明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 36

158.『須永の話』(14)――女が亢奮すると男は冷静になる


第6章 破裂(全4回)

32回「旦那様も島田が好きだと屹度仰しゃいますよ」

「昨夕好く寝られなかったんでしょう」
 僕は千代子の此言葉に対して答うべき術を知らなかった。実を云うと、昂然としてなに好く寝られたよと云いたかったのである。不幸にして僕は夫程の技巧家(アーチスト)でなかった。と云って、正直に寝られなかったと自白するには余り自尊心が強過ぎた。僕は遂に何も答えなかった。(『須永の話』32回)

 朝食を済ますと昨日頼んでおいた髪結が来る。母が結っているのを見て、千代子も結ってみたくなる。(お作の銀杏返しに対し)島田に結う。漱石の読者はクライマックスの近いことを知る。

33回「大変美しく出来たよ。是から何時でも島田に結うと可い」

 僕は空威張を卑劣と同じく嫌う人間であるから、低くても小さくても、自分らしい自分を話すのを名誉と信じて成るべく隠さない。けれども、世の中で認めている偉い人とか高い人とかいうものは、悉く長火鉢や台所の卑しい人生の葛藤を超越しているのだろうか。僕はまだ学校を卒業した許の経験しか有たない青二才に過ぎないが、僕の知力と想像に訴えて考えた所では、恐らくそんな偉い人高い人は何時の世にも存在していないのではなかろうか。僕は松本の叔父を尊敬している。けれども露骨な事を云えば、あの叔父の様なのは偉く見える人、高く見せる人と評すれば夫で足りていると思う。僕は僕の敬愛する叔父に対しては偽物贋物の名を加える非礼と僻見とを憚かりたい。が、事実上彼は世俗に拘泥しない顔をして、腹の中で拘泥しているのである。小事に齷齪(あくそく)しない手を拱ぬいで、頭の奥で齷齪しているのである。外へ出さない丈が、普通より品が好いと云って僕は讃辞を呈したく思っている。そうして其外へ出さないのは財産の御蔭、年齢の御蔭、学問と見識と修養の御蔭である。が、最後に彼と彼の家庭の調子が程好く取れているからでもあり、彼と社会の関係が逆な様で実は順に行くからでもある。(同33回)

 唐突とも思える松本恒三論であるが、後段への伏線ともなっており、また最終話を松本に語らせるためにも、漱石はどうしても一言書いておきたかったのであろう。この目立たないところに書かれた文章が、たとえば『猫』の価値をさらに高めているように思われる。漱石は解らない解らないと藻掻き乍らも、自分のことはちゃんと解っていた。別の言い方をすると、もっと深く理解したいのにそれが出来ないというのが、漱石の苦しみであったろうか。贔屓の引き倒しに見えるかも知れないが。

 脱俗・超俗といっても、人は集団を離れては人として生きては行けない。詩人もまた俗界で人間の塵芥に口鼻まで浸かって、かろうじて残された器官だけを使って世間を「見て」いるのである。
 高等遊民といい太平の逸民といい、変人だの天邪鬼だのといっても、皆人の仲間である。漱石の人気の秘密はその底流のヒューマニティないしは諦念であろう。太宰治が「俗中の俗」と評したのは、この漱石の持つ揺るぎのない勁さである。ふつう詩人が死に絶える40歳付近まで我慢して、精進を続け、いきなり山頂に登り詰めた状態からスタートした漱石文学。それを下敷きにしようとしても、どだい無理な話である。漱石の作品を読んだだけでは彼の進化の過程は解らない。彼の努力の痕跡は誰にも見つけられない。(ドストエフスキィと違って)いくら作品を読んでも自己研鑽の参考にならないのである。真似すると自分を見失う。多くの作家が鷗外の方へ靡くわけである。

34回 破裂(1)~「貴方は卑怯だ」

 島田に結った髪を褒めたおかげで、市蔵と千代子の関係は修復されたように見えた。しかし市蔵自身が正直に何度も告白しているように、市蔵は千代子と結婚する気はないのである。その理由は明確には語られないが、市蔵の場合は親が先に決めてしまったことが一番大きい。市蔵は(漱石に似て)人の敷いたレールに乗るのが厭なのである。
 千代子の愛情を引き寄せたかに見えた市蔵であるが、うっかり高木の名を出したばかりに千代子の逆鱗に触れる。しかし千代子のブチ切れ具合に比して、市蔵は平静を保っているようである。

35回 破裂(2)~嫉妬の研究千代子篇

 千代子の言い分は、市蔵が千代子と結婚する気が無いのになぜ高木に嫉妬するかという尤もなものである。しかし市蔵はそれについては研究済みであるから、行きがかり上色を成すようには見えても、本心はそんなにショックは感じない。想定内というわけであろう。漱石の常套だが、このバトルもまた、始まる前にもう終わっているのである。
 もちろん「すべての女を欲する」というバルビュス(アンリ、『地獄』の)みたいな衝動は、男なら持っているかも知れない。しかし市蔵はその本質を欲求(感情)ではなく嫉妬(知性)に帰して、すでに解決済みであると自ら任じている。それは千代子には伝えようがないことなので、千代子はそれがまた怒りの本となる。女は知性でなく感情にのみ訴える、と漱石は言いたいようである。所詮喧嘩にならないのである。

 思ったことを何でも口に出来る。漱石自身が実はそうであることはさておき、そのように造型されている千代子の後継者は、明らかに『明暗』のお延であろう。千代子に責め立てられる市蔵のように、津田もまたお延に追い詰められそうになった。現存の作品では津田は何とか切り抜けたことになっているが、未完の結末でその決着が(別の形で)付くのではないかとする見方もあるようである。しかし私見では津田もまたこのときの市蔵のように、内心はそれほど影響を受けずに罵声を聞き流しただけで終ったのではないか。つまり津田とお延の直接のバトルはもう終了していて、あとは(津田 VS. 清子の続きは別として)、お延 VS. 吉川夫人、お延 VS. 小林を残すのみであると推測する。余談だが。

 さて『須永の話』はこれで終わりである。『彼岸過迄』を市蔵と千代子の物語とみれば、物語はもう終わっている。では最終話『松本の話』の意義は何か。読者は市蔵の血の秘密が最後のクライマックスと思うだろう。しかしこれは違うようである。松本は市蔵の血の秘密は秘密でも何でもないと断言している。『彼岸過迄』の連載最終回たる「結末」を読んでも、それは直接には触れられていない。『松本の話』は何を目当てに書かれたのだろうか。