明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 35

157.『須永の話』(13)――嫉妬の研究その驚きの研究発表


 市蔵とお作の疑似恋愛事件は、千代子と高木のそれに似せて、あるいはそれに対抗するため、漱石が無理矢理拵えたものであろうが、それに対する須永の母の警戒心を、漱石は故意に書かなかった、というのが前項小論の趣旨である。

 競争相手が出現することによって、異性に対する愛情に気付くことはある。あるいは愛情が生起することもある。
 市蔵の場合はそうではない、と漱石は言いたげであるが、その論旨は難解でなかなか理解されにくいようである。お作の場合はもっと分かりやすくなってはいるが、お作自身愛情を自覚するには至らない。教育が違う、と漱石は言いたいのであろうが、そこがまた物の憐れを誘う。
 市蔵がお作に対する罪と、須永の父が御弓(と須永の母)に対する罪と、どちらが大きいであろうか。漱石はどちらにも罪の意識があるようには書いていない。相手に対し気の毒であるとは思っても、自分が悪いことをした、自分が間違っていたとは思っていないようである。明治の男である以上、それは仕方のないことであろうか。

30回 高木はどうしたろう~安心立命の理論

 破裂の前の千代子の看護婦3題噺。

①「市さんには大人しくって優しい、親切な看護婦見た様な女が可いでしょう」(『須永の話』7回――これ自体は田口の母の発言であるが)

②(病気の千代子が市蔵に)「貴方今日は大変優しいわね」(同9回)

③「左様すると丸で看護婦見た様ね。好いわ看護婦でも、附いて来て上るわ。何故そう云わなかったの」(同30回)

「高木は何うしたろう」という問が僕の口元迄屢(しばしば)出た。けれども単なる消息の興味以外に、何か為にする、不純なものが自分を前に押し出すので、其都度卑怯だと遠くで罵られる為か、つい聞くのを屑(いさぎ)よしとしなくなった。夫に千代子が帰って母丈になりさえすれば、彼の話は遠慮なく出来るのだからとも考えた。しかし実を云うと、僕は千代子の口から直下に高木の事を聞きたかったのである。そうして彼女が彼を何う思っているか、夫を判切胸に畳み込んで置きたかったのである。是は嫉妬の作用なのだろうか。もし此話を聞くものが、嫉妬だというなら、僕には少しも異存がない。今の料簡で考えて見ても、何うも外の名は付け悪いようである。それなら僕が夫程千代子に恋していたのだろうか。問題がそう推移すると、僕も返事に窮するより外に仕方がなくなる。僕は実際彼女に対して、そんなに熱烈な愛を脈搏の上に感じていなかったからである。すると僕は人より二倍も三倍も嫉妬深い訳になるが、或はそうかも知れない。然しもっと適当に評したら、恐らく僕本来の我儘が源因なのだろうと思う。ただ僕は一言それに付け加えて置きたい。僕から云わせると、既に鎌倉を去った後猶高木に対しての嫉妬心が斯う燃えるなら、それは僕の性情に欠陥があったばかりでなく、千代子自身に重い責任があったのである。相手が千代子だから、僕の弱点が是程に濃く胸を染めたのだと僕は明言して憚らない。では千代子の何の部分が僕の人格を堕落させるだろうか。夫は到底も分らない。或は彼女の親切じゃないかとも考えている。(同30回末尾)

 看護婦の話は、その「親切」「優しい」というキーワードが千代子の責任問題にまで発展してしまった。市蔵は嫉妬の隠蔽が卑怯であると、このときすでに自覚している。その嫉妬が愛のせいというよりは、自身の我儘のせいであることにも気が付いていた。
 市蔵は自身の我儘を認めて嫉妬から自由になった。その我儘は千代子の親切のせいだとも言う。人が親切にすると相手は我儘になる。確かにそうではあろうが、そもそも自分の我儘なのは自分のせいではないかと、ふつうの人は思う。

31回 何故高木の話をしないのだろう~夜になるとまた別の疑問が

 しかし市蔵の研究は完成していなかった。市蔵は安心を得たのではなかった。

 僕が斯うして同じ問題を色々に考えているうちに、同じ問題が僕には色々に見えた。(同31回)

 これまで市蔵の懊悩に付き合ってきた読者は、このくだりで大抵匙を投げる。おそらく漱石の全作品中、『虞美人草』の有名な「九寸五分の恋が紫なんじゃない、紫の恋が九寸五分なんです」と並んで、(市蔵の方はあまり知られていないが、)最も読者の共感を得にくい表現であろう。
 しかし藤尾を煙に巻くのが目的の小野さんのセリフに対して、流石に市蔵は苦しみ抜いているだけあって、問題自体には具体的な解答を与えようとしている。これまでさんざん市蔵を悩まして来た嫉妬の問題に対して、嫉妬という概念を棄却したこの夜の市蔵の最終解答は、次のように何とも分かりにくいものとなった。

①千代子が高木の名を口に出さないのは、市蔵(自分)に対する遠慮・好意である。
②それに対する市蔵の不機嫌は、市蔵の精神的欠陥であり、市蔵は人と交際する資格がない。
③しかし千代子の態度を千代子の技巧・細工と見れば、千代子は高木を囮にして市蔵を釣ろうとしているのではないか。
④では市蔵を釣ろうとする千代子の目的は何か。
 A ゲーム(恋愛ごっこ)として市蔵を嘲弄する。
 B 市蔵が高木のようになるなら市蔵に靡いてもよいとする謎かけ。
 C 市蔵と高木が闘うのを見るのが単純に楽しい。
 D 市蔵にもう諦めろと最後通牒を突きつけている。

⑤市蔵は千代子が技巧で攻めて来るなら、あくまで戦うべきであると結論付けた。

 市蔵は嫉妬心で自分を責めることをやめて、千代子が自然であれば自分が悪いのだが、千代子が策を弄しているのであれば、自分は正しいから断固戦う、撥ねつけるというのである。
 自分の正邪が千代子次第というのは、本来無理な発想であろう。市蔵は当然眠れない。眠れないのはいいが、市蔵はこのとき故意にもう1つの可能性を見落としている。それは、

 E 千代子は真底(今のままの)市蔵に嫁ぎたがっている

 というサインである。日中母とともに帰京したときの「いいわ看護婦でも」という言葉は、千代子の許諾宣告以外の何物でもない。市蔵は怖くてそれを認めることが出来なかった。認めればあとは自分が決断するしかないからである。市蔵は(漱石同様)いくら理性を働かせても、自分で決めるという結論にだけは辿り着かない。
 それを身勝手ととるか、それとも自己の都合を超越した聖人ととるか、それは漱石の場合、一枚の紙の表裏のように、結局同じことなのである。