147.『須永の話』(3)――不思議な校正者
3回 父と母の不思議な箴言
①「市蔵、おれが死ぬと御母さんの厄介にならなくっちゃならないぞ。知ってるか」「今の様に腕白じゃ、御母さんも構って呉れないぞ。もう少し大人しくしないと」
漱石丸出しの言葉遣いではあるが、世の父親の言い分としては随分変わっている。母も負けていない。
②「御父さんが御亡くなりになっても、御母さんが今迄通り可愛がって上げるから安心なさいよ」(以上『須永の話』3回)
①も②も慥かにヘンな言い方ではある。再読する読者はふつう、これを次話のテーマへの伏線と思うが、『彼岸過迄』は推理小説ではない。この始めから掘り返された地中の芋は、伏線でも何でもない、血の繋がった親子とそうでない親子について、この小話全篇にわたって書き続けられる。それが最後の『松本の話』にそっくり受け継がれるのであるから、各篇の独立云々というのは、もうどこかへ飛んでしまっているのである。しかしそのために『彼岸過迄』という小説は、ある感動を読者に与える。「『彼岸過迄』に就いて」という序文をこの小説の一部と考えれば、漱石は明らかに(体裁上は)失敗している。しかし小論で引用している「漱石全集」「定本漱石全集」のように、序文を作品に加えないという見地からは、問題点はどこにもないことになる。漱石は自作を章分けして、珍しくも各章に見出しを付けたに過ぎない。
上記引用部分に続く箇所、
其時は夫で済んだが、両親に対する僕の記憶を、生長した今に至って、遠くの方で曇らすものは、③二人の此時の言葉であるという感じが其後次第々々に強く明らかになって来た。何の意味も付ける必要のない彼等の言葉に、僕は何故厚い疑惑の裏打をしなければならないのか、それは僕自身に聞いて見ても丸で説明が付かない。④時々は母に向かって直に問い糺して見たい気が起るが、母の顔を見ると急に勇気が摧けて仕舞う。そうして心の中の何処かで、⑤それを打ち明けたが最後、親しい母子が離れ離れになって、永久今の睦ましさに戻る機会はないと僕に耳語くものが出て来た。夫でなくても、母は僕の真面目な顔を見守って、そんな事が有ったっけかねと笑いに紛らしそうなので、そう剥ぐらかされた時の残酷な結果を予想すると、到底も口へ出された義理じゃないと思い直しては黙っている。僕は母に対して決して柔順な息子ではなかった。父の死ぬ前に枕元へ呼び付けられて意見された丈あって、小さいうちから能く母に逆らった。大きくなって、女親だけに猶更優しくして遣りたいという分別が出来た後でも、矢っ張り彼女の云う通りにはならなかった。近頃の様に我儘な気分が募ると、殊に心配を掛ける事が多い。が、幾何勝手を云い合っても、母子は生れて以来の母子で、此貴とい観念を傷つけられた覚は、重手にしろ浅手にしろ、まだ経験した試しがない。⑥だから若し彼(あ)の事を云い出して、⑦二人共後悔の瘢痕を遺さなければ済まない瘡を受けたなら、夫こそ取返しの付かない不幸に陥るのである。此畏怖の念は神経質に生れた僕の頭で拵らえるのかも知れない。けれども僕にはそれが現在よりも明らかな未来として存在している。⑧だから僕はただ彼(あ)の時の父と母の言葉を、それなり忘れて仕舞う事が出来なかったのを情なく感ずるのである。(定本漱石全集第7巻『彼岸過迄/『須永の話』3回末尾)
この太字で示した⑥の、「あの事」というのは何を指すか。③父母のヘンな言葉(その中身は①と②である)について、④母に糺したいが、⑤何だか取り返しの付かないことになりそうだ。
⑥と⑦は、そのリフレインか。⑧だからいつまでもぐずぐず煮え切らない、と解すれば理屈は合う。だが筆の運びがちょっと大袈裟過ぎるようである。それに漱石としては文章が分かりにくいようである。
漱石は前回に引き続き、ここでも文章に手を入れている。
次に掲げるのはその修正後、初版本の文章である。
其時は夫で済んだが、両親に対する僕の記憶を、生長の後に至って、遠くの方で曇らすものは、二人の此時の言葉であるという感じが其後次第々々に強く明らかになって来た。何の意味も付ける必要のない彼等の言葉に、僕は何故厚い疑惑の裏打をしなければならないのか、それは僕自身に聞いて見ても丸で説明が付かなかった。時々は母に向かって直に問い糺して見たい気も起ったが、母の顔を見ると急に勇気が摧けて仕舞うのが例(つね)であった。そうして心の中の何処かで、それを打ち明けたが最後、親しい母子が離れ離れになって、永久今の睦ましさに戻る機会はないと僕に耳語くものが出て来た。夫でなくても、母は僕の真面目な顔を見守って、そんな事が有ったっけかねと笑いに紛らしそうなので、そう剥ぐらかされた時の残酷な結果を予想すると、到底も口へ出された義理じゃないと思い直しては黙っていた。
僕は母に対して決して柔順な息子ではなかった。父の死ぬ前に枕元へ呼びつけられて意見された丈あって、小さいうちから能く母に逆らった。大きくなって、女親だけに猶更優しくして遣りたいという分別が出来た後でも、矢っ張り彼女の云う通りにはならなかった。此二三年は殊に心配ばかり掛けていた。が、幾何勝手を云い合っても、母子は生れて以来の母子で、此貴とい観念を傷つけられた覚は、重手にしろ浅手にしろ、まだ経験した試しがないという考えから、若し彼(あ)の事を云い出して、二人共後悔の瘢痕を遺さなければ済まない瘡を受けたなら、夫こそ取返しの付かない不幸だと思っていた。此畏怖の念は神経質に生れた僕の頭で拵らえるのかも知れないとも疑って見た。けれども僕にはそれが現在よりも明らかな未来として存在している事が多かった。だから僕は彼(あ)の時の父と母の言葉を、それなり忘れて仕舞う事が出来なかったのを、今でも情なく感ずるのである。(昭和50年版漱石全集第5巻『彼岸過迄/須永の話』2回)
下線を引いた11ヶ所について、漱石は初版本で校正している。今ここに煩雑を承知でその対比を掲げる。最初(上段)が原稿、次(下段=改)が初版本である。
Ⅰ 生長した今に至って、
改 生長の後に至って、
Ⅱ 丸で説明が付かない。
改 丸で説明が付かなかった。
Ⅲ 問い糺して見たい気が起るが、
改 問い糺して見たい気も起ったが、
Ⅳ 勇気が摧けて仕舞う。
改 勇気が摧けて仕舞うのが例(つね)であった。
Ⅴ (改行セズ)僕は母に対して
改 (改行)僕は母に対して
Ⅵ 近頃の様に我儘な気分が募ると、殊に心配を掛ける事が多い。
改 此二三年は殊に心配ばかり掛けていた。
Ⅶ まだ経験した試しがない。だから若し彼(あ)の事を云い出して、
改 まだ経験した試しがないという考えから、若し彼(あ)の事を云い出して、
Ⅷ 取返しの付かない不幸に陥るのである。
改 取返しの付かない不幸だと思っていた。
Ⅸ 頭で拵らえるのかも知れない。
改 頭で拵らえるのかも知れないとも疑って見た。
Ⅹ 存在している。
改 存在している事が多かった。
Ⅺ 僕はただ彼の時の父と母の言葉を、……情なく感ずるのである。
改 僕は彼の時の父と母の言葉を、……今でも情なく感ずるのである。
漱石は新聞の切り抜きを作って自ら校正していた。新聞掲載時や出版時の校正のデタラメさに憤慨する書簡も残っている。その反面校正は自分の職務ではないとする鷹揚さも同時に見せていた。こだわるところは譲れないが、あとはどうでもいい、というところであろうか。
しかしこの回の「校正」ぶりを見ると、慥かに漱石が切り抜きに加筆したとしても、その効果は限りなく疑問である。似たような訂正は後の回にも(この回ほどでないが)ある。漱石は川甚における須永の「講義」を、なるべく須永の追憶という本筋を忘れないようにと気を遣ったのであろうが、前話同様そんなことはもう忘れてよいのである。
論者は例えば『三四郎』の本文改訂については様々に論じた。そこで述べた内容に比べると、『須永の話』における校正を、漱石本人が行なったとはとても思えない。弟子が勝手にやったとは言わないが、思えば無駄な作業をしたものである。もしかしたら本当に他人が勝手にやった箇所があるか。漱石には自作をいじくりまわすという(久生十蘭みたいな)趣味は皆無である。新聞掲載時に雑な校正をされて困ったことは事実であろうが、上記改訂はその域を遥かに超えている。やはり(『行人』の中断に至る)病気のなせる業であったろうか。