明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 41

163.『松本の話』(5)――旅行が人を改良する

 

第3章 旅の手紙(全5回

8回 市蔵の不安は旅行によって和らぐのか、それとも

 松本は市蔵の不安感を鎮めることが出来ない。高等遊民は世の中の役には立たないのである。それでも松本は姉も市蔵も大丈夫であると空手形を切りまくる。対照的に市蔵は寄り掛かるものがない淋しさに現実感を失いつつある。そんな市蔵を見て、さすがに楽天的な松本も、旅先からの便りを欠かさぬよう条件をつけた上で、市蔵の一人旅を了承する。不安・旅・手紙の3題噺。旅と手紙は不安を和らげることが出来るのか。

 市蔵の手紙は漱石にとって不十分だったのだろうか、これは『行人』のラストでもう一度試されることになる。そして『心』ではそれがとてつもない方向へ向かって成就するのである。

 

9回 須永の母は市蔵の異変の真因に気が付いたか

 御仙と市蔵の3例目のコンタクトが、やっとこの回に書かれる。相変わらず彼らは同じ舞台には立っていないが、信頼関係は揺らいではないようだ。

 

 僕は姉に会って、彼女の様子を見もし、又市蔵の近況を聞きもしたくなった。茶の間にいた妻を呼んで、相談旁理由を話すと、存外物に驚ろかない妻は、貴方があんまり余計な御喋舌をなさるからですよと云って、始めは殆ど取り合わなかったが、仕舞に、なんで市さんに間違があるもんですか、市さんは年こそ若いが、貴方より余っ程分別のある人ですものと、独りで受合っていた。

「すると市蔵の方で、却っておれの事を心配している訳になるんだね」

「そうですとも、誰だって貴方の懐手ばかりして、舶来のパイプを銜えている所を見れば、心配になりますわ」(『松本の話』9回)

 

 すると夕方須永の母が突然矢来へやって来た。

 

 姉は僕の顔付から直覚的に影響を受けたらしい心細さを額に刻んで、「恒さん、先刻市蔵が此方へ上った時、何か様子の変った所でも有りゃしませんでしたかい」と聞いた。

「何そんな事があるもんですか。矢っ張普通の市蔵でさあ。ねえ御仙」

「ええ些とも違って御出じゃありません」

「わたしも左うかと思うけれども、何だか此間から調子が変でね

「何んななんです」

「何んなだと云われると又話しようもないんだが」

「全く試験の為だよ」と僕はすぐ打ち消した。

「姉さんの神経(きでん)ですよ」と妻も口を出した。(同9回――「御多代」は漱石の意を汲んで「御仙」に改めた)

 

 松本は市蔵にしゃべった。そのことは御仙には伝わったようである。今や知らぬのは須永の母だけである。しかしそんなことが母一人子一人で20年近く暮して来た者に通用するはずがない。須永の母は『停留所』で敬太郎とともに描かれたときより、明らかに洗練度合いを失っているようである。それで市蔵を平気で鎌倉から1人帰したり、一緒に暮らしていればすぐ気が付くようなことにもぼんやりしていられたのだろうか。

 

10回 箕面朝日新聞保養所

 漱石は朝日へ入社したとき『虞美人草』の中に「朝日新聞」という語を1ヶ所書いた。修善寺の大患のとき朝日には多大な恩恵をこうむった。その返礼の意味もあって漱石は『彼岸過迄』の大詰にきて、「今日朝日新聞にいる友人を尋ねたら」云々と書いた。義理堅いことであるが、市蔵は卒業試験が終わったところである。すでに朝日に就職しているなら、友人でなく先輩ではないか。

 漱石は『猫』で「読売新聞」を登場させている。それは金田富子付文事件の中学生(古井右武衛門)が相談に訪れ、寒月も来たので細君は雪江さんにお茶を持って行けと言う。

 

「雪江さん、憚りさま、之を出して来て下さい」

「わたし、いやよ」

「どうして」と細君は少々驚ろいた体で笑いをはたと留める。

「どうしてでも」と雪江さんはやに済ました顔を即席にこしらえて、傍にあった読売新聞の上にのしかかる様に眼を落した。細君はもう一應協商を始める

「あら妙な人ね。寒月さんですよ。構やしないわ」

「でも、わたし、いやなんですもの」と読売新聞の上から眼を放さない。こんな時に一字も読めるものではないが、読んで居ない抔とあばかれたら又泣き出すだろう。

「ちっとも恥かしい事はないじゃありませんか」と今度は細君笑いながら、わざと茶碗を読売新聞の上へ押しやる。雪江さんは「あら人の悪るい」と新聞を茶碗の下から、抜こうとする拍子に茶托に引きかかって、番茶は遠慮なく新聞の上から畳の目へ流れ込む。「それ御覧なさい」と細君が云うと、雪江さんは「あら大変だ」と台所へ馳け出して行った。雑巾でも持ってくる了見だろう。吾輩には此狂言が一寸面白かった。(『猫』10章終盤)

 

 これが本当の自然主義であろう。草双紙とも落語とも兄弟のように近い。読売新聞は3回出ている。朝日新聞の方は、調べてみると『野分』(高柳周作)に1回、『虞美人草』(井上孤堂)に1回である。『彼岸過迄』(須永市蔵)でちょうど釣り合いが取れる。と漱石が考えたとも思われないが、結果はそうなっている。

 ところでの引用文のもう1つの下線部分、「細君はもう一應協商を始める」であるが、協商は相談というほどの意味であるが、一應(一応)というのは、取り敢えずという意味以外では、現代ではまず使う人のいない、一回・一度・一遍、つまり回りくどく言い換えると、一対応・一応対・一応答・一回答といった意味の言葉である。恐るべき博識の猫と言わざるを得ない。

 

11回 明石からの手紙

 漱石は明治44年8月、朝日の講演旅行で関西を旅行した。大阪・明石・大阪と3泊した。箕面も訪れた。市蔵の関西旅行は卒業試験の了った明治44年6月下旬である。(くどいようだが、松本の語りは明治45年2月か3月のことと推測され、漱石がこのくだりを書いているのは明治45年4月である。)広島宮島まで足を延ばすという市蔵の計画の行方は、ついに分からずじまいになった。

 

 若葉の時節が過ぎて、湯上りの単衣の胸に、団扇の風を入れたく思う或日、市蔵が又ふらりと遣って来た。彼の顔を見るや否や僕が第一に掛けた言葉は、試験は何うだったいという一語であった。彼は昨日漸く済んだと答えた。そうして明日から一寸旅行して来る積だから暇乞に来たと告げた。僕は成績もまだ分らないのに、遠く走る彼の心理状態を疑って又多少の不安を感じた。彼は京都附近から須磨明石を経て、ことに因ると、広島辺迄行きたいという希望を述べた。僕は其旅程の比較的大袈裟なのに驚いた。(『松本の話』8回冒頭)

 

「いいえ、只気の毒なんです。始めは淋しくって仕方がなかったのが、段々段々気の毒に変化して来たのです。実は此所丈の話ですけれども、近頃では母の顔を朝夕見るのが苦痛なんです。今度の旅行だって、かねてから卒業したら母に京大阪と宮島を見物させて遣りたいと思っていたのだから、昔の僕なら供をする気で留守を叔父さんにでも頼みに出掛けて来る所なんですが、今云った様な訳で、関係が丸で逆になったもんだから、少しでも母の傍を離れたらという気ばかりして」(同8回)

 

 当初母と行くつもりだった関西旅行。その理由は一見明白であるが、市蔵はそれをまたの機会に取っておくのではなくて、母だけを除外して出かけてしまった。一人旅ならわざわざ関西くんだりまで出張らなくてもよかったのではないか。余計なお世話かも知れないが、松本も同意見である。漱石にはまた別の目的があったのだろうか。