りようとする間際に屹度振り返って、千代子の後姿を見た。僕は自分が鎌倉で高木を傍に見て暮した二日間を思い出して、材料がないから何も考えないと明言した作に、千代子というハイカラな有毒の材料が与えられたのを憐れに眺めた。(同30回)

 翌日は何時も一人で寝ている時より一時間半も早く眼が覚めた。すぐ起きて下へ降りると、銀杏返しの上へ白地の手拭を被って、長火鉢の灰を篩っていた作が、おやもう御目覚でと云いながら、すぐ顔を洗う道具を風呂場へ並べて呉れた。僕は帰りに埃だらけの茶の間を爪先で通り抜けて玄関へ出た。其時序に二人の寝ている座敷を蚊帳越しに覗いて見たら、目敏い母も昨日の汽車の疲が出た所為か、未だ静かな眠を貪ぼっていた。千代子は固より夢の底に埋まっている様に正体なく枕の上に首を落していた。(同32回)

 市蔵と作との儚い物語はこれだけである。作には(妙とともに)哀惜の念を禁じ得ないが、ここでどうしても分からないのは須永の母の心情である。「松本の話」ではこのように語られる。

 僕自身の家に起った事でない上に、二十五年以上も経った昔の話だから、僕も詳しい顛末は知ろう筈がないが、何しろ其小間使が須永の種を宿した時、姉は相当の金を遣って彼女に暇を取らしたのだそうである。夫から宿へ下った妊婦が男の子を生んだという報知を待って、又子供丈引き取って表向自分の子として養育したのだそうである。是は姉が須永に対する義理からでもあろうが、一つは自分に子のできないのを苦にしていた矢先だから、本気に吾子として愛しむ考も無論手伝ったに違ない。(『彼岸過迄/松本の話』5回――「二十五年以上」は昭和版漱石全集による)

 須永の母はなぜ市蔵をひとり東京へ帰したのであろうか。市蔵は「坊っちゃん」に似て癇性で、夜具蒲団が変わると寝られないので外泊は嫌いである。それは彼女も承知であるが、それでも小間使い一人残った家へ帰すだろうか。作は十九歳である。器量や身分が関係ないことは須永の母が身に染みて知っているはずである。趣味は遺伝するかも知れないのである。漱石がそのことに無関心であったわけがない。漱石はもちろん分かって書いている。しかし何より不自然を懼れた漱石は、なぜこのときの市蔵の母の無防備さに、もっともな理由を附さなかったのだろうか。小説の冒頭にせっかく書いてあった仲働きを、一寸登場させるだけでもよかったのではないか。それでは市蔵と作が二人きりにならない、と漱石が思ったのであれば、なおのこと市蔵の母を得心させる訳を、一言書いておくべきではなかったか。細工を嫌ったからといって、みすみす不自然さを見過ごすのは、小刀細工をするのと同じことになりはしないか。

 お延が津田と一緒に温泉へ行きたいと言い出したとき、津田は家が不用心になるという理由をつけて防戦する。誰か留守番を頼めばいいと言うお延に対し、津田は珍しく断乎として自分の考えを通す。

「若い男は駄目だよ。時と二人ぎり置く訳にゃ行かないからね」
 お延は笑い出した。
「まさか。――間違なんか起りっこないわ、僅かの間ですもの」
左右は行かないよ。決して左右は行かないよ」(『明暗』151回)

 三四郎は野々宮の留守宅に泊まりに行ったではないかと言われそうであるが、あのときは野々宮が与次郎に頼んでもよかったと言っていることからも、野々宮の下女は相当の婆さんであったに違いない。

 漱石自身も同じようなシチュエーションで似たようなことを言っている。糖尿病由来の神経痛に悩まされた漱石が大正5年1月、2度目の湯河原行きの際、鏡子はついて行きたいのだが子供が沢山いてそれも難しい。

 ・・・代りに看護婦でもお連れになってはと申しますと、考えておりましたが、まあ、よそうよ と申します。なぜですかと訊ねますと、とにかく男一人女一人なんてのはいけないからということに、ではなるべく年寄りの看護婦をお連れになったらと言いますと、自分ではこの爺さんに間違いはないとは思うが、しかし人間には「はずみ」という奴があって、いつどんなことをしないものでもないからなどいって、とうとう一人で行ってしまいました。(夏目鏡子漱石の思い出』57/糖尿病)

 このときは中村是公や芸者連れの友人も天野屋で一緒になって、後から鏡子夫人も合流しにやって来たので、漱石は(おそらく生涯で一度きりだろうが)鏡子に疑われても仕方がない成行きになったのだが、そんなことと関係なく、市蔵を独りで帰したときの須永の母の想定される弁明「そんなことがあるもんかね」に対しては、読者としても「そうはいかないよ、決してそうはいかないよ」と言いたい。

漱石作品最大の謎 畢)