明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 42

164.『松本の話』(6)――関西そして結末


12回 最後の手紙

 最後の手紙も明石から出されたものであった。芸者が舟で沖へ出た客に向かって阿呆と叫んだのは、明石の海浜でのことであった。漱石は1節ごとに、「(午前七時半)(午前十時)(午前十一時)」と、まるで出典たる自分の日記にインデックスを付けるように、小説本文に書き加えている。こんな蛇足のような回が、『彼岸過迄』という小説にまた格別の香気を与える。

 こんな詰らない話を一々書く面倒を厭わなくなったのも、つまりは考えずに観るからではないでしょうか。考えずに観るのが、今の僕には一番薬だと思います。僅かの旅行で、僕の神経だか性癖だかが直ったと云ったら、直り方があまり安っぽくって恥ずかしい位です。が、僕は今より十層倍も安っぽく母が僕を生んで呉れた事を切望して已まないのです。(『松本の話』12回殆ど末尾)

「考えずに観る」というのは則天去私の最も平易な言い換えであろう。何度でも言うが、則天去私というのは漱石が晩年に到達した境地などではなく、小説家になったときから漱石の頭を支配していた思想である。
 そして引用部分最後の一文こそ、『彼岸過迄』で須永市蔵の最期にめざした目的でもあろう。人生というものは安っぽい・薄っぺらなものである。それはまた、修善寺で一度は彼岸へ行きかけた漱石の結論でもあった。

 こうして『彼岸過迄』の物語はめでたく終わりを迎えたのであるが、最後にひとつだけ脱線をお許しいただきたい。関西旅行からこじつけるわけではないが、市蔵の御弓という名しか伝わらない小間使いの母は、関西の女ではなかったか。引用した上記最後の一文も、そのもう一つの読み方が出来るのではないか。「僕は今より十層倍も安っぽく母が僕を生んで呉れた事を切望して已まない」の「母」とは、どう考えても御弓のことを指すとしか思えないからである。

「僕は此辺の人の言葉を聞くと微かな酔に身を任せた様な気分になります。ある人はべたついて厭だと云いますが、僕は丸で反対です厭なのは東京の言葉です。・・・」(同10回)

 市蔵は関西旅行で若い女というよりは関西弁をしゃべる婆さんの方に興味が行った。漱石はそんなあざとい真似はしないと言われそうだが、市蔵は生母の面影を求めたのではないか。そもそも漱石が東京言葉を嫌ったという話は聞いたことがない。
 須永の父はまず確実に東京の人間である。同じ市蔵の手紙に、祖父の通人みたいな舟遊びを語ったくだりに、その川が隅田川であることがはっきり分かる書き方がされている。(同11回)
 須永の家はもともと裕福な江戸の町人だったのである。それはどうでもいいが、須永の父も母も、小説ではついにその名が明かされなかった。漱石はわざと市蔵の(戸籍上の)二親に名前を付けなかったと思われる。そしてその作為が目立つのを避けるために、田口の細君の名も(メモ書きにあった俊という名を放棄して)書かなかった。御弓という名に少しでもインパクトを持たせる狙いがあったとも解釈できる。

 そこから連想されるのが、市蔵が自らを語った柴又も手伝って、寅さんの生母もまた関西の女であったという(漱石には何の関係もない)事実である。さくらの亭主も当初は北海道を想定していたように見えるが、映画が続くことになって、あまり北へシフトするのを避けたかったのだろうか、岡山の高梁出身に落ち着いた。寅さんの母親なる存在も、本来は出て来ようもないのであるが、わざわざコテコテの浪速女として紹介されたのには、作者の意図があったはずである。それは作者が関西人だったからというような単純な話ではないような気がする。

 ちょっと話は逸れるが、(漱石文学の主題材でもある)男女の話ということで、勝手をお許し願いたいのであるが、寅さんの女房には誰が最適かという、ファンなら誰でも考える空想について、論者の1位は音無美紀子である。寅さんの奥さんには「大人しくって優しい、親切な看護婦」みたいな女が一番であることは当然だが、寅さんはハンデキャップの塊りであるから、女も立派過ぎない方がよい。処女は論外だが、結婚歴があるに越したことはない。寅さんに経済力は無いから(他にも何もないのであるが)、生活力と何より健康であることが求められる。もちろん大前提として、本人が寅さんと結婚してもいいと、本気で思っていること。そしてここが肝心だが、寅さんが自分で決断しないでも結婚への道筋がついているということが、最大の要件である。彼女の場合は亭主が寅さんの古い仲間で、かつ後を寅さんに託しているのである。寅さんは男気を出して引き受けるだけでよい。自分でプロポーズしたり責任を取ったりする必要がない。何より女が驚かない。
 まあこんなことは言っても仕方ないのであるが、その意味では歴代マドンナに適任者は案外少ない。八千草薫と、松坂慶子・・・。それならばいっそのことマドンナではないが岸本加世子の方がふさわしいかも知れない。寅さんは女房には尊敬されたいのである。

結末 最強の『彼岸過迄』論

 要するに人世に対して彼(田川敬太郎)の有する是迄の知識感情は悉く鼓膜の働らきから来ている。森本に始まって松本に終る幾席かの長話は、最初広く薄く彼を動かしつつ漸々深く狭く彼を動かすに至って突如として已んだ。けれども彼は遂に其中に這入れなかったのである。其所が彼に物足らない所で、同時に彼の仕合せな所である。彼は物足らない意味で蛇の頭を呪い、仕合せな意味で蛇の頭を祝した。そうして、大きな空を仰いで、彼の前に突如として已んだ様に見える此劇が、是から先何う永久に流転して行くだろうかを考えた。(『彼岸過迄/結末』本当の末尾)

 凡そ「結末」ほど『彼岸過迄』をよく表しているものはないだろう。最終回たる「結末」の前には、万巻の彼岸過迄論といえども無価値同然である。その意味で前書きに近い「『彼岸過迄』に就いて」と、後書きともいえるこの「結末」とは、性格も役割も決定的に異なる。
 『彼岸過迄』は市蔵と千代子の物語でなくて、敬太郎の物語であった。少なくとも作者の中ではそうである。漱石にとっては市蔵の出生の秘密も微細な道具立ての1つに過ぎない。千代子との男女の愛もそれに近いものであったようだ。
 次作以降の漱石の未来に拡がるのは、市蔵の見た世界であるように思わせて、その実敬太郎の見るかも知れない世界の方なのである。漱石は隠さずにそう述べている。そして実際その通りに、『行人』(長野二郎)と『心』(学生の私)を書いたのである。

 もうひとつ、「結末」を書くことにより、市蔵の手紙で(暦としては尻切れトンボに終わってしまった)小説のカレンダーが、ちゃんと完結に至ったことはまことに喜ばしいことである。最後にそのカレンダーを記しておく。入れ子になった中身は回想された物語の暦である。

第1話『風呂の後』 明治44年11月 市蔵27歳・千代子21歳。
第2話『停留所』  明治44年12月 市蔵27歳・千代子21歳。
第3話『報告』   明治44年12月 市蔵27歳・千代子21歳。
第4話『雨の降る日』明治44年11月~12月 市蔵27歳・千代子21歳。
第5話『須永の話』 明治45年2月 市蔵28歳・千代子22歳。

 ①結婚ほのめかし 明治37年後半 市蔵20歳・千代子14歳。
 ②千代子ぜひ貰え 明治42年4月 市蔵25歳・千代子19歳。
 ③千代子の家にて 明治42年夏頃 市蔵25歳・千代子19歳。
 ④風邪留守番事件 明治42年秋頃 市蔵25歳・千代子19歳。
 ⑤嫉妬の鎌倉事件 明治43年夏頃 市蔵26歳・千代子20歳。

第6話『松本の話』 明治45年3月 市蔵28歳・千代子22歳。

 ⑥秘密暴露と旅行 明治44年6月 市蔵27歳・千代子21歳。

 一覧表にすると分かりやすいが、(柴又における)①~⑤の「須永の話」(明治45年2月)は、⑥「秘密暴露」(明治44年6月)の体験を経ていたにもかかわらず、それを敢えて敬太郎に話さないでおくという「配慮」があった。それは松本のために取っておかれたのであるが、暦だけを考えても、須永が千代子の話をするのに直近の1年なり1年半を棚上げしたという事実は消えない。敬太郎の関心事はむしろ直近の2人の関係・気持ちであろう。もちろん暦の辻褄は合っている。しかしこの須永と千代子の空白期間が、『彼岸過迄』の読後感に、何がしかのマイナスのイメジを与えることもまた事実である。

( ブログ  漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 畢 )